ろうじん
チャン・ヨウシー(ユウキ)は、薄い掛け布団をアナスタシアの肩口へと優しく掛け直した。彼女の呼吸がひとまず落ち着いているのを確認してから、ようやく身を起こす。
彼女の顔色は、幾度も漂白を繰り返された古い紙のように白く、褪色した絨毯のファブリックの上に散らばる淡い金髪は、まるで雨に濡れた金の絹織物のようだった。昨夜の過剰なドロー(神力抽出)のせいで、彼女の神核に走る亀裂はさらに数分ほど広がっており、見るも無惨な状態だった。
彼は意識を識海の内视へと向ける。経脈の中を流れる功徳の備蓄は、今にも干からびそうな小川のように、細々と淀んでいた。
【功徳残高:0.8(1パにも満たない出力)】
これだけのプール(備蓄)では、完全な状態の『因果の鋒』を一回維持することすら、かろうじてというレベルだ。
彼は立ち上がり、膝についた埃を払って入り口へと歩き出した。やはり、根本的な功徳の調達先(リソース源)が圧倒的に不足している。
早朝の冷気が室内に流れ込んできた。そこには、この鉄錆城に特有の、石炭の煙の臭いと泥の生臭さが混じり合っていた。
チャン・ヨウシーが敷居を跨ぎ、最後の石段に足をかけたその瞬間――彼の動きがピタリと止まった。
枯れ井戸の傍らに、一人の人間が座っていた。
それは、酷く痩せこけた老人だった。元が何色だったかも分からないほど汚れた深褐色のローブを纏い、フードを深く目深に被って顔の上半分を隠している。フードから覗く顎には灰白の無精髭がびっしりと生え揃い、まるで霜に打たれた雑草のようだった。
彼の左目には薄汚れた布切れが巻き付けられており、その縁には乾いた血痕がこびりついている。
しかし、もう一方の右目は、濁った泥水に浸かった小石のようでありながら――同時に、その場に不釣り合いなほどの鋭敏さを秘めていた。
一本のねじくれた灰色の木杖が彼の肩に斜めに立てかけられており、杖の先には枯れた蔓が数巻き、その末端には拳大の石ころが結び付けられている。
老人は半ば崩れかけた石臼の上に胡坐をかき、手元でその蔓をゆったりと回しながら、石ころを宙で小さく旋回させていた。彼から漂う臭いは複雑だった。雨水、土埃、カビ、そして安物の麦酒が発酵したような酸っぱい饐えた臭い。
チャン・ヨウシーの『法目』は、部屋を出た瞬間にすでに起動していた。彼の視線がその老人に留まった途端、眉が自然と不快そうに潜められた。
(……読めない)
一見すると、ただの平民だ。闘気も願力も、微塵も感じられない。
だが、この世界の平民が願力を持っていないなど、あり得ない。この世界の人間は、生まれた瞬間から例外なく自身の『信仰口座』を開設させられているはずなのだ。
これは、チャン・ヨウシーが法目を手に入れて以来、初めて直面する異常事態だった。
「少年よ、そんな目でこの老いぼれを見るな」
老人が口を開いた。その声は、紙やすりで生鉄を削ったかのようにひどく掠れていた。「老いぼれは美女じゃてな、見つめても何も出んぞ」
彼は顔を上げることなく、ただ手元の蔓を回し続け、朝の寒風の中に石ころで単調な弧を描かせている。
「……あなたは何者ですか?」
「クズ拾いさ」
老人は木杖で石臼の縁を「トントン」と小気味よく叩いた。
チャン・ヨウシーは右手の人差し指と中指を微かに揃え、指先に極めて淡い金青色の輝きを隠すように宿らせた。
功徳は底をつきかけているが、もし相手に敵意があるならば、最低でも一太刀(一閃)は絞り出す覚悟だ。
「力を抜きなされ」
老人はまるで背中に目がついているかのように、枯れ木のような手を軽く振った。「ワシがお前に害をなそうと思えば、お前が昨夜泥のように眠りこけている間に、とっくに冷たい骸になっておるわ」
彼がようやく顔を上げた。その濁った右目が、真っ直ぐにチャン・ヨウシーを射抜く。
「綺麗な金色の糸じゃが、いかんせん少なすぎるな」老人は再び視線を落とし、手元の蔓を弄び始めた。「若者よ、そんな綺麗な糸一本を引っ提げて闘技場へ足を踏み入れるのは、おもちゃの剣を持って竜の巣に突っ込むのと大差ないぞ」
チャン・ヨウシーの瞳孔が僅かに縮まった。
(金色の糸……!)
