森の中
息ができない。
胸の奥が焼けるように熱く、喉のひだは干からびて張り付いている。息を吸い込むたびに、ヒューヒューと情けない喘鳴が漏れた。
不格好に乱れる呼吸の音すら耳障りで、自分の醜態に吐き気がする。
けど、振り返るわけにはいかなかった。
殺意を孕んだ足音が、すぐ真後ろの草木を踏み鳴らしている。
――あと少し、あと少しで、着く。
視界の端に、鬱蒼と木々が茂る薄暗い森の入り口が見えてきた。
そこは、僕のウサギと作戦会議で決めた第二目標だ。
あそこで、あれに引っ掛けてやれば、タケルもやり返しにビビって辞めてくれるはず!
そうしたら、仲良くなって友達になろう。あいつもきっと友達になれるって言ってたし、、そうしよう。
「待てよ、ナツキ……! やっと追いついたぞよくもやってくれたな!」
タケルの狂気を帯びた怒号が、頭上から鉛のように重く降ってくる。
私は胸のなかの恐怖を無理やりねじ伏せ、息を切らしながら森のなかに飛び込んだ。
あらかじめ前日に入念に仕掛けておいた「浅い落とし穴」のすぐ手前でぴたりと足を止め、追いついてきたタケルに向かって、精一杯の怒りと、どこか震えた幼い声を張り上げる。
「もう! 僕をいじめるなよ!」
「なにいってんだ?ランドセルを川に投げ込まれたくらいで俺が参るとでも思ったか?教科書なんてまた買ってもらえばいいんだよ」
タケルが近づいてくる。あと少し、、、
「うわっ、、、」
狙い通りだ。
タケルは足元をすくわれ、見事に落とし穴に足を奪われた。ガシャリと泥を跳ね飛ばしてバランスを崩したその隙に、俺はさらに叫ぶ。
「もう俺につきまとわないで!」
「ふざけんな……! こんな、こんなので、俺がイジメをやめるわけねぇだろ!無茶苦茶にしてやるこれからもずっと、、、!!」
泥まみれで起き上がってきたタケルは、獣のようなゆがんだ笑みをうかべて、俺をじろりと睨みつけた。
あれ、、?こんなはずじゃ、、、こんなはずじゃない。タケルは驚いて逃げ出すはずなのに、、、
「お前のそのジメジメした匂いも、その卑屈な性格も、全部まとめて大っ嫌いなんだよ! お前みたいなのはよ、どうせ親や先生の服の裾にしがみついて、大人に守ってもらうことしかできないんだ」
その言葉を聞いた瞬間、頭の中で何かが決定的に、音を立てて崩れ落ちた。
え?
大人に守ってもらう?
ふざけるな。
そんなわけない。
家には毎晩のように酒臭い息を吐き散らす父親と、理由もなくヒステリックに皿を投げ割る母親しかいない。
そんな狂った大人たちに頼れるわけがないのに。
俺を救ってくれる人なんて、この世界のどこを探したって最初から一人もいなかったのに。
「……なにも、知らないくせに……!」
自分でも驚くほど、熱い涙がぽろぽろと、堰を切ったように頬を伝い落ちた。
そんな風に生きているつもりなんてないのに。
誰も俺の事なんか知ろうともしないのに、興味もないくせに、勝手に薄汚れた枠に嵌め込んで、見下してくるその態度が、どうしても許せなかった。
「親に頼るなんて、そんなわけないだろ……! 」
極限まで張り詰めていた頭のなかの糸が、プツンと乾いた音を立ててちぎれた。きっとタケルと仲良くなれると思っていた幻想だ。胸の奥底で燻っていた淡い期待の線が、一本一本あのハサミで切られていく。そんな感じがした。
私は足元にあったゴロゴロとした泥だらけの石を必死に掴み、泣き叫びながらタケルに向けて投げつけた。
「死ね、、、死ね!!!!死ね!もう二度と俺の前に現れないでくれ!
消えてくれよ、頼むからいなくなってくれ……!!
なんで俺ばっかりこんな目に遭わなきゃいけないんだ、、俺ばっかり、、俺ばっかり!!!!!」
「いてぇなあ、、、ぶっ殺してやる、、、」
逆上したタケルは顔を真っ赤に染め、右手に握りしめた鋭い金属のハサミをこれでもかと大きく振り回しながら、猪ように俺めがけて突進してきた。
「お前のその鬱陶しい顔が嫌いなんだよ! その生意気な目も、全部切り裂いて整えてやるよ!」
もみ合いになる。
どちらが先か分からない。
ただ、泥と汗と熱気でぐちゃぐちゃになった無様な泥仕合のなかで、タケルが勢い余って振り下ろしたハサミの刃が、生々しい音を立てて――彼の自分の手に、ぐさりと深く突き刺さった。
「うわあぁぁぁぁっ……! 痛い、痛い、痛いっ!!」
タケルが耳をつんざくような絶叫を上げ、血の噴き出る自分の右手を押さえてその場に崩れ落ちた。
私はそのおぞましい光景を目の当たりにし、ただその場に凍りついたように立ち尽くすことしかできなかった。
こんなつもりなかった。
血管の中の血が一気に引いていくような、脳内が真っ白に染まる凄まじい放心状態。
その時、放り投げたはずのランドセルのすき間から、ぞっとするほど冷ややかで、どこか甘ったるいあいつの声が響いた。
『大丈夫だよ、なつき。あれは正当防衛なんだから、誰も君を責めないよ。よかったね。いじめっ子はもういないよ、、、』
「……っ、俺のせいじゃない、、お前のせいだ、お前の言う通りにしたから……! みてみろ、こんなに血が出てる、、、死ぬ、死んじゃうんだ。きっと、、タケルは死んじゃうんだ!殺す気なんかなかったのに!!!」
正気を取り戻した私の背筋を、強烈な悪寒が駆け抜けた。
怖い。ただひたすらに怖い。
はやく、ここから逃げ出さなきゃ。
捕まる。
警察に連れていかれて、刑務所に入るかもしれない。
あんな親に知られたら、殺されるかもしれない。
胸のなかで、罪悪感の冷たい泥と、あの忌々しい奴を自分の手でねじ伏せたという歪んだ達成感が、ドロドロに混ざり合って息苦しい。
生温い冷や汗が背中を嫌な感触で伝う中、私はタケルとランドセルをその場に残し、一目散に森の奥へ駆け出した。
――でも、走れば走るほど、別の恐怖が心臓を冷たく締め付ける。
あんなこと、ウサギに言ってしまうんじゃなかった。いつも味方でいてくれたあいつになんであんなこと、、、
と言うか手にハサミが刺さったくらいじゃ人間は死なないよな。
もし、あの時怒り狂ったタケルが、あの血のついたハサミで、私をずっと暗い部屋で守ってくれていたあいつを、切り刻んでしまったら――?
「戻んなきゃ、、!」
いてもたってもいられず、私は肺が破れそうになるほど息を切らせながら、犯行現場へと狂ったように引き返した。
しかし、そこにタケルの姿はどこにもなかった。
代わりに広がっていたのは、薄暗い森の湿った地面に広範囲に散らばる、大量の髪の毛と、目を背けたくなるような生々しい血の跡。
「、、、え、、、、、、?」
惨たらしい血の海の中央で、あのボロボロのウサギだけが、タケルのハサミを両手でしっかりと抱えて、静まり返った森の中、プラスチックの目で、こちらをじっと見つめながら座っていた。




