4. 覚醒–睡眠遷移障害(Arousal–Sleep Transition Disorder)
目の前を漂っている水銀のような塊を見ていた。金属のような光沢を持ちながら、その球はゆらゆらと形を変え、上へ上へと移動していく。闇そのものではなく、黒く沈んだような空間の中には光もない。それなのにカイの瞳には、ほの淡く光を受けた気泡の表面が見えている。
水の中に漂っているのだ、と彼は気づいた。しかし同時に、これがなんであるのかを判別する意識が彼にはなかった。
―暗い……でも、冷たくはない。
言葉を発しようにも音にはならず、カイの意識は連続性を見失ったままの状態で、その歪な空間を揺蕩っていた。
―カイ、カイ……。そろそろ一度目覚めましょうか。
遠いのか近いのかもよくわからないところで声が聞こえる。水中のようにくぐもってはいるものの輪郭は酷くはっきりとしていて、それが記憶の奥底に眠る懐かしさの核というものにそっと指を触れたようだった。
―母さん……。まだ、僕を起こさないで。
―カイ、おはようございます。
唐突にクリアになった音声に、カイはハッとして目を開けた。
「はっ……はぁ……。」ぼんやりと発光する白い空間で、カイはゆったりとした椅子に座っていた。
呼吸を整えるために胸に手を当てると、心臓の鼓動が感じられるようだった。
―おはようございます、カイ。目が覚めましたか?
シーラの声が再び聞こえた。カイはまだ上手く状況を飲み込めないまま、視線を泳がせている。
「あぁ、おはよう……シーラ。えっと、バーチャル・ワールドのパーソナル・スペースだよね?」カイが確認すると、目の前にプラチナブロンドの女性の姿が現れる。
―その通りです、カイ。……お寝坊さんですね。
シーラはふふふと優しく笑った。カイはバーチャル・ワールドの中だと知っても、まだぼんやりとしている頭では上手く考えがまとまらず、ふわふわと漂っているシーラの顔を黙って見ている。
「あれ……、なんでバーチャル・ワールド?いつもならポッドで目が覚めるはずなのに。」カイが言うと、シーラは軽く目を細めながら答えた。
―それはですね……。あ、いけません。サラ・ファルツが、あなたに用があるようですよ、カイ。一度現実に戻りましょう。
シーラは何かを言いかけたようだったが、それについては全く触れずにカイに覚醒を促す。
「サラさんが?……なんだろう。」カイが呟く間に白い空間はゆっくりと溶けていき、またいつものようにポッドの中で目が覚めた。
「被験体0:バイタルチェックを開始します。」AIスーリの合成音声が、ポッドの中で話し始める。
「はぁ……ごほっ。」カイはいつもより強い頭痛を感じ、痛みから逃れるように体を丸めた。
―キュー!
アルファがカイの頭の周りをモゾモゾと動き回っているようだったが、そちらに意識を向ける余裕も彼にはない。
「Warning!Warning!」スーリの音声で繰り返される警告を聞きながら、カイの意識は次第にまた遠ざかっていく。
―カイ・ブライト?起きて!……スーリ、緊急対応の許可を出します。鎮静剤を投与して。
「了解しました。」ポッドの外から、サラ・ファルツの声が辛うじて聞こえる。
カイは頭と胸の痛みに耐えながら、スーリの緊急対応が始まるのを待っていた。やがてポッドがゆっくりと開き、隙間から針のついた管が通される。それはカイの腕に巻き付いているバンドの下を通ると、彼の腕に薬剤を投与する。
「はっ……ゲホッ。」針が刺さった感触で、カイは一度大きく胸をのけ反らせて咳をした。
「カイ・ブライト……!落ち着いて、大丈夫よ。バイタルサインは少しずつ安定してきた。そう、ゆっくり深呼吸をして……。」サラの声に従い、ゆっくりと呼吸を繰り返すうちに、先ほどまでドクドクと鳴り響いていた心音も少しずつ落ち着きを取り戻していくようだった。
