敵軍撃退
ドォォォン――!
リビングの左側を塞いでいた茨の壁が、ついに火油によって焼き破られた。貪欲な舌を思わせる炎が、3尺(約1メートル)幅の破れ口を舐めるように押し広げていく。
そこから、松明と短刀を手にした5人の打手が雪崩を打って突入してきた。
「殺せッ!」
先頭に立つ刀疤顔(傷のある男)が、残虐な笑みを浮かべて短刀を振り上げ、左斜め上から鋭く振り下ろす。
チャン・ヨウシー(ユウキ)は、身じろぎ一つしなかった。
ただ右手のハメ指(人差し指)を軽く弾く。その瞬間、指先から放たれた『因果の鋒』が、無心の飛刀の如くに射出された。
風を切り裂く音もない。目映い閃光もない。一切の誇張されたエフェクトを排した一撃。
刀疤顔は、ただ手元が突如として軽くなったような奇妙な感覚を覚えた。
彼が条件反射で視線を落とすと――そこにあった短刀は、すでに中ほどから真っ二つに断裂していた。先端側の刃が「ガラン」と虚しい音を立てて床に転がる。その断面は鏡のように滑らかで、切り結んだ痕跡も、熱で融解した形跡すらもなかった。
それはまるで、その刀が『最初から折れていた』という事象が、今この瞬間、より高次元のシステム(ルール)によって正式に『確定』されたかのようだった。
「な、何だと――」
刀疤顔が呆然と立ち尽くす。
そこへ二人目の男が、右側からロングスピア(長矛)を突き出してきた。
チャン・ヨウシーは半身を引いてそれを紙一重で躱すと、右手を剣の形に結び、空間を横一文字に薙ぐ。
彼の指の軌跡をなぞるようにして放たれた『因果の鋒』は、かき鳴らされた琴の弦の如く、矛の柄の中央を通り抜けた。
――サクッ。
スピアの柄が無音のまま二つに断たれる。
木材の繊維構造が内側から崩壊し、その断面には、焼き切られた蜘蛛の巣のような細密な金色の亀裂がびっしりと走り広がっていた。
「よ、妖術だ! 妖術使いだァ!」
三人目の打手が顔面を紙のように白くさせ、脱兎の如く背を向けて逃げ出そうとする。
しかし、その破れ口の向こうからヘットンの怒号が轟いた。
「逃げる奴は、俺が先にぶち殺すッ!」
ヘットンは『砕骨の戦槌』を引きずりながら、揺らめく炎の向こうから姿を現した。彼の右腕には未だ血の滲む包帯が巻き付けられており、茨によって切り裂かれた左顔面の傷が、その貌を一層狂暴に引き立てている。
「また新しい小細工か?」
ヘットンはチャン・ヨウシーの右手を睨みつけ、その瞳に一瞬だけ警戒の色を走らせた。だが、それはすぐにドス黒い激怒によって塗り潰される。
「お前のその妖術と、俺の戦槌――どちらが硬いか、白黒つけてやろうじゃねえか!」
彼は両手で戦槌を高く掲げ、願力回路を最大出力で起動させた。槌頭に刻まれた暗紅色の紋様が、網膜を焼くほどの眩さで発光し、まるで燃え盛る血の炎の塊と化す。
ドガァァン――!
戦槌が、空気を爆裂させるほどの風切り音を伴って振り下ろされた。
チャン・ヨウシーは正面から受け止める愚を犯さなかった。
彼の肉体スペックは低すぎる。どれほど強力な『因果の鋒』を持っていようと、正面衝突は自殺行為に等しい。
彼は後方へと急退避しつつ、同時に右手の指を連続で弾いた。二筋の『因果の鋒』が、交差するX字の軌跡を描いて戦槌へと殺到する。
一筋目の『因果の鋒』が、戦槌の表面を覆う『願力緩衝コーティング(バッファ層)』に直撃した。
そのコーティングは、まるで高級品の表面を包む安物の包装紙の如く、『因果のレベル』において戦槌本体との因果関係を強制遮断された。
存在の基盤を失ったバッファ層は、経年劣化で剥がれ落ちる壁紙のように槌頭から剥落し、暗紅色の光の粒子となって虚空へと霧散していく。
そして二筋目の『因果の鋒』が、戦槌のコアである『マージ・ノード(合併結節点)』を精密に狙い撃つ。
しかし、ヘットンの百戦錬磨の戦闘直感が、かろうじて彼の命を繋ぎ止めた。
コーティングが剥がれた瞬間、致命的な違和感を察知した彼は、強引にハンマーの軌道を捻じ曲げたのだ。『因果の鋒』はマージ・ノードの縁を辛うじてかすり、槌の柄の表面に、一本の浅い因果の亀裂を刻み残すに留まった。
「クソがッ!」ヘットンは愛槌に刻まれた亀裂を目にすると、驚愕のあまり顔色を激変させた。
闇市場で大金を叩いて仕入れた、あの絶対的な防御レイヤー(緩衝塗層)が、目の前のガキの、たった一振りの手慰みによって完全に剥ぎ取られたのだ!
