うらちょうぼ
チャン・ヨウシー(ユウキ)は、雑貨屋に偽装された掘っ立て小屋の前に立っていた。
店先に並ぶいくつかの籠には腐りかけた野菜が放り込まれており、キャベツの外葉には怪しげな褐色の斑点が浮かんでいる。
だが、チャン・ヨウシーの視界は別のものを捉えていた。スラムの四面八方から、無数の灰白色の細い糸がこの場所へと収束し、扉の木板を透過して、そのまま地下深くへと突き刺さっている。
ここに漂う願力の濃度は、少なくとも外部の――二十倍以上。
「神は人類を愛し、俺は帳簿の監査を愛する」
彼は心の中でそう呟くと、迷わず手を伸ばして扉を押し開けた。
軋んだ音を立てる木扉は、まるで長年メンテナンスを怠ったATMが、無理やり紙幣を吐き出しているかのようだった。
屋内に灯りはなかったが、『法目』を展開している彼にとって、静寂の闇など存在しないも同然だった。
チャン・ヨウシーは部屋の中央に鎮座する、一台の制式『願力抽出装置』を見つめた。あのグレイラット(灰鼠幫)が使っていた粗悪なガラクタとは比べものにならないほど、洗練された代物だ。
青銅の外殻には、ご丁寧に教廷の正式なシリアルナンバー(管理番号)まで刻印されている。
装置に近づく。彼の法目の解析によれば、この設備は完璧な三層レイヤーで構築された『願力洗浄』のモジュールだった。
* **下層(レイヤー1):** スラム全域から集束する数百本の灰白色の糸。――強奪された生命力のログ。
* **中層(レイヤー2):** コアに埋め込まれた聖遺物の破片。――生命力を暗紅色の純粋な願力へと精錬するフィルター。
* **上層(レイヤー3):** 洗浄された願力流。それは二つのルートに分岐していた。一本は腕ほども太く、床を貫いて地下の隠しノードへと直結し、もう一本はそれよりやや細く、内城区の特定の方向へと伸びて法目の限界の彼方へと消えていた。
「典型的な【関連当事者取引】だな」
チャン・ヨウシーは心の中で冷笑した。
「下層で搾取し、中層でロンダリングし、上層で配当を分ける。このビジネスモデル、前世の資本市場なら一発で禁錮二十年は手堅いぞ」
彼は腰を落とし、装置の青銅外殻に手のひらを当てた。
表面を走る願力回路が、まるで飼い慣らされた蛇のように、彼の皮膚の下で緩やかにのたうっている。
法目を凝らして観察すると、コアにある聖遺物破片の内部構造は、想像以上に精密だった。
(つまり、このデバイスは教廷から『合法』に配給されたものだ。少なくとも、それなりの上層部から正式な承認が下りているな)
チャン・ヨウシーの眉が不機嫌そうに寄る。
(少々、厄介な案件になりそうだ)
彼が立ち上がろうとした、その刹那――わずか〇・三秒の間に対感センサー(脊髄)が限界まで跳ね上がった。
振り返る時間すら惜しい。彼はしゃがんだ姿勢のまま、前方へとダイブした。
青銅装置のサークルを掠めるようにして一丈ほど転がる。その姿は、ダイニングテーブルから無様に滑り落ちた猫のようだった。
――轟音!
暗金色の闘気斬が彼の背中を紙一重で通り過ぎ、前方にあった木製の棚を真っ二つに両断した。
破裂した木片と願力結晶の残渣が散弾のように四方へ飛散し、エッジの尖った木屑がチャン・ヨウシーの左頬を切り裂いて、一筋の血のラインを刻む。
彼は片膝をついた姿勢で着地し、すでに右手の人差し指と中指を並べて構えていた。その指先には、極めて淡い金青色の光芒が明滅している。
闇の奥から、銀白色の『仲裁鎧』を身に纏った三人の教廷騎士が姿を現した。
アーマーの表面に走る願力ラインが暗闇の中で冷たく発光している。それはまるで、冬眠から目覚めたばかりの三匹の毒蛇のようだった。
彼らの胸部には教廷騎士団の『火焔紋章』が掲げられ、腰の制式長剣はまだ抜かれていないものの、剣柄に埋め込まれたルビーはすでに駆動を始め、不気味に輝いていた。
リーダー格は、体格のガッシリとした中年男だった。兜は被っておらず、剥き出しになった四角い顔には、左の眉から右の頬にかけて一本の悍ましい傷痕が刻まれている。まるで顔面で冬眠しているムカデのようだった。
「どこのドブネズミだ!」
傷痕の男の声は、胸腔の奥底から絞り出されたように、鉄錆の混じった掠れた響きを持っていた。
チャン・ヨウシーは立ち上がらなかった。回避した瞬間にすでに法目を全開にしており、瞳の奥の金青色の光が薄い水霧となって視界の全データをオーバーレイしていたからだ。
