3話 ゴミ捨て場
目が覚めると、喉が乾いていた。
舌先を動かしても、上顎に張り付いた粘膜が、ぺりっと剥がれるだけで、唾液は出てこない。夢の中で叫んでいたのかもしれない。口の中には、まだウサギの布の繊維が引っかかっているような気がした。
台所から、珍しくまな板を叩く音が聞こえた。
俺は布団から這い出し、リビングへ向かった。母親が立っていた。いつものパジャマにいつもは着ないエプロンを掛け、フライパンを揺すっている。昨夜、包丁を振り回していたあの手が、今は菜箸を持っていた。指先が、小刻みに震えている。慣れないからだろう。
「おはよう、なつき」
母親が振り返った。頬に張り付いた笑顔は、まるで朝の光に溶け込むように自然だった。目尻に皺を寄せ、歯を見せている。だけど、目だけは腫れ上がっていて、赤く爛れていた。昨夜、泣きじゃくっていた目が。それなのに、声だけは明るく弾んでいた。
「今朝は目玉焼きにしたから、ちゃんと食べなさいね」
テーブルには、焦げ目のついた目玉焼きと、まだ冷めていない味噌汁が置かれていた。父親の椅子は、空いたままだった。座布団が、斜めにずれている。
「……お父さんは?」
「お仕事よ。朝早く出たの」
母親はそう言って、自分の珈琲を啜った。カップがソーサーに触れる音が、けたたましく鳴った。俺は無言で箸を動かした。黄身を歯で噛み砕くと、しゃりしゃりとかた焼き玉の嫌な食感が広がった。
食べ終わると、母親が立ち上がった。
「ほら、忘れ物ないように」
ランドセルを持ってきて、俺の背中に掛けようとする。その手が、一瞬だけ俺の肩に触れた。冷たかった。
「行ってらっしゃい」
振り返らずに、玄関を出た。春の陽射しが、目に突き刺さった。
自分の部屋に戻ると、ベッドの上にボロボロのウサギが転がっていた。
『今日はアテチと一緒に行きなさい』俺は躊躇わず、ウサギを手に取った。ちぎれかけた耳が、指に引っかかる。
ランドセルを開ける。教科書、ノート、筆箱。それらの一番下に、ウサギを押し込んだ。重い教科書で、ぐしゃっと押しつぶした。誰にもバレないように。
「ごめんね」
ランドセルを閉めると、背中に重い温もりが伝わってきた。中から、生き物の体温のような熱が、じんわりと背中に滲み込んでくる。
ランドセルが、いつもよりずっと重かった。中から、生き物の体温のような熱が、じんわりと背中に滲み込んでくる。
「行ってらっしゃい」
母親の声が背中に届いた。振り返らずに、俺は家を出た。
春の陽射しは強くて、目が痛かった。ランドセルの紐が肩に食い込んで、歩くたびに痛む。中でウサギが、小さく動いたような気がした。
校門をくぐると、ざわついた空気が押し寄せてきた。
教室には、まだ先生も来ていない。子供たちは、自分たちの小さな群れを作って、騒いでいた。俺は自分の席に座り、ランドセルを机の横に慎重に下ろした。
「なあ、なつき」
後ろから、低い声がした。振り返ると、黒川タケルが立っていた。嫌味ったらしいい声で喋りかけてくる。
「お前、今日も来たんだなあ、、、」
俺の肩越しに、タケルが鼻を鳴らした。
「匂いがついてんぞ。家の匂い。タバコと、ん?今日はましだな、、、でも、マジでキモいんだよ、お前の匂いと見た目」
俺は黙っていた。タケルは、もっと顔を近づけてきた。朝練で鍛えた、大きな手が、俺の机に置かれた。
「今日も例のあれ、たのむな」
タケルが、にやりと笑った。歯が、白く光った。
朝の会が終わり、一時間目の算数が始まった。先生は黒板に式を書き、子供たちはノートに写している。俺も鉛筆を動かしたが、肩越しに視線を感じた。振り返ると、タケルがこちらを見ていた。目が合うと、彼は舌を出して、首を横に切るような仕草をした。
合図だと思いノートをタケルにわたす。
「この問題わかる人!!」
「はい!!!」
タケルが自信満々に声を上げる
「この問題わかる人!!」 「はい!!!」 タケルが自信満々に声を上げる。
教師が満足げにうなずき、タケルを指名した。 「じゃあタケル、答えを黒板に書いてくれ」
タケルは勝ち誇ったような笑みを浮かべ、席を立つと、ついさっき僕から借りたばかりのノートをペラペラとめくりながら黒板の前に立った。 クラスの視線が彼に集まる。彼は「任せろ」と言わばかりにチョークを手に取り、迷いなく数式を書き殴っていった。
――しかし。 その様子を一番後ろの席から眺めながら、僕は冷や汗が背中を伝うのを感じていた。