それは、彼が戦闘中に練成する『因果の鋒』の外在形態だ。枯れ井戸の傍らに座るただの老乞食が、なぜそれを知っている?
チャン・ヨウシーは一息の間、沈黙した。
「……俺を知っているのですか?」
「知らんて」老人は頭を下げたまま、淡々と石を回し続ける。「ワシが知っているのは、もうすぐ死ぬ人間の顔だけさ。奴らにはな、特有の臭いがあるのじゃよ」
彼は言葉を区切ると、木杖を石臼へと「コツン」と力強く突き立てた。
「お前の手にあるその糸、使えるのはあと3回じゃ。3回使えば、お前は地面にひっくり返ってカラスに突っつかれるのを待つだけの存在になる」
チャン・ヨウシーの口元が微かに引きつった。
(達人だ……。間違いなく、規格外の達人だ!)
「……何か、アドバイスはありますか?」チャン・ヨウシーは訊ねた。
「アドバイス?」老人は手を止め、首を傾げた。その濁った右目の奥に、一瞬だけ老獪な狡猾さが閃く。「そんな大層なものは無い。だがな、お前に『数の数え方』を教えてやることはできるぞ」
「数の数え方……?」
チャン・ヨウシーの眼皮が跳ねた。――おいおい、冗談だろ。
それこそ、前世の俺の本職(監査領域)ではないか。
クソ親父、この俺――『公認会計士(監査師)』のプライドを挑発する気か?
老人は再び蔓を持ち上げ、石ころを中空で規則正しく旋回させ始めた。
石ころは振り子のように、一定の周期で綺麗な円弧を描いていく。
「こやつの動きに合わせて、呼吸をしなされ」老人が言った。
「何だって?」
「吸って、石が頂点に達する。吐いて、石が底に落ちる」老人の声はひどく低く、まるで古いバラッド(歌謡)を口ずさむかのようだった。「その光る眼で見るな。目を閉じ、呼吸に意識を合わせ、十まで数えるのじゃ」
チャン・ヨウシーは一瞬、躊躇した。
(これが老人の言う『数え方』か? 羊を数えて寝かしつける催眠術の類じゃあるまいな)
だが、彼は深く息を吸い込むと、その言葉に従って静かに目を閉じた。
吸気。石ころが最高点へと達し、蔓がピンと張り詰め、微かに「ギチ……」と軋む音が鳴る。
呼気。石ころが最低点へと落下し、慣性によって石臼の表面を「こつん」と軽く叩き、再び跳ね上がる。
――「一」
――「二」
――「三」
そして、七回目の呼吸を迎えたその瞬間、チャン・ヨウシーは明確な『異変』を察知した。
彼の『法目』は確かに閉じている。しかし、それとは全く異なる『別の知覚』が、暗闇の底から静かに覚醒し始めていた。
それは視覚でもなければ、聴覚でもない。より原始的で、肉体の本能に直結した『触覚』に近い感覚。
彼は、その石ころと地面の間に、極めて細い『何か』が繋がっているのを肌で感じ取った。
それは蔓ではない。蔓は単に見えているだけの物理的な媒体に過ぎない。
その下、通常の感覚では絶対に捉えられない深層のレイヤーに、ある『繋がり(リンク)』が存在していた。それはピンと張り詰めた蜘蛛の糸の如くに石のコアから伸び、地面へと真っ直ぐ突き刺さって、その石ころを「本来あるべき位置」へと強固にロック(固定)していた。
「……感じ取れたか?」老人の声が、暗闇の向こうから漂ってくる。
「……糸が、見える(感じる)」チャン・ヨウシーは掠れた声で応じた。
「そう、糸じゃ」老人の声に、微かな笑みが混じる。「お前の手にある金色の糸は、その繋がりを断ち切るための『刃』。だがな少年、刃そのものは大して重要ではないのじゃよ」
彼は一呼吸置き、石ころの描く円弧をさらに大きく広げた。
「重要なのは、まずその『糸』の存在を視認することじゃ」
チャン・ヨウシーは猛然と目を開いた。
開かれた瞬間、法目が自動でフルドライブ(展開)し、瞳孔の深淵で金青色の光流が渦巻く。彼は即座に、自分の手の周囲の空間を見下ろした。
(――いたッ!)
