9. Warning
シーラとの面談を終えてロシュカと別れ、カイは自室へと戻ってきた。クローゼットルームで窮屈なディナー用のスーツをさっさと脱ぎ、用意してあったナイトウェアを持ってバスルームへと向かおうとする。
「お疲れ様です、カイ。お風呂に入った後ですが、寝る前に少しくつろぎますか?」クローゼットルームの前で、i-voに入っているスーリが言った。
「うん、そうしようかな……。今日は少し疲れちゃった。確認しないといけないものもあるし、リビングルームで作業しようかな。」カイはバイタル・ウォッチとリンク・スフィアを取り外しながら答える。
「承知しました。では、リラックス効果のあるホットティーを用意してもらうように頼んでおきますね。」i-voのフェイスモニター上でアイコンが2、3度点滅しているのを見るに、もう注文を出したらしいとカイは察する。
「仕事が早いね。」カイは特に理由もなく呟いた。
「はい。カイがお風呂に入っている間に持ってきてもらうよう連絡いたしました。簡単につまめるお夜食も一緒につけてくれると思いますので、ゆっくり入ってきてくださいね。」i-voのフェイスモニターがニコリと笑う。
「ありがとう。それじゃあまた後でね。」カイは簡易的にガウンをまとって、そのままバスルームへと移動した。
バスルームのドアを開けると、バスタブはすでに、バスソルトの入った薄紫のお湯で満たされていた。いつものことで、カイの行動から逆算してスーリが事前に準備しておいてくれるのだ。シャワーで適度に体を洗い、保温状態の湯に浸かる。ほんのりと香り立つラベンダーの香りを吸い込みながら、カイはゆっくりと目を瞑った。誰にも邪魔されない空間で、先ほどのことを思い出す。
―聞こえていますよ。
空中遊泳から戻った後で、シーラはコアの水槽の前に降り立った。
「これは失礼。」ロシュカがシーラに軽めの謝罪をする。
―構いません。人間の発想力の飛躍はとても興味深いものですから。
「いや、しかしこれはただの事故のようなものに過ぎない。」ロシュカが首を振って否定した。
―そうでしょうか。カイやルーディスのような心理的にフラットな方々ばかり見ていると、あなたのような思考の跳躍が激しい方はとても新鮮に感じます。
シーラの言葉に、ロシュカは少しばかり不服そうな顔をした。
―不服ですか?
「あぁ……、不服だ。だがシーラ嬢、その話はひとまず置いておくことにして、演算結果を頂戴したい。」ロシュカは感情を切り替えるようにそう言った。
―被験体0:カイ・ブライトについての演算データを出力します。
シーラはその場で両手を広げ、複数のホログラムモニターを展開する。半透明のモニターがシーラを中心にして浮いている。
―病状:Warning。人間の医療・研究チームの出した結論に概ね同意である、と述べましょう。
シーラもまた、ロシュカがカイに告げたものとほぼ同じ結果を出力したようだった。
「治る手立ては。」ロシュカが眉を寄せながらシーラに尋ねる。
―ありません。現状は。
シーラは端的にそう告げた。
「そうか……。いや、それは我々にもよくわかっていることだ。」
―はい。医療・研究チームはよくやっていると思います。本来であれば発症して2年後、10歳の段階で力尽きていても決しておかしくはありませんでした。技術の進歩を前倒し、カイ・ブライトを延命させたのはあなた方の立派な功績です。現に、シープリンクドライブやNSS-01 "Morpheus"に見られる技術は、多くの不眠症患者にとってよい治療法となっています。
「あぁ。」ロシュカは言葉を探しあぐねたように口をつぐんだ。
「だがいまだに活路は――。」
―はい。ですからそのための大型アップデートです。
「それはどういう?」ロシュカの言葉を受け、シーラはモニターの情報を入れ替える。
表示されたデータは、ネオステラ社のドリームリンクプロジェクトと、アンドロイドシープデバイスの普及についてのデータだった。
―ネオステラ社の一大プロジェクト――ドリームリンクプロジェクトによって、アンドロイドシープデバイスの普及率は、今や8割を超えています。
「持っていない方がおかしいくらいだな。」
―はい。これはリンク・スフィアの普及率とほぼ同率であり、今や立派なライフラインの一つと言えるでしょう。各社の労働環境も、社員がシープリンクドライブによって、寝ながら活動できる前提で組まれるようになりました。
「それが社会問題になりつつあるが。」ロシュカは苦々しいような顔をした。
―その通り。ですが――。
シーラは少し大げさに溜めを作ると、美しく微笑みながらこう言った。
―これで、もっとたくさんのデータが取れます。
カイはどこかうすら寒いような感覚になり、大きく息を吸って湯船の中へと顔ごと沈んだ。しばらく息を止めていると、次第に心臓がバクバクと早鐘を打ち始める。どこまでいけるか試したくなって、カイはもっとギリギリまで呼吸を止めようと試みた。
―ピピッ!!ピピッ!!
