ピカピカランドセル川
校庭での一件から、家路につくまでの記憶は曖昧だった。
まるで時間の糸がごっそり引き抜かれたかのように、気づけば自宅の玄関に立っていた。
「おかえり、なつき」
台所から顔を出した母親は、昨日と同じように歪んだ似合っていない笑みを浮かべていた。
僕は返事もせず、一目散に洗面台へ駆け込む。
服を脱ぎ捨て、泥がついたそれを急いで洗濯機に放り込んだ。
親に知られたら、何されるかわからない。
洗面台の鏡に映った自分の顔を見て、初めて自分が泣いていたことに気づいた。
頬には乾いた涙の跡が痛々しくこびりついていた。
僕はそのまま自分の部屋へ逃げ込み、暗い押し入れのなかに身を潜めた。
狭くて埃っぽい空間に閉じこもっていると、世界のすべてが止まってしまったような錯覚に陥る。
このまま時間が止まって、自分も消えてしまえばいいのに。
そんな黒い思考が頭をよぎったときだった。
胸元で抱えていたウサギが、ぞっとするほど生々しく掠れた声で囁いた。
『さくせんかいぎをしましょ、なつき』
「……すこしまって」
僕は押し入れから這い出し、机の引き出しからボロボロの自由帳と、先っぽが噛み砕かれて無惨に削れた鉛筆を引っこ抜いた。
熱心に、狂ったように計画をノートに書き殴る。ウサギの紡ぐ言葉を一つ残らず文字に落とし込み、僕は明日を待った。
翌朝、目が覚めたとき、胸のうちは妙な熱とやる気に満ちあふれていた。
俺には作戦がある。
このまえの母親が癇癪を起こした時も、ウサギの言う通りにしたら奇妙にうまくいったじゃないか。
だから今回もうまくいく。絶対に、あいつらをギャッと言わせてやるんだ。
登校しても、相変わらずクラスメートたちは俺を目もくれず、まるで透明人間のように扱った。
ただ、タケルだけは例外だった。
教室に入るやいなや、面白半分に嫌味をぶつけてくる。
だが、今の俺は無視を貫いた。
言い返さない。
なぜなら、本当の勝負は放課後だからだ。
しかし、その午前中の授業が酷く長く感じられた。
大好きな理科の授業ですら、普段なら秒速で過ぎ去るはずなのに、今日の時計の針は呪われたように重かった。
――はやく、時間はやく進んでくれ。
焦燥に焼かれながら耐え忍び、ようやく待ちに待った放課後のチャイムが響き渡った。
案の定、タケルがニヤニヤと卑しい笑みを浮かべながら近づいてくる。
「おい、なつき。お前、今日荷物係な」
「俺のも」
「俺のも頼むわ」
次々と、タケルに追従する二、三人の男子生徒たちが自分のランドセルを乱暴に俺の机へ積み上げていく。
俺は一言も文句を言わず、それらをすべて抱え込んだ。
「わかった、、任せてよ」
タケルたちから次々と押し付けられる重いランドセルの山を抱えながら、俺はわざとらしく作り笑いを浮かべた。
俺は従順な敗者の顔を作り、重荷を両腕でしっかりと抱え込んだ。
タケルたちの後を追うように、教室を後にする。
重荷を背負って歩き出す。
前を歩く彼らは、俺の存在など端から無視し、自分たちは低俗で、でも楽しそうな雑談に夢中になっていた。
重い。
あまりの重量に、革の紐が肩の肉へと深く食い込んでいく。
後ろ手に背負うことすらできず、あまりの重さに前に抱え込んだランドセルの群れを支える指が、痙攣したように小刻みに震えた。
『あとちょっと、あとちょっとなつき。あとちょっとで、、、』
自分のランドセルの中で、ウサギが甘く囁く。
「うん……」
あと少しで、第一目標である「あの橋」に着く。そこが、反撃の舞台だ。
やがて、川に架かるコンクリートの橋に差し掛かった。
俺はそこで足を止め、タケルたちを鋭く呼び止めた。
「ねえ、みんな。ちょっと待ってよ」
「んだよ、めんどくせえな。早く歩けよ」
「見てて。あのね、おもしろいこと、してあげるからさ」
「はあ? なんだよ、腹太鼓でもやるつもりかー?」
タケルが呆れたように鼻で笑ったその瞬間。
俺は抱えていたタケルたちのランドセルを、躊躇いなく橋の欄干から川へと放り投げた。
奴らから押し付けられた重い荷物を、橋の上から一気に放り投げた瞬間。
夕焼け空を背景に、宙を舞ういくつものランドセルが真っ赤な茜色を反射してキラキラと輝き出し、それはまるで、汚れた日常が祝福の宝石箱をひっくり返したかのような、俺にとってあまりに美しく壮大なランドセルのシャワーとなって、ピカピカの浅瀬へ吸い込まれていった。
しかし、その美しい光景をいつまでも眺めている暇はなかった。
振り返る間もなく、全速力でその場から駆け出した。
「……え?」
背後から、タケルの間抜けな声が聞こえた。
数秒の静寂ののち、事態を飲み込んだ彼の脳裡で怒りが爆発する。
「なつき……! おい、お前ら、早くランドセルを川から拾い上げに行けっ!!」
タケルは血相を変え、沸騰したような怒号をあげる。
「ふざけやがって……! 許さねぇ、あいつを徹底的にこらしめてやる! ボコボコにしてやる、、、!!」
激昂したタケルは、橋のたもとに転がっていた自身の筆箱から、鋭く光る金属のハサミをひったくり、逃げる俺の背中を猛烈な勢いで追いかけてきた――。
ここから、始まる。