やばい。 あいつ、気づいていない。 あのページ、僕が昨日の夜に居眠りしながら解いたやつだ。しかも、途中の符号を盛大に書き間違えていて、答えがまったくのデタラメになっているページだった。
「……あ」
タケルが自信満々に最後の一文字を書き終え、大きく息を吐き出す。 「先生、できました!」
教室中に響く誇らしげな声。 だが、黒板に書かれたその式を見た瞬間、教壇の教師の眉間がみるみるうちに険しく寄り、ピキリと静かに青筋が浮かんだ。
「……タケルくん」 「はいっ!」 「これ、どこをどう読んだらこの答えになるんだ?」
タケルは自信満々に振り返り、そして、自分の手元にある僕のノートと黒板の文字を交互に見比べた――その直後、彼の顔から血の気が一瞬で引いていくのが分かった。
教室の空気が凍りついた授業から、わずか数時間後。 休み時間になると、教室の空気がガラリと変わった。
「おい、なつき」
タケルが、俺の机に近づいてきた。ユウタと、もう一人、太った男の子が後ろに立っている。 「ランドセル、貸せよ」 「……何するんだよ」 「別に、見るだけだよ」
タケルが笑いながら、俺のランドセルを掴んだ。抵抗する間もなく、紐を引っ張られ、机から落とされた。ガシャン、と大きな音がして、クラスのざわめきが一瞬止まる。 「なに、入ってんだろ」
タケルがランドセルの口を開け、中身を床にぶちまけた。教科書、ノート、筆箱、体操服。それらが、床に散らばった。重い教科書が、ドサッと落ちる。その下から、ボロボロのウサギが、顔を出していた。 「うわ」 誰かが、息を呑んだ。 「なにこれ」
タケルが、ウサギを拾い上げた。片方の耳はちぎれかけ、縫い目はほつれ、中綿があふれ出している。テープでぐるぐる巻きにされた耳が、蛍光灯の下で不気味に光っていた。 「キモ。なつき、お前、こんなん学校持ってきてんのかよ。こんなのが出るとは思わなかったわあ、、、」 「わ、汚っ……」
三田村カオルが、きれいなリボンを揺らしながら、一歩下がった。 「ぬいぐるみ? ちょっと、なつきくん、子供じゃないんだから」 「なんだこれ、臭い。こいつ、洗ってないのかよ」
タケルが、ウサギを顔の前に突き出した。周りから、笑い声が漏れる。 「気持ち悪い。お前、もしかしてこいつと一緒に寝てんの?そりゃこの匂いなるわなあ」 「やめて……」
俺の口から、掠れた声が漏れた。 さっきの授業で恥をかかされた鬱憤を晴らすかのように、タケルの目が冷たく据わっていく。 「あ?」 タケルが、眉を上げた。 「何だよ、文句あんのか」
タケルは、ウサギの耳をつまんで、左右に揺すった。中綿が、ぽろぽろと落ちる。 「こいつ、ゴミだろ。ゴミは捨てなきゃいけないんだよ」
そう言って、タケルは教室の窓を開けた。二階だった。春の風が、どっと流れ込んできた。 「なあ、なつき。お前の彼女、空飛ぶぞ」 「やめて……やめてくれ……!」
俺が叫んだ。 タケルは、にやりと笑った。そして、ウサギを放り投げた。 ボロボロの体が、青空を舞って、校庭の木の下に落ちた。小さな音がして、それきり動かなくなった。
「あー、スッキリした」
タケルが、窓を閉める。 「おい、次の授業、何だっけ」 「国語だよ」 「あ、そうか」
タケルたちは、ランドセルの中身をぶちまけたこ事も、ウサギを投げ捨てたことも、何事もなかったように自分の席に戻っていった。周りの子供たちも、もう興味を失ったように、それぞれの席に着いていく。 俺は、床に散らばった教科書を、一枚ずつ拾い上げた。ノートの折れた端を、指でなぞる。誰も手伝ってくれない。誰も、こっちを見ていない。
ランドセルを背負い直すと、中が、いつものように軽くなっていた。冷たく、空っぽに。 俺は、ふらふらと立ち上がり、教室を出た。廊下を歩き、階段を下り、校庭へ向かう。
木の下で、ウサギは泥にまみれていた。片方の耳が、もう完全にちぎれかけている。目のプラスチックが、割れそうになっていた。 俺は、それを抱き上げた。布が、ぬるぬると湿っている。雨ではなく、泥だ。
「……ごめん」 小さく呟いた。
その時、頭の中で、かすかな声が響いた。 『……痛い』 ウサギの縫い目が、小さく震えている。 『でも、大丈夫。次は、アテチが……絶対に……』
声は、そこで途切れた。 俺は、ウサギを胸に抱きしめた。春の陽射しは、まだ強くて、目が痛かった。校庭は広くて、どこまでも空っぽで、誰もいなかった。 鐘の音が、遠くで鳴り響いていた。次の授業が始まる時間だ。でも、俺は立ったまま、ただ、ボロボロのウサギを抱きしめていた。