「引けッ! 遠隔攻撃だ! 全員、間合いを置いて飛び道具を使え!」
ヘットンは狂ったように叫びながら後退し、同時に腰から闇市場製の煙幕弾を毟り取ると、地面へと叩きつけた。
ボンッ!
濃厚な灰黒色の煙が、一瞬にしてリビングの半分を完全に覆い隠す。
防壁の破れ口の外に控えていたボウガン手と投槍手が同時に引き金を引いた。弩箭と投げ槍が、煙幕の向こうから雨あられと降り注ぐ。
チャン・ヨウシーは奥歯を噛み締め、右手を空間で素早く振るった。
『因果の鋒』が、見えない軟剣のように彼の前方で緻密な防衛網を織り成す。
3本の弩箭が中ほどから切断され、2本の投げ槍がその柄を両断された。しかし、防ぎきれなかった一本の弩箭が彼の脇腹を鋭くかすめ、生々しい赤い血線を引いた。
功徳が猛烈なスピードで消費されていく。
2割1分……1割9分……1割7分……。『因果の鋒』を一閃させるたびに、識海にプールされた残高が急速に蒸発していく。
さらに厄介なことに、この『因果の鋒』の現存を維持するためには、功徳と同時に神力を並行消費せねばならない。アナスタシアの体内の神力はすでに4割近くを強引にデプロイ(抽出)しており、契約パイプの向こう側からは、カラカラに干からびた『枯渇』の振動が伝わり始めていた。
(あと五息……耐えろ!)チャン・ヨウシーは心の中でカウントダウンを刻む。
彼は右手を猛然と握り締めた。残されたすべての『因果の鋒』がその指先に収束され、5寸(約15センチ)の、実体化寸前まで濃縮された鋭利な鋒へと姿を変える。
そして彼は立ち込める煙幕に向かって、破れ口の方向へと一気に腕を振り抜いた(一閃)。
金青色の鋒芒が、無音の稲妻となってリビングの中央を水平に薙ぎ払う。
それが通過した瞬間、立ち込めていた灰黒色の煙幕は中央から綺麗に一刀両断され、裁断された黒布のように左右へと巻き上がって霧散した。
破れ口の外にいた2人のクロスボウ兵は、反応する間すら与えられず、手にした弩機が中央から綺麗に断裂した。
ヘットンの顔面が、今度こそ完全に凍りついた。
彼はチャン・ヨウシーの指先に宿る5寸の金青色のブレードを見つめ、次いで、自分の戦槌の上で今なおじわじわと侵食を広げている因果の亀裂へと視線を落とした。顔面の筋肉が、屈辱と恐怖で不随意に引きつる。
(これ以上やり合えば、仮に勝てたとしても、鉄砧会の残された精鋭がすべて溶ける(全滅する)。それに……このガキ、まだ奥底に凶悪な隠しカード(底牌)を握っていやがる)
「イヴァン・ヒューズ……」ヘットンは、その名を奥歯で粉々に噛み砕くかのように吐き捨てた。「このツケは、必ず耳を揃えて払わせてやるからな」
彼は身を翻すと破れ口から飛び出し、朝霧の向こうへと消え去った。
生き残った打手たちも這いつくばるようにしてその後を追い、リビングには、数人の重傷兵の陰惨なうめき声だけが後に残された。
チャン・ヨウシーは追撃しなかった。
膝の力が不意に抜け、身体が前方へと崩れ落ちる。激突する寸前、彼はソファの肘掛けを辛うじて掴んで己を支えた。指先の『因果の鋒』が「パツン」と弾けて霧散し、金青色の光は風に散る蛍の残火のように、空気の中へと完全に溶けていった。
経脈の中では、引き潮の如く神力が契約パイプを伝ってアナスタシアの体内へと逆還流していく。
【功徳残高:0.8割(8パーセント)】
チャン・ヨウシーは、自嘲気味に細く笑った。
帳簿上の数字は、すでに『技術的倒産(破産)』のデッドラインにまで急降下している。
彼は重い身体を強引に反転させ、ソファの上のアナスタシアを見つめた。
彼女の顔色は先ほどよりもさらに蒼白になり、まるで何度も漂白を繰り返された古い羊皮紙のようだった。
淡い金髪が冷汗で頬に張り付き、唇には一切の血の気がない。だが、呼吸は微かに、確かに続いており、胸元が小さく上下している。
チャン・ヨウシーは震える右手を伸ばし、彼女の頬にかかる一筋の髪を優しく払いのけた。
指先が触れた彼女の肌は、凍てつく寒玉のように冷え切っていた。
「すまない……」彼の声は、消え入りそうな煙のように儚かった。「またお前の資産を、勝手に調達(借)しちまった」
アナスタシアの瞼がピクリと微かに震えたが、彼女が目覚めることはなかった。
窓の外では、まだ火の手がパチパチと音を立てて茨の残骸を噛み砕いている。
