因果の鋒
チャン・ヨウシー(ユウキ)は、アナスタシアの華奢な身体を古びたソファへとそっと横たえ、ゆっくりと身を起こした。そして、その法目を窓の外へと向ける。
暗金色の茨によって築かれていた絶対防壁が、見る間に目に見える速度で薄れ、まばらになっていく。
(……やはりな)
彼は即座にその原因を弾き出した。
あの茨は、アナスタシアが自らの神力を注ぎ込んで強制融資(催生)したものだ。
彼女こそが根であり、源泉。この防壁という名の『プロジェクト』を維持するための『コア資産(核心资产)』そのものだった。
その彼女が昏睡し、神力のキャッシュフローが完全に遮断された今、茨の壁はすべての現金を抜き取られた『ペーパーカンパニー(空壳公司)』も同然。貸借対照表上の数字は、今この瞬間も猛烈な勢いで蒸発を続けている。
もって、あと二十息(約一分)――それだけで、この防壁は完全にデフォルト(崩壊)する。
窓の外から、ハットンの耳障りなしわがれ声が響いてきた。
「やはり限界か! おい、火油を用意しろ! 左の隙間から一気に流し込めッ!」
チャン・ヨウシーの心が、すっと冷え込んでいく。
(クソが……)
前世の投資銀行時代、危機管理の現場において、一つの鉄則があった。
――すべての正規の資金調達ルート(融资渠道)が閉ざされたとき、唯一の活路は『内部留保の流動化(盘活存量资产)』である。
帳簿上で眠っている、過小評価された非標準的な不良資産を再パッケージ化し、強制的に現金流へと変換するのだ。
今の俺に、どんな『内部留保』が残されている?
【功徳残高:2割1分】――少なすぎるが、まだ回せる。
【太乙剣気】――機能的な欠陥は顕著だが、『仕様変更(技術改造)』の余地はある。
【アナスタシアの神力】――彼女は気絶しているが、その神核の深淵にはまだ残余があるはずだ。
そして――二人の間で交わされた『債務再編契約(债务重组契约)』は、目に見えないパイプラインとなり、双方の貸借対照表を直結させている。
……待てよ。
チャン・ヨウシーの視線が、ソファに横たわるアナスタシアへと釘付けになった。
契約だ。
そもそも、あの『債務再編契約』の本質とは何だ?
それは、二つの独立した財務主体を一つに統合し、『連結決算主体(合并报表主体)』へと移行させることに他ならない。
双方の帳簿がすでに連結(並表)されているのだとすれば……それは、俺が一時的に相手の『個人資産』を流用(調達)できるということではないのか?
彼はソファの傍らに片膝を突き、右手をアナスタシアの胸元の上へとそっとかざした。
法目を内視へと切り替え、契約の絆を伝って、彼女の神核の最深部へと意識をダイブさせる。
視界に広がった金色の海は、前回見たときよりもさらに干からびていた。
海底の亀裂は広がり、海水は水溜まり程度にまで干上がっている。
しかし、その湖底の最も深い場所に、あの金青色の光がまだ確かに残っていた。それはすでに『払込済資本金(实缴注册资本)』として、彼女の神力と混ざり合い、一種の『第三セクター(混合所有制)』を形成していた。
チャン・ヨウシーは一瞬、躊躇した。
これ以上彼女の神力を搾り取れば、彼女の神核は今度こそ完全に粉砕しかねない。
この『資産移転(资产划转)』のサブスクリスクは極めて高い。金融の専門用語で言えば、中核子会社を担保に突っ込むようなものだ。一度債務不履行を起こせば、グループ全体が連鎖倒産(崩壊)する。
だが、窓の外からはすでに陶器の割れる鈍い音が響いていた。
茨の壁に火油が浴びせられ、鼻を突くような不快な甘い匂いが窓の隙間から流れ込んでくる。
ヘットンの部下たちの残虐な嘲笑が聞こえ、火打石がぶつかり合うカチカチという乾いた音が、まるで葬送の鐘のように空気を震わせる。
