出会い
母親の運転する車は、パチンコ屋の駐車場からそのまま薄暗い深夜のバイパスへと滑り込んだ。 「お腹空いたでしょ、なんか食べていこっか」 ご機嫌を直した母の気まぐれで、俺たちは煌々と光る24時間のファミレスのボックス席へと滑り込んだ。
テーブルに向かい合い、母はメニューをめくりながら何気ない調子で尋ねてくる。 「そういえばさ、学校のほうは最近どうなの? ちゃんと友達とかできてるわけ?」 興味もないの聞いてくる。「……別に、普通だよ」 「ふーん。まあ、変に浮いたことしなきゃいいけどさ。あんた、あの人に似てぼーっとしてるとこあるから心配なんだよね」 母はそれ以上深く突っ込むこともなく、ハンバーグセットを適当に注文した。俺は届いた料理を無心で胃袋に流し込みながら、さっきまで車内で感じていた狂おしい昂ぶりと現実の境界線をどうにか繋ぎ止めていた。
そうして腹を満たし、ようやくたどり着いた家は、相変わらず冷え切ったゴミ屋敷だった。
リビングに転がるのは、誰がいつ借りたのかも分からないパッケージの割れたDVDの山と、あちこちに置き去りにされた食べかけのピザの箱。そして、口をつけたまま放置されてなぜか白濁した飲みかけのペットボトルが、そこかしこで芸術作品のように積み上がっている。 時代の流れに取り残されたかのように、世間はすでに地デジの時代へと移り変わっているというのに、我が家の居間にはガタピシと分厚いブラウン管を突き出した古いテレビが、深夜放送の胡散臭いショッピング番組を無機質に映し出していた。
「はあ……本当に、いつ見ても汚い家ね帰るたんびに気分下がるわ。少しは掃除してよ」
玄関に散らばった靴を跨ぎながら、母親はげんなりとした溜息をついて小言を言った。 電気をつけるやいなや、彼女散らかったリビングの片付けを始める。その途中で、床に転がっていた父親のケータイを拾い上げたときだった。画面がふわりと光り、映し出された生々しい女性からのメッセージが、母の目に飛び込んでしまった。
「ねぇ、、これ、どういうことよ」
リビングの空気が、一瞬で氷点下に凍りついた。 ソファで昼間から飲んでいたであろう缶チューハイの空き缶に囲まれ、うつろな目をしていた父親が、びくりと肩を揺らす。 「……は? なんだよ、勝手に見るなよ」 「とぼけないでよ! この女、誰よ! また他の女?何回目なのよ!!!!」
泥沼の女性関係をきっかけにした、我が家でおなじみの醜い言い争いは、瞬く間に最高潮へと達した。 ヒステリックにキレた母親は台所へと走り、包丁を引き抜くと、それをギラギラと振り回しながら父を追いかけ回し始める。
「殺してやる! その女のところと同じ墓に入れてやるから座れ!」 「頭イカれてんのかてめぇ、いつも人の金で食わせてやってるんだろうが。黙って飯だけつくっとけばいいんだよこの金食い虫が!!!!」
ガシャリ、と床に散らばった空き缶が踏み潰される乾いた音が響き、怒号と殺意がリビングの空気を切り裂く。 さっきまでファミレスで満たしたはずの胃の腑が、冷たい恐怖でキュッと締め付けられる。 ――ここにいたら、いつか自分が巻き添えにされる。
反射的に、俺はいつも一緒のあいつを強く抱きしめ、リビングの隅にある暗い押し入れへと駆け込んだ。 ガタガタと震える手でふすまを閉め、息を殺して膝を抱える。外から聞こえる生々しい罵声と、床を激しく踏み鳴らす足音が、狭い空間に閉じこもった俺の耳を痛いほどに打った。
真っ暗な押し入れの中。 埃と古びたカビの匂いが鼻をつく中、俺は自分の腕の中でただ怯えていた。
……その時だった。
『ねえ、そんなところでブルブル震えてて、情っさけないの』
耳元で、ガサリと布が擦れる音と一緒に、呆れたような少女の声が響いた。 それは外の喧騒とはまったく違う。俺の鼓膜のすぐ裏で、まるで寄り添うようにして囁く、同い年くらいの女の子の声だった。
『怖いねぇ? よしよし、アテチがたすけてあげる。言う通りにしてみて、、、』
心臓が跳ね上がる。 声の主を見つめるまでもない。俺が両腕でしっかりと抱きしめている、このボロボロのウサギの縫い目が、まるで妖しく微笑むように小さく上下に動いていた。
「ひっ、、しゃ、、喋ってる」
喉の奥から、情けない引き攣った声が漏れた。
腕の中で蠢くそれを、反射的に放り投げそうになる。しかし、体が恐怖で硬直し、指先はちぎれかけたウサギの耳をまるで呪われたように強く掴んだまま離れない。
『こら、そんなに強く握ったら痛いじゃないのさ』
チクリと刺すような少女の抗議が、今度ははっきりと頭蓋骨の内側に直接響いた。
リビングからは、今にもドアを突き破ってきそうな勢いで、母の絶叫と父の怒号が叩きつけられている。
「このクソババア、本気で殺す気かよ、、!」
「そうよもう終わりにするのよ。あんたも私も、あの子も!!!!!!」
ガラスが割れる乾いた音が響き、床を激しく踏み鳴らす足音がこちらへ近づいてくる。
やばい。このままでは、この薄汚い押し入れのふすまをあいつらが開けてしまう。巻き添えになる、殺される、どちらにせよもう逃げ場なんてない。