そこにあった。
彼の指先と、目の前にある机の表面の間に、肉眼では不可視に近い繊細な微糸が結ばれていた。実体ではない。エネルギーでもない。より抽象化された『因果の繋がり』。
彼の右手が「ここに存在するべき」であるが故に、その空間の座標と彼の手との間に、この一本のラインが生成されているのだ。
さらに視線を遠くへと走らせる。
石臼と地面の間にも、より太く、強固な一本のラインが走っていた。
石ころと蔓の間、蔓と老人の右手の間、老人と石臼の間――。
おびただしい数の無数の細糸が複雑に入り乱れ、巨大な蜘蛛の巣となって、この庭の全空間を完全に覆い尽くしていた。
一本一本の糸がすべて個別の『因果関係』を示し、その結節点のすべてが、『因(原因)』と『果(結果)』の交差点となっていた。
「これこそが、お前の持つ金の糸の、真の姿(仕様)じゃよ」老人はゆったりとした調子で言った。「それは刃ではない。お前をこの巨大なウェブ(因果の網)の内部へと引き摺り込むための『命綱』さ。網に張り巡らされたすべての糸を完全に監査できれば、お前は刃を振るう必要すらなくなる。――ただ、その糸を軽く一撥するだけで、断たれるべき因果は、ひとりでに崩壊する」
チャン・ヨウシーの呼吸が急激に荒くなる。
「呼吸を乱すな」老人の声がアンカー(錨)となり、拡散しかけた彼の意識を現実へと引き戻す。「見えたのは、あくまで第一フェーズ(一歩目)に過ぎん。視界をクリアにしたくば、まずは網の中で正しく呼吸することを学べ。お前はこれまで金の糸を振るうたび、毎回息を止めておった(リソースを無理やり絞り出していた)。息の詰まった人間に、本質は見えんよ」
チャン・ヨウシーは再び目を閉じ、石ころのメトロノーム的なリズムに合わせて、深呼吸を再開した。
今度は、単に糸を「感じる」だけではなかった。糸の太さ、テンション、そして『色彩』といった、より詳細なデバッグデータ(細節)が脳内に流れ込んでくる。
ある糸は淡金色に輝き、安定して強固だった。それは揺るぎない絶対的な因果関係を示している。
ある糸は灰白色で、遊糸の如く細く、今にも破断しそうに揺れていた。
そしてまたある糸は、火に焼かれた鉄線の如くドス黒い赤色を帯び、極限まで張り詰められ――触れた瞬間に爆発しそうな危険なエラーステータス(一触即断)を示していた。
「見えたなら、テスト(試作)してみるが良い」老人が言った。「切断するのではない。ただ、軽く『撥』してみるのじゃ」
チャン・ヨウシーは目を開け、足元に転がっている一個の瓦礫(碎石)に視線を定めた。
新しくアップデートされた彼の視界(法目)の中で、その瓦礫と地面の間には、淡金色の安定した因果の糸がしっかりと結ばれていた。
彼は右手の人差し指を伸ばし、一筋の『因果の鋒』を極限まで薄く凝縮させると――その糸に向かって、爪弾くように軽く一撥した。
――サァァァ……。
瓦礫は、音もなく、微粒子となって完全に崩壊した。
【今回の功徳消費量:――ほぼゼロ(測定不能)】




