ハジメテ
俺の初めては、ウサギのぬいぐるみだった。
あれは、一番深く、一番こびりついている思い出。
「俺の初めては、ウサギのぬいぐるみだった」
あれは、一番深く、一番こびりついている思い出。
夕方から夜にかけて、我が家の日常は決まってパチンコ屋の駐車場から始まった。
「ちょっとすぐ出るから、車で待っててね」
母親はそう言い残し、財布とタバコを握りしめてきらきら大人遊園地に消えていく。その「すぐ」が二時間や三時間になるのは、もはや我が家では「すぐ」という言葉の定義が完全に歪んでいる、外のネオンをただ眺め続けるだけのながい勾留期間だった。
車内のエンジンは止まっていてすごく静かで、外の喧騒は分厚い鉄板とガラスを一枚隔てた向こう側で、低くくぐもった音としてしか届かない。
うっすら漂う古いシートの埃と、母親が残した微かなタバコの匂いだけがやけにリアルに鼻をつく。
外を見れば、視界のすべてがパチンコ屋の派手なネオンサイン――ピンクや黄色の毒々しい光に染め上げられていた。
そのド派手な光の奔流は窓ガラスを透過して車内へと侵入し、俺の頬や手のひらをピカピカとピンク色に、そして黄色へと、目まぐるしく不気味に照らし出していく。
助手席や後部座席で、俺はいつも一人ぼっちだった。
おもちゃを買ってもらえるわけでもない、ゲーム機があるわけでもない。車内に残された娯楽といえば、ダッシュボードの奥に転がっている使い古されたガムの包み紙くらいだ。
俺はその銀色の紙を指先で器用に小さく折りたたみ、細やかな紙飛行機をこつこつと作り上げては、薄暗い車内の空間へそっと飛ばしてみせる。しかし、それはすぐにシートの隙間や足元へと虚しく落ちていくのだった。
そんな暗くて娯楽のない空間で、俺にはある友達がいた。友達というか、一生離れられない運命の相手というか、世界の終わりをともに迎えるような、狂おしいほど愛おしい唯一の存在だった。それは母のウサギのぬいぐるみだ。
元々はいつどこで手に入れたのか。
――いや、思い返せばあれは、元々母親の持ち物だったはずだ。
母さんの小さな頃からの友人か、あるいは父さん以外の男からのプレゼントか定かではないが、後部座席にデンと居座るそれは、小学生の俺の上半身をすっぽりと覆い隠してしまうほどに大きかった。
あちこちの縫い目がほつれ、中綿は潰れた果物の様にあふれ出し、片方の耳なんてちぎれかけてテープでぐるぐる巻きに補修されていた。お世辞にも可愛いとは言えない、ただのボロボロの少し大きなぬいぐるみだ。
それでも、物心がつく前からずっと一緒だったそいつを、俺は安心毛布のようにいつも肌身離さず抱きしめていた。
やることがない。寒さか退屈さ、あるいは言い知れない不安から、俺は自分と変わらないほどデカいボロボロの顔見知りを無意識に強く抱きしめた。
モシャッ、と中のちぎれかけた綿が鳴る。
車内に満ちるのは、自分の荒い息の音という細い旋律と、鉄板の向こうから這い寄る外の重苦しい喧騒という不協和音が、奇妙に溶け合いながら濁った響きを奏でる、ただ一つの重苦しい合奏曲になっていた。
俺はなぜかいつもの事なのに言いようのない胸のざわめきを感じていた。
寒のせいか、空腹のせいか。
胸の奥がキュッと締め付けられるような、甘くて、少し苦しくて、頭がおかしくなりそうな感覚。
あまりの居心地の悪さと、どうしようもない高鳴りに耐えかねて、俺は手に持っていた顔見知りのボロボロの耳を、自分の歯でぎゅっと強く噛み締めた。
布の繊維が口の中に広がり、チリチリとした痛みが走り、どんどん口の中の水分をうばいとっていく。
なぜか、それが心地よくて耳の綿、目のプラスチック、首の糸のほつれ……順繰りと丁寧に愛でていく。
「さとみちゃん、、今日もすごくあったかいねすごく可愛、、、」
当時好きだった女の子の名前を囁き脳内でイメージするのは、親の行為を見たことがあった俺からすれば容易だった。普段はただの汚いぬいぐるみのそれは、さとみちゃんそのものにみえた。さとみちゃんは、俺の体温で温まっていただけのそれに、異性の温もりみたいなものを感じた。
今思えば――あれが、俺の人生における初めての「欲情」だったのだと思う。
対象が汚らしいぬいぐるみだったこと以外は、至って普通の男の子だったら誰にでもあることだとおもう。
ガチャっと、乾いた金属音が車内に響く。
外の空気が、ガラス越しの澱んだ熱気ごとドッと流れ込んできた。
「お待たせ! いやあ、今日はハマっちゃってさ!」
パチカスの母ちゃんが、少量の景品のお菓子を抱えてご機嫌に戻ってきたのは、それから数時間後のことだった。ついに車という檻から解き放たれ、俺は文字通り「釈放」される。
と、同時にあせってぬいぐるみを後部座席へなげとばした。
「怒ってるの?ごめんね遅くなって」
「遅いよお腹ぺこぺこだよ」
母親のヤニのべっとりついた喉から出る声、そして自分の焦っていることを隠すように出る情けない声、車のドアの隙間から入り込んでくるネオンの洪水と人のざわめきが現実世界へと俺を引き戻す。
だが、バックミラーを覗くと見える後部座席にデンと居座る巨大なあいつは、パチンコ屋のどぎつい光を浴びながら、今しがたまで交わしていた生々しい気配を隠すつもりもなく、俺を見つめている。
口の端に残ったウサギの繊維の感触と、よだれに濡れたほつれの生暖かい余熱を、俺は手の甲で雑に拭い去る。
「ほら、とりあえずこれでも食っときな。ファミレスでもいこう」
投げ渡されたキャラクターの描かれた安っぽいスナック菓子を受け取り貪りながら、俺はぐったりとした頭を車の窓に預け、流れる外の景色へと目を向けた。
エンジンが動き出し、さっきまであいつとしていた行為を悟られないように、そして自分で自分をごまかすように、俺は母とたわいのない会話を交わす。忘れよう、忘れなきゃ、、、
けど、もう一度開いてしまった扉はもう閉まらない。
喉の奥に残る繊維のざらつきと一緒に、あいつの気配は俺の脳裏に深く根を張ってしまった。
次の夜が、あの暗闇が訪れるのが、今は怖くて、でも、待ち遠しい。