『ねえ』
腕の中のウサギが、ふわりと熱を帯びた。
それはぬいぐるみ特有の冷たい感触ではなく、まるで生きている人間の皮膚のような、生々しい体温だった。
『早くしないとアンタのお母さんアンタのこと殺しちゃうわよ? 私の言うとおりにすればいいの。簡単なことだよ』
心臓が跳ね上がる。
声の主を見つめるまでもない。俺が両腕でしっかりと抱きしめている、このボロボロのウサギの縫い目が、まるで妖しく微笑むように小さく上下に動いていた
『ほら、息を吸って……まずは、お母さんを落ち着かせてあげるの。ね?まず、「お母さん、落ち着いて」って、そう言ってごらん?それからね、、』
俺は言われたように、そいつの操り人形になることにした。
恐怖で震える頭を揺らしながら、俺は押し入れのすき間から、ガタガタと細い息を漏らした。
「お、お母さん……落ち着いて、よ……」
掠れた、震え切った声だった。
だが、その言葉が外の空気をわずかに揺らした瞬間――リビングで暴れていた母親の動きが、ピタリと止まった。
包丁を握りしめて荒い息を吐いていた母親の背中が、びくりと硬直する。
俺は自分の心臓の音がうるさすぎるほどに波打つなか、ウサギから伝わる生温かい体温に背中を押されるように、お母さんに近づいた。
「大丈夫、痛くないわ。すぐ終わるから。なつきもこんな場所もう嫌でしょ。耐えられないでしょ。お母さんももう限界なの、、ね、おわりにしよう」
母親が血走った目をこちらに向ける。その冷徹な視線にすくみ上がりながらも、俺は腕の中のウサギに導かれるまま、床に転がっていた父親のケータイまで走って震える手で拾い上げた。
画面に浮かぶのは、見知らぬ女性から届いた生々しいメールだ。
『お母さんの、勘違いだよ……ほら、これを見てよ』
かすれた声でそう呟きながら、俺は母親にその画面を突き出した。
狂気と怒りそしてわずかな悲しみで満ちていた母親の目が、疑いの色を浮かべながら向けられる。――その瞬間だった。
画面の中で、青白い発光がひと際強く瞬いた。
文字の配列が、まるで意思を持つ生き物のようにぐにゃりと歪み、溶け出す。直視している間に、生々しい浮気文言の数々はみるみるうちに書き換わり、まったく別の文字列へと姿を変えていった。
そこにあったのは、見知らぬ女からの誘い文句ではない。
母親がもっとも、、最も見たがっていた、かつての父親の甘い愛の言葉―「いつもうまい飯作ってくれてありがとな。愛してる」
「…え……?」
母親の表情から、一瞬ですべての血の気が引いていく。
包丁を力なくおとした。
「なによ、これ……」
母親の乾いた声が、静まり返ったリビングにぽつりと落ちた。
ガタガタと全身を震わせながら、母親は俺の手にあるスマホの画面を凝視している。そこに映し出されているのは、かつて夫婦がまだ笑い合っていた頃の記憶の残滓のような、甘ったるく、そして今の現実からあまりにもかけ離れた嘘の言葉だった。
現実の泥沼から引き剥がされ、目の前にある「都合の良い幻」を突きつけられた人間は、こうも簡単に脆く崩れ去るらしい。
怒号を上げていた凶暴な母親の面影は消えうせ、そこにはただ、惨めな一人の女が立ち尽くしていた。
『ほらね? アテチの言うとおりでしょ』
クスクスと意地悪く、けれどどこか愛し気な少女の声が響く。
それはもうただの布きれでも、綿の詰まったゴミでもない。俺のすべてを知っていて、俺をこの地獄から救い上げてくれる絶対的な共犯者だった。
「あら、私勘違いしちゃったみたい、、ごめんなさいアンタ」
母親が崩れ落ちるようにその場に膝をつき、両手で顔を覆って声を殺して泣きじゃくった。
『ねえ、これで終わりじゃないよ』
耳元で、甘い囁きがさらに熱を帯びる。
『あのお父さんも、あのお母さんも、この家にある汚いものぜんぶ――綺麗にしてあげなきゃ。ねえ、そうでしょう?』
私はあなたの味方だよ、とウサギの頭部がこくりと動いたような気がした。
恐怖はいつの間にか霧散し、その代わりに奇妙なほどの静けさと、言うことを聞けばなんでも上手くいきそうな自信が胸の奥を満たしていた。
血の気が引いた両親のすぐ傍らに足を運んでいた。
俺の手が自然と伸びたのは、テレビの横のゴミ箱に立てかけられていた、埃まみれの古びた箒だった。
『そう、いい子。この人たちの気分が上がるようにお部屋を綺麗にしてあげましょ!整理整頓することで心も美しくなっていくものよ』
頭の中で少女が嬉しそうに笑う。
俺はボロボロのウサギを片腕でしっかりと抱え直し、
頭の中で少女が嬉しそうに笑う。
俺はもう片方の手で箒の柄を強く握りしめた。ふと、ウサギに目をやると――そこにいたのは、いつもの傷だらけのぬいぐるみなどではなかった。黒くぽっかりとくり抜かれた目の奥で何かがうねり、いじめっこのような生々しい笑みが縫い目に貼りついている。
見たこともない、おぞましい「顔」に変形していたそれを、僕は心臓の音を押し殺しながら、ただ、見て見ぬふりをした。
「にやあ」と、歪みきった笑みが、自分の唇にも張り付いていた。