彼の視界において、三人の騎士はもはや剣を持つ兵士ではなかった。それは、無数の因果の糸によって編み上げられた『人間型の一時オブジェクト』に過ぎない。
三つの銀白色の仲裁鎧の間には、三本の太い淡金色のラインが接続されていた。
それらの糸は各アーマーのコアから伸び、リーダー格の胸甲の位置で一つに交束され、さらに太い一本の金線となって掘っ立て小屋の屋根を貫き、夜空の彼方へと消えていた。
(『願力共鳴装甲』か……)
(三つのアーマーで一つの願力プール(バッテリー)を共有し、防御力をスタックさせ、攻撃を同期させる。典型的な教廷の制式分隊編成だな)
傷痕の男が猛然と手を振った。「捕らえよ!」
二人の一階位騎士が同時に抜剣した。銀白の剣身に暗金色の願力ラインが走る。
彼らは左右から挟み込むように(ピンサー・アタック)距離を詰めてきた。
チャン・ヨウシーは一歩後退し、背中を青銅装置へと預けた。
左の騎士が先制を仕掛ける。剣鋒が風を切り裂き、鋭い咆哮を上げて彼の喉元へと直撃する。
右の騎士が寸分の狂いもなく追随し、剣先を斜めに跳ね上げて下盤の退路を完全にロックした。
チャン・ヨウシーに、それを正面から受ける気は毛頭なかった。
彼は身体を左側へと半歩スライドさせると同時に、右手の人差し指を空間に向けて小さく一閃した。
刹那、三つのアーマー間に構築されていた願力共鳴に、わずか〇・五秒の【同期ズレ(ラグ)】が発生した。
左の騎士の剣鋒が、チャン・ヨウシーの喉元からわずか三寸の手前で突如として完全に停止した。アーマー表面の願力ラインが、ショートした高圧電流のように狂ったようにスパークしている。
「な、何だと――!?」
左の騎士の顔が驚愕に染まる。
チャン・ヨウシーはその〇・五秒のブランク(隙)を見逃さなかった。身を屈めて二本の剣のデッドゾーンを潜り抜けると同時に、右手の手刀を突き出す。指先から三寸ほどの長さの『因果の刃(因果鋒)』を凝縮させ、右の騎士の剣柄にある願力回路に向けて、優しく一文字に切り裂いた。
――パキィン。
右の騎士の長剣が、中央から綺麗に破断した。
「クソがっ!」右の騎士は半截となった折れ剣を握りしめ、恐怖に顔を歪めて後退した。
傷痕のリーダーが激怒した。彼は両手で剣柄を鷲掴みにし、仲裁短剣を鞘から引き抜く。
剣身の暗金色ラインは目を刺すほどに光り輝き、まるで点火された血色の火焔のようだった。
「死ねぇっ!」
彼は地を蹴って踏み込み、仲裁短剣を満身の力で振り下ろした。
その一撃には、三階位騎士の全闘気が凝縮されており、剣鋒が通過した空間の空気は肉眼で視認できるほどの衝撃波となって圧縮されていた。
だが、チャン・ヨウシーは一歩も引かなかった。
彼の法目は、仲裁短剣に直結している因果のメイン・ラインを完全にロックオンしていた。
チャン・ヨウシーは右手の人差し指を突き出し、残された功徳の力をすべてその指先へとブースト(注入)した。指先には五寸もの長さに達する高密度の光芒が実体化する。
――因果鋒、射出。
金青色の閃光が無声の雷霆となって指先から放たれ、仲裁短剣と傷痕の男を結ぶ『因果の接続点』へと正確無比にパイルダー・オン(直撃)した。
――切断。
仲裁短剣が悲鳴のような金属音を上げた。剣身の暗金色ラインは、電源を遮断されたネオンサインのように激しく明滅したかと思うと、次の瞬間には完全に沈黙した。
傷痕の男の顔から、一瞬で血の気が引いた。
剣柄を通じて右腕へと逆流してきた莫大なエネルギーの負荷。経絡に沸騰した熱湯を流し込まれたかのような激痛に、男は人間とも思えぬ悲鳴をあげた。仲裁短剣がその手から滑り落ち、床に衝突して鈍い金属音を響かせる。
三階位騎士――機能停止(膝を突く)。
残された二人の一階位騎士は完全に魂を飛ばされ、這う這うの体で出口へと逃げ出そうとした。
だが、出口に立ち塞がったチャン・ヨウシーが法目を半開にし、二人のアーマーから伸びる因果の糸に向けて、人差し指を軽くピン(フリック)した。
二本の灰白色の糸が軌道を偏向する。
装甲の願力回路が瞬時にキャパシティをオーバーし、駆動ベルトを失った重機のように、重量のある金属甲片が互いに噛み合ってロックされ、二人の騎士を地面へと文字通り縫い付けた。
傷痕の男は顔を上げ、その瞳を恐怖と困惑で満たしていた。
自分がなぜ負けたのか、そのメカニズムが一切理解できないのだ。
剣で刺されたわけでも、闘気で圧殺されたわけでもない。まともな衝突すら、一度として発生していないというのに。