―カイ・ブライト。カイ・ブライト。至急応答してください。至急応答してください。自力でアラームを止めなければあと3秒で突入します。
―ピッ
カイはその、煩わしいアラートを即座に止めた。入浴中は、カイが端末を通じて注文しない限りはi-voも含め、誰も入ってこられないことになっている。しかし、カイに万が一のことがないように、こうして警報装置が仕掛けられているというわけだ。
カイはざばっと音を立ててお湯から出ると、シャワーで簡単に体を流し、そのままバスルームを後にした。
「カイ、先ほどアラートを検知しましたが、何か問題はありませんか?」カイが着替えて脱衣所を出ると、またしても出待ちしていたスーリがそう言った。
「あー、うん。平気。ちょっと遊んでただけだから。」カイは誤魔化すように言葉を返す。
「なるほど。ではエラー通知を取り消しておきますね。」スーリが言うと、i-voのフェイスモニター上で、またアイコンがチカチカと瞬いた。
「カイ様、お茶の準備が整いましたが、いかがなさいますか?」リビングでティーセットの準備をしていたリンが、カイの近くまで来て言った。
「あ、はい。すぐ行きます。」カイが答えると、リンは軽く頭を下げてリビングのソファの方へと戻っていく。
カイは、後ろで一つに束ねられている、リンの長い髪を目で追った。少し前まで、夜のお茶の準備はジルヴァが担当していたが、最近は後継教育も兼ねてリンが担当することになっている。リンはカイより少し年上の女性だが、ジルヴァと並ぶとほぼ孫と変わらない。しかしジルヴァに言わせると、彼女はハウス・スチュワードとしてとても筋がいいらしい。今はまだ見習いの立場だが、後を継ぐことはもうほぼ確定しているのだと言っていた。
「スーリ、バイタル・ウォッチとリンク・スフィアは。」
「はい、どうぞ。」カイが言うとすぐに、スーリはi-voの手に乗った二つのアクセサリを彼に手渡す。
「どうも。……リン、今日のメニューは?」カイはアクセサリをそれぞれ身につけ、リビングのソファに向かいながらリンに尋ねる。
「はい。本日の紅茶はルイボス・ビルベリーティー、お夜食は小ぶりのスコーンにコケモモのジャムを添えたものをお持ちしました。」リンが背筋を伸ばしてメニューを述べる。
「ありがとう。……あれ、もしかしてこのジャムってディナーの時の?」
「はい、その通りでございます。……よくお気づきですね。」リンは少し驚いたように目を丸くした。
「いや、なんとなくだよ。……でもこのジャム好きだから嬉しいな。紅茶はリンが選んだの?」カイがソファに座ると、充電ポートに座っていたアルファがトテトテと走ってきてカイの膝に飛び乗った。
「はい。担当が変わりましてからは、ずっと私が選んでおります。」リンは慣れた仕草でカップに紅茶を注いでカイに渡した。
「後はもう大丈夫ですよ。」アルファの背中を撫でながらカイが言うと、リンは丁寧に頭を下げる。
「では、私は失礼致します。また何かございましたら、お呼びくださいませ。」そう言うとリンは、給仕用のトレーを押しながら出ていった。
ドアが閉まるのを確認した後、カイはソファに横向きに足を上げて作業を始めた。小ぶりのスコーンは焼きたてなのかまだほんのりと温かく、ジャムの酸味がよく引き立つ。スコーンに吸われた口の中の水分を戻すべく紅茶を一口飲むと、すっきりとしたルイボスにベリーの酸味がこれまた爽やかな味だった。
―カイ、今日このあとバーチャルカフェで履修確認しましょ!
リンク・スフィアのホログラムウィンドウに、ソレアからのメッセージが表示される。
―了解。あとでね。
カイは簡潔に返事を返すと、ソレアからはOKサインのスタンプが送られてきた。放送中のニュースを表示したウィンドウを左側に配置して聴きながら、明日のスケジュールを確認していると、もう1件通知が飛び込んできた。
―おーい、もう寝た?履修登録とか、一緒にやんね?
それはハインからのメッセージだった。
―いいよ。ここに来て。
返信と共に、ソレアと一緒にいく予定のバーチャルカフェのリンクを送る。
―サンキュ!!あとでな!!
ハインの返信に対して、カイはグッドサインのスタンプを送った。