もう、猶予(時間)はない。
チャン・ヨウシーは目を閉じ、残された功徳の力をゆっくりと彼女の神核へと送り込んだ。
(すまない……)
心の中でそう呟くと同時に、彼は『逆向清算』のコマンドを起動した。
アナスタシアの神核の奥底から、一筋の金色の神力が強引に抽出され、契約のパイプを伝って彼の経脈へと流れ込んでいく。
その感覚は、まるで真っ赤に焼けた鉄パイプの中に、氷水を一気に流し込まれたかのようだった。
――激痛。
通常の経脈の痛みではない。二つのまったく異なるエネルギーシステムが、経脈という限定された回路の中で正面衝突を起こしたのだ。
東方の功徳は赤く焼けた刃の如く、西方の神力は毒を塗った氷の如く。二つの力が彼の右腕の経脈の中で互いに噛み合い、衝突し、狂い狂う。その激突のたび、まるで鉄槌で骨を何度も叩き折られているかのような衝撃が走った。
チャン・ヨウシーは短く呻き、額に青筋を一気に爆発させた。滝のような冷汗が顎から滴り落ちる。右手は制御を失って激しく震え、五指は痙攣したように不自然にねじ曲がった。爪が石の床を掻きむしり、キィキィと耳障りな音を立てる。
「耐えろ……ッ!」
彼は奥歯を噛み締め、精神力だけでこのエネルギーの拒絶反応を圧殺しようとした。
だが、通用しない。
神力と功徳の排斥反応は、彼の想定を遥かに超えて狂暴だった。金色の神力は彼の経脈の中で制御を失い、まるで脱缰の野馬のように暴れ回る。対して、彼の功徳の保有残高は少なすぎ、この野生の馬を『調教』するには圧倒的にリソースが足りなかった。
このままでは、ヘットンが手を下すまでもなく、彼自身の経脈が内側から爆裂する。
その時――。
ワン――。
識海の奥底に眠る玉冊が、低く重い共鳴音を放った。
玉冊の金の頁がひとりでにパラパラと高速でめくれ、識海の中にその音が木霊する。そして、ある特定のページでピタリと止まった。
そのページは、完全に白紙だった。
しかし次の瞬間、何もない紙面に、文字が次々と浮かび上がってきた。
【因果の鋒】
チャン・ヨウシーの脳裏に、その四文字が自動的にインプットされる。
その下に記された注釈に、彼の瞳孔が猛烈に収縮した。
――『功徳を錨とし、因果の線を固定する。神力を鋒とし、存在の基盤を断絶する。二者は相反し、同時に相生ずるものなり。契約の法則を以てこれを一へと融合せしめば、因果の刃を鋳造できん。刃の届くところ、万物の因果はすべて切断される』――
そのさらに下方には、簡略化された新たな経脈の運行ルート(回路図)が描かれていた。
チャン・ヨウシーに熟考している時間はなかった。
彼は玉冊のナビゲーション(指引)に従い、右腕の経脈の中で二つのエネルギーを強制的に圧縮、融合、そしてモデリング(塑形)していく。
功徳が識海から溢れ出し、金青色の河となって右腕へと流れ込む。
神力が契約のパイプから逆流し、淡金色の支流となって同じ水域へと合流する。
二つの力は、玉冊の精密なバランシングによって、もはや互いを噛み散らすのをやめ、奇妙な法則性を持って互いに絡み合い始めた。
圧縮。
さらに、圧縮。
右腕の経脈は破裂寸前まで膨れ上がり、皮膚の表面には、発光する蜘蛛の巣のような細密な金青色の紋様が浮かび上がっていく。
チャン・ヨウシーの顔面は紙のように白く、噛み締めた唇からは血が滲んでいた。しかし、彼の右の人差し指は、ゆっくりと、確実に前方の虚空へと突き出された。
その指先。
わずか三寸(約十センチ)ほどの、小さな輝きが凝縮されていく。
それはあまりにも細く、繊細で、肉眼ではほとんど不可視の領域にあった。
――『因果の鋒』、錬成完了。