「お前……お前は一体、何者だ……」彼の声は壊れた風いごのように、ガラガラと掠れていた。
チャン・ヨウシーは答えなかった。彼は物好みにペラペラと手の内を明かすような三流の悪役ではない。
彼は男を無視し、掘っ立て小屋の奥へと歩を進めた。法目の解析によれば、その場所に『隠しアセット』が存在している。
チャン・ヨウシーが床板を引っぺがすと、そこには狭苦しい石階段が現れた。
傾斜の急な階段の壁には、いくつかのアウトデートされた(輝きの鈍い)照明石が埋め込まれており、蛍のような微光を放っている。空気中には、甘ったるい血の臭いが充満していた。
十尺四方ほどの地下室には、木製の棚や鉄の箱が整然と並べられていた。
棚の上にはガラス瓶が幾重にもパッキングされており、その中にはすべて暗金色の液体が満たされ、ボトルの表面にはラベルが貼られていた。
【豊穣之城教廷支部、丙等願力結晶、ロット番号:FT-217】
チャン・ヨウシーはその一本を手に取り、法目の下でインスペクション(検品)した。願力の純度は極めて高い。教廷の固有スタンプ(シグネチャ)は完全に剥離されており、まるで綺麗に洗浄された(ロンダリング済みの)現金のようだった。
彼は隅にある鉄箱へと視線を向けた。蓋が開け放たれた箱の中には、山のような紙の帳簿(元帳)が詰め込まれている。
一番上にある一冊の表紙には、こう記されていた。
――『鉄錆城貧民区願力徴収特別台帳、豊穣之城教廷支部監修』。
第一ページを開くと、そこにはお誂え向きの綺麗な大義名分が並んでいた。
『貧民信徒による自発的な願力寄付』、『日常運営および貧民救済資金』、徴収比率――『法定特別信仰税の十パーセント』。
だが、実際の『執行明細(実効データ)』のページに目を移した瞬間、数字は豹変した。
* **徴収比率:** 六割(六十パーセント)
* **不可帰属損耗(使途不明のロス):** 三割半(三十五パーセント)
そして最終ページには、暗金色のインクでこう決算されていた。
――『第三四半期のグレーインカム(灰色収入)は、グレゴリー副主教の個人承認口座へと送金済み。付帯:願力結晶四十枚』。
チャン・ヨウシーの瞳孔が微かに収縮した。(やはりな!)
さらに帳簿をめくる。累計の徴収願力は、すでに一万パ(パスカル)を超えていた。
「実に見事な【裏帳簿】だ」
彼は脳内の会計システムにしっかりとチェックマークを入れた。
「関連当事者取引の非関連化。典型的な利益供与だな」
帳簿を閉じ、地下室の最深部へと視線を走らせる。因果の視界の中で、一本の太い暗金色のラインがそこから伸び、床板を貫通して、内城区のある特定の座標へと直線的に射出されていた。その糸の太さからして、接続先の願力の出力は少なくとも三階位以上。
(川上の出資者か)
チャン・ヨウシーは脳内マップにピンを立てた。
(どうやらグレゴリーは唯一の大株主ってわけじゃないらしいな。だからこそ、俺を新しい人材プール(手駒)としてストックしたがったわけだ)
彼はそのラインを辿り、最深部の石板の下から手のひらサイズの水晶プレート(デバイス)を発掘した。プレートの表面には、緻密な願力回路のネットワーク図が刻まれている。
神識(意識)をプラグインすると、無数の願力のフローチャートが彼の識海へと流れ込んできた。
その巨大な利権ネットワークの頂点に、三つの名前が並列でコミットされていた。
* **グレゴリー・フォン・クラウディウス:** 持株比率四十パーセント
* **カイル・フォン・ラインハルト:** 持株比率三十パーセント
* **匿名出資者:** 持株比率三十パーセント
チャン・ヨウシーの手が、ピタリと止まった。
カイル――。
明日の本戦で彼と刃を交えることになる、あの三階位の大剣士。教廷が手塩にかけて育てる『次世代のスター(期待の星)』が、まさかこのグレーインカム(闇利権)の共同経営者の一人だったとは。
「おもしろい」
彼の口元に、冷徹な弧が描かれた。
「明日の対戦相手の【不正エビデンス(黒歴史)】を、今日のうちに監査できちまうとはな。これぞ『事前審査(予備手続き)』ってやつだ」
地下室を後にする時、三人の騎士は未だにそれぞれのアーマーにロックされたまま、床に転がっていた。
チャン・ヨウシーは彼らの息の根を止めなかった。どのみち彼らは自分の正体(ID)を掴んでいない。生かしておいた方が、教廷の視線を逸らすいいデコイ(目眩まし)になるからだ。




