4. 夢の中の平穏
鋭い耳鳴りの後、カイは真っ白な空間に立っていた。ぐわんぐわんと視界が揺れて、カイは思わず座り込む。少しだけ吐き気がして、呼吸がうまくできなかった。自分は三角都市記念式典に参加していたはずなのだが、一体何が起きたのか。
時間も状況もまったくわからない中だが、休んでいたら少し冷静になってきた。耳鳴りは徐々に治っていき、視界の揺れも、吐き気も次第になくなった。カイは白い空間の中で立ちあがると、状況を理解しようと試みた。
あたりを見回してみても、ただ白いということ以外の情報はない。少し歩いてみたり、手をかざしてみたりしたものの、特に何も変わらなかった。ただ、足がつくということは、地面のある空間ということは確からしい。カイは小さくため息をつくと、ひとまず地面に座り込んだ。
「どうしようかな。」何もない空間に向かって呟きながら、先ほどまで何があったかをゆっくりと思い出してみた。
――さぁ皆さん、ドリーム・リンクを起動しましょう。『シープたちの微睡む夢の草はら』へ、ご招待いたします。
シーラの言葉の後、ドリーム・リンク接続の招待状が送られてきた。正しくはポップアップ――システムUIではあるのだが。それはアトリウム・ホールにいた全員に同時にポップしたはず。『承認』をタップして、そのあとは……。不意にずきりと頭が痛んだ。
『我々は、幸福な眠りを認めない。
夢に囚われた家族を返して!!』
あれは、どういう意味だったのか。意識が途切れる少し前、わずかに見えた声明に、カイは大きく目を見開いた。
「はぁ。」考えていても仕方がない、今はこの状況をどうにかしなくては。
カイは、三角都市記念式典の時のままの自分の服装を見て、リンク・スフィアがうまく起動するかを確認することにした。指を耳元に近づけると、リンク・スフィアの硬くて冷たい感触が指に触れた。
しかしおそらくこれは、精巧な仮想再現だ。研究の過程で様々な論文を読み、ネオステラ社の研究も把握しているカイではあるが、ワープ技術のようなものはまだ開発されていないはず。であるならば、この空間もまたバーチャル・ワールドということになる。リンク・スフィアの起動スイッチを軽く押すと、ローディングインジケータとともにホログラムUIが現れる。
「よし、機能は生きてる……。」ここがバーチャル・ワールドの中であるならば、ログアウトすればいいだけだ。
そうは思うものの、これまでのシープリンクドライブにおいて、このような事例は聞いたことがない、とカイは思った。白い空間は、ドライブ中のパーソナルスペースによく似ている。実際はこのデフォルト空間の中で、思うようにカスタマイズして楽しむものだが、カイはいつも自分の座る椅子や少しの家具だけを出すようにしていた。そうこうしているうちに、ゆっくりだったローディングインジケータも100%に推移した。
「ふぅ。」ほっとしたのも束の間、2つ目のインジケータが表示され、再度バーが動き始めた。
驚きつつも眺めていると、今度はすぐにマックスになった。
―ピロン
軽いSEとともに、新しいウィンドウが立ち上がる。流れているのはリンク・スフィアの再起動音声だ。さらにその後別のウィンドウがポップする。正常終了できなかった、シープリンクドライブのシステムアラートだった。
『システムが正常に終了できませんでした。
再起動いたしますか?