遠くの荒草地に転がっていた鉄砧会の敗残兵たちの呻き声も、バッテリーの切れたラジオのように次第にボリュームを落とし、やがて完全な沈黙へと帰していった。
東の空が、うっすらと魚の腹のような白さを帯び始める。
チャン・ヨウシーはソファの肘掛けに背を預けたまま、天井に走る不格好な亀裂を見上げていた。
半分欠けたガラス窓から差し込んできた朝の光(朝曦)が、血と泥に汚れた彼の顔に、斜めの一筋の光斑を落とした。
彼は意識を識海の内視へと向け、玉冊のページに新しく刻まれた、暗金色のテキスト(システムログ)を確認する。
――『因果の鋒』――
『功徳を錨とし、因果の線を固定する。神力を鋒とし、存在の基盤を断絶する』
『現在の境界:初成。錬成可能な鋒芒の最大長は5寸。出鋒(スキル発動)一回につき、最低0.3割(3パーセント)の功徳を固定消費』
『次の段階:小成。解放条件:功徳の保有残高が5割(50パーセント)以上、かつ、契約の深度が「魂の共鳴」に達すること』
(5割、か……)
チャン・ヨウシーは心の中で苦笑した。
現在の彼の『資産造血能力(リソース回復力)』では、あの聖堂の駅館を実家の裏庭代わりに使って毎日『監査』し続けたとしても、最低半月はかかる計算になる。
しかし、何はともあれ――彼はついに、相手の『聖遺物を破壊する』という限定的なカウンター以外の、能動的な単体攻撃手段(攻撃コマンド)を手に入れたのだ。
『因果の鋒』は、あらゆる万物の因果関係を直接切断できる。
これはつまり、今後、全身に一切の聖遺物を身に纏っていない生身の武者を相手にする局面になろうとも、彼が完全に無力な赤子(手短無杵)になることはないという証明に他ならなかった。
リビングの外の荒草地では、一羽の灰色の雀が枯れ井戸の縁に舞い降り、首を傾げて地獄の如き惨状を見つめた後、羽音を立てて飛び去っていった。
チャン・ヨウシーは識海の中で、今しがたの戦闘を冷徹に復盤(バトルのリプレイ監査)していた。
『因果の鋒』のメリットは明確だ。圧倒的な速度、絶対的な貫通性、そして因果レベルでの切断能力――通常の物理防御や魔法障壁では、事実上防御不可能。ヘットンが誇るあの高価な願力バッファ層も、因果の鋒の前では障子紙一枚の脆弱性に過ぎなかった。
だが、デメリットもまた致命的だ。燃費(消費)が最悪であること、射程距離が短いこと(最大でも十丈=約30メートル)、そして極限のコントロール精度(操作性)が要求される点だ。何より、やはり功徳をダイレクトに消費するため、現在の保有残高では、最大コンディションからでもせいぜい『2回半』しか撃てない。
(2回半、か……)彼は心の中で急速にコストを試算する。(ヘットンをハメる分には十分だが、カイルを相手にするとなると……これでは前菜にすらなりゃしねえな)
カイル・フォン・ラインハルト。聖堂(教廷)が英才教育で育て上げた最高のエリートだ。間違いなく、ヘットンのものより数段上の高階層聖遺物を所持しているはずだし、その闘気の純度や出力は、ヘットンの少なくとも3倍以上はあると見ていい。
チャン・ヨウシーは目を閉じ、識海の中に、一枚の新たな調書を展開した。
――『戦前監査調書(作戦監査底稿)』――
【資産の部】
・『因果の鋒』(初成、最大威力5寸、燃費最悪)
・功徳残高:0.8割(深刻な資本不足)
・『監査の線』(※聖遺物「裁決の刃」に対する有効性は現時点で未確定)
【負債の部】
・アナスタシアの神核維持費(デイリーの固定費支出)
・3日後の公式戦・カイルとの決闘(期日の確定した『確定債務(ハード負債)』)
【リスク要因(不確実性)】
・功徳の保有残高が圧倒的に不足。
・『因果の鋒』のスキル習熟度が低すぎる。
・カイルの「裁決の刃」が、因果レベルの攻撃に対するカウンター特性(脆弱性監査)を持っている可能性。
・アナスタシアの神核がクラッシュ寸前であり、これ以上の神力抽出(強制融資)は不可能。
すべての変数、すべてのパラメータ、すべてのリスクファクター。
それらを次々と、血のような赤色で塗り潰していく。
【要警戒(标红)】。
【要警戒(标红)】。
――【全項目、重大なリスク(全部标红)】。
彼はゆっくりと目を開け、地平線から這い上がってきた朝陽を見据えた。
「……緊急のデット・ファイナンス(資金調達)が必要だな」
彼は低く、そう呟いた。