「でも、やっぱり危ないわね……。ロシュカ・ルブランを呼ぶわ。」そう言うとサラは、リンク・スフィアでロシュカと通話を始める。
「ロシュカ・ルブラン?至急カイ・ブライトのポッド・ルームまで来てくれるかしら。……えぇ、そうよ。……アラートが鳴った?……ならすぐ来れるわね、了解よ。」カイの呼吸が少しずつ落ち着いていく中で、サラの声は張り詰めたように緊張している。
「大丈夫?……少し落ち着いてきたようね。……いいわ、そのままゆっくり呼吸を続けて。」サラはポッドの内部にいるカイの鎖骨付近に手を触れ、内部モニターでバイタルサインを確認しながら、彼に声をかけている。
―ヴィーン
遠くで部屋のドアが開く音がした。
「サラ研究長。カイ・ブライトの様子はどうですか?」ロシュカ・ルブランが到着したようだった。
「えぇ……。バイタル・サインは、今ちょうど落ち着いてきたところです。覚醒直後に神経系の過剰な興奮と、それに伴った心拍・呼吸・筋緊張の症状が出ていたので鎮静剤を打ちました。」
「そうですか……。えぇ、そのようですね。」ロシュカもまた、スーリから共有されたデータを確認し、何かを納得したようだった。
「おはよう、カイ・ブライト。……体調は、いかがかな?」ロシュカがポッドの中を覗き込むようにしてカイに尋ねる。
「あ……、はい。今はもう、大丈夫です。」カイは掠れる喉から捻り出すように返答する。
「ふむ……。しかし、まだ顔色が悪いな。スーリ、水差しを持ってきてくれ。」
「了解しました。」ロシュカの指示を受け、i-voの駆動音が遠ざかっていった。
「カイ、しばらくそのまま横になっていなさい。……スケジュールがないわけではないが、君は最低半日は安静だ。」ロシュカは淡々とそう告げた。
「……はい、そうします。」カイは大学の講義が頭に引っかかりながらも、渋々頷く。
「水差しをお持ちしました。」ちょうどi-voが戻ってきたところで、ロシュカはまず一度カイをゆっくりと起こし、リンク・スフィアと水の入ったグラスを順番に渡した。
カイは受け取ったリンク・スフィアを装着し、やや常温の水をゆっくりと喉に流し込むと、そのままロシュカに問いかける。
「あの……。」
「聞きたいことは分かっている。……今回の不調に関しては、我々ももう少し調べないといけないだろう。今は一旦忘れるといい。」しかし、ロシュカはカイの言葉を遮ると、端的にそう言った。
「ごめんなさいね。負担になるとは承知の上で、あなたに確認したいことがあるの。」様子をうかがっていたサラが、ロシュカに目配せしながらカイに尋ねる。
「はい……、なんでしょう?」
「うん……。あなた、昏睡状態の最中のこと、少しぼかして報告したでしょ?」サラの言葉に、カイは言葉を詰まらせた。
病院から退院し、ネオステラ・タワーに帰ってきた後、カイは研究者たちに昏睡中のことを色々と聞かれた。調査のために必要なことであるため、カイは概ね嘘偽りなく答えはしたが、ただ一点だけ、話すのを躊躇っていたことがある。
「責めているわけじゃないのよ?いえ、先に言ってくれれば、と思わないわけではないけれど……。」サラはカイの様子を見てか、フォローするようにそう言った。
「はい……、申し訳ありません。」カイは肩を落とし、少しだけ目を伏せた。
「誤魔化そうとしたわけではないんです。」
「分かっているわ。……でも、どんな些細なことでも、言ってもらわなければ困るのよ。」サラは毅然とした態度で話を続ける。
「あなた、昏睡中のドリーム・リンクで、ドライブ中毒者に会ったわね?」彼女の言葉に、カイはぐっと唾を飲み込みながらも、もう言い逃れはできないとため息をついた。
「はい……、その通りです。」カイの言葉に、サラはため息と共に頷き、ポッドの側から少し離れた。
―キュー?
カイを心配するかのように、アルファが彼の手に体を擦り付ける。カイはアルファのもふもふとした頭をそっと撫でると、所在なさげにポッドの縁に体を預け