Yes / No 』
やはり、システムが不具合を起こして強制シャットダウンしたようだった。カイは迷わず『Yes』を押すと、システムが再起動するのを大人しく待つ。UIが軽く発光し、正常な機能を取り戻すための再起動を始めた。
「いいね、その調子。」システムが順調に動作しているのを見ていると、心なしか少し落ち着きを感じる。
そういえば、問題解決に集中していて気づかなかったが、今のこの状況はなかなかに異常だ。ドライブ中の自分の体がどうなっているのかもわからない。それに、式典パフォーマンスとして実行する予定だったのは覚醒中のドリーム・リンクであって、バーチャル・ワールドに遷移するような正規のドライブではないはずだ。そのことも含めて、あとで考える必要があるな、とカイは思った。
『 システム・リブート
ドリーム・リンクを再開します。』
「え?」カイは驚いて目を見開いた。
まさか、ドリーム・リンクが起動していた?そんなバカな。ドリーム・リンクは、シープリンクドライブの機能の一つで、パブリックなバーチャル・ワールドではなくプライベートでネットワークルームを作る機能だ。ネオステラ社広報に言わせると、特定の誰かと夢を共有する機能。しかし、この誰もいないバーチャル・ワールドの只中にあって、誰とリンクすると言うのだろうか。
『 ドリーム・リンク完了
夢の世界をお楽しみください。』
システムアナウンスとともに、目の前の景色が突然変わった。白い空間は上部からゆっくりと溶けていき、上部に『シティ・トライアングル――バーチャル・ベガ――』と看板が出る。
「ベガ?なぜ……。」カイはやや困惑したが、どこであれ正規のワールドへ復帰できるならそれに越したことはない、と考えを改めた。
徐々に現れていく世界の輪郭を見ていると、そこはどうやらカフェらしい、とカイは気づいた。赤茶色のレンガを模した壁に、天井から吊り下がるオレンジ色の照明、木で作られたテーブルと椅子のセットがいくつかあり、カイから見て奥の方にはレジの乗ったカウンターが設置されていた。室内にはほのかにコーヒーの香りが漂っているが、店内にはまだ誰の姿も見えなかった。
「え?」いまいち状況が掴みきれないまま、カイが周囲を見回していると、奥の方からパタパタと駆けてくるような足音が聞こえてくる。
「いらっしゃいませー!!」カウンター奥から飛び出してきたのは、エプロン姿の女性だった。
その女性は何か期待に満ちた表情でカイを見ている。ブラウンとピンクのギンガムチェックのエプロンに、薄手のニットトレーナー、そして黒い髪をきっちりと後ろで束ねており、とても親しみのある顔立ちをしていた。
「あの……、お客さんですよね?今はまだ開店前なんですけど、よかったらもう座りませんか?」女性はニコッと輝くような笑顔で言うと、カウンター席に来るようカイに促した。
「すみません、開店前だったとは、知りませんでした。」カウンター席に向かいながらカイが言うと、女性はタオルで手を拭きながら「気にしないで。」と答えた。
カイがカウンターの席に座ると、女性は水のグラスをカウンターテーブルに置いた。礼を言ってグラスの水を軽く口に含むと、いつの間にか乾いていた口内が潤っていく。窓の外を窺ってみると、まるで夜のように暗かった。
「ねぇ、ご注文をどうぞ?」ハッとして視線を向けると、女性が小さなメニューをこちらに渡している。
「あ……、えっと……。」カイが受け取ったメニュー表を見てみると、ブレンドコーヒーやウィンナーコーヒーのような一般的なコーヒーメニューと、手作りのケーキや焼き菓子が複数記載されていた。
「どうしよう……、ブレンドコーヒーと……、おすすめは?」カイが店員に目配せすると、店員は驚いたように目を丸くして、カイの瞳をしばらく見つめた。
「えっと……?」
「あ、ごめんなさい!なんかこういうの、久々で……。おすすめですよね!えーっと、何にしようかな。」女性はなぜだか楽しそうな様子でメニューを見つめている。
「あ、ねぇ、ブレンドコーヒーなんだけど、私のオリジナルでいいかしら?季節に合わせてブレンドを少し変えてるの!」
「あ、うん。それで、大丈夫。」砕けたような女性の口調に、カイは少し戸惑いを覚えたが、今は特に気にしないことにした。
「えっと、お菓子はね……、秋だから、栗を使ったパウンドケーキはどうかしら。これ、私の得意料理なの。」
「パウンドケーキが?」
「そう。昔っから、妹や弟たちに食べさせてたのよ。懐かしいなぁ……。」女性はしみじみとした様子でそう言った。
「じゃあ、それで。」カイが頷くと、女性はパッと花開くような顔で笑った。
「ありがとう。すぐに用意するから、くつろいでてね?」そう言って彼女は、再び店の奥へと引っ込んで行った。




