困獣(くんじゅう)の闘い
ヘットンは片手でウォーハンマーを引きずりながら、一歩、また一歩と間を詰めてくる。その足取りが青石の床板を踏みしめるたび、鈍い音とともに浅い窪みが刻まれていった。
傷跡によって歪んだその両眸には、息子のブレントが見せていたような浅はかな興奮は微塵もない。そこにあるのは、獲物をじわじわと追い詰める猟師のような冷徹さと……異様なまでの『慎重さ』だった。
(……チッ、不味いな)
チャン・ヨウシー(ユウキ)の心が、すっと冷めていく。
彼は知っている、その目を。
前世の投資銀行時代、百戦錬磨のM&Aディレクターたちが交渉テーブルでこの表情を浮かべたとき――それは、対戦相手のすべての手札を完全に読み切ったことを意味していた。
ヘットンの奴、すでに俺の『監査ロジック(手段)』に気づいてやがるな。
「お前が使っているその妙なエネルギー……聖遺物を内側から崩壊させる力、だろ?」
ヘットンが低く濁った声で啼いた。
チャン・ヨウシーは答えない。
静かに剣訣を組み、指先から一筋の剣気を密かに射出。真っ直ぐに『砕骨の戦槌』の表面を走る願力回路の結節点を狙う。
だが、剣気が中空を半ばまで進んだその瞬間、ヘットンは手首を鋭く翻し、戦槌を横一文字に薙ぎ払った。
槌頭の表面に刻まれた暗紅色の願力紋様が爆発的に輝き、弧状の衝撃波が盾のように展開される。放たれた剣気は、その見えない防壁に弾かれ、虚しく上空へと跳ね上げられた。
キィィィン――!
かき鳴らされた琴の弦のように、空中できりきり舞いした剣気は完全に軌道を乱され、そのまま夜の闇へと霧散していく。
「やはりな」
ヘットンは口の端を歪め、タバコのヤニで黒く汚れた歯を剥き出しにした。「さっきの役立たずどもがどうやって死んだか、見ていて合点がいった。お前のあの奇妙な一撃、どうやら聖遺物の『回路』を直接ハッキングしているようだな」
彼は戦槌を持ち上げ、その巨大な槌頭でチャン・ヨウシーを指し示した。
「低階層の聖遺物なら、お前の目には脆弱性だらけに見えるんだろう。だが小僧、一つ忘れているぞ。――聖遺物はただの『システム(死物)』だが、それを扱う人間は『生き物』だってことをな!」
チャン・ヨウシーの瞳孔が僅かに収縮した。
(さすがは修羅場を潜り抜けてきた裏社会の首領だ。一発でこちらの本質を突きやがった)
手強い。これでは、遠隔からのシステムハッキングが通じない。
「行けッ!」ヘットンが左手を大きく振る。「まずはあのガキの妖術を枯渇させろ!」
外周を取り囲んでいた20人以上の打手たちが、一斉に圧力をかけてきた。
今度は最初のような烏合の衆ではない。綺麗な三列縦隊を形成し、前列は盾と鉄棍を構え、後列はクロスボウに矢を番えている。まるで粗雑ながらも軍隊の訓練を受けた民兵のファランクス(方陣)のように、確実に包囲網を縮めていく。
チャン・ヨウシーは再び剣気を放ち、最前列の男の胸ポケットにある護符を正確に撃ち抜いた。
「――カァン!」
護符が爆裂し、破片が男の胸板へと突き刺さる。男は悲鳴を上げて崩れ落ちた。
だが、チャン・ヨウシーが次のコマンドを入力するよりも早く、第二波、第三波のボルト(弩箭)が風を切り裂いて殺到する。
彼は上体を限界まで後ろへ反らした。一発のボルトが鼻先をかすめ飛び、もう一発が背後の石壁に深く突き刺さって、矢尻がビィィンと不快な残響を立てる。
功徳が、燃えている。
70パーセント……65パーセント……60パーセント……。
脳内のバランスシート(帳簿)に刻まれた数字が、雪崩のようにスライド下落していく。
何より不味いのは、こちらの『処理効率』が著しく低下していることだ。
剣気による護符の破壊には精密なエイミング(照準)が必要だが、敵の陣形が分散しているため、先ほどのような連鎖爆発に巻き込むことができない。
こちらがワンバグ(一枚の護符)を処理するたびに、ヘットンの的確な指示によって後列からすぐに補填され、同時にあの戦槌から放たれる願力の波動が、まるで長距離砲撃のようにチャン・ヨウシーの立脚点を容赦なく削り取っていく。
ドォォォン――!
ヘットンの一撃がチャン・ヨウシーのわずか3尺(約1メートル)横の地面を爆砕した。目に見えない願力の衝撃波が津波となって押し寄せ、彼の身体を中空へと吹き飛ばす。
空中できりもみ回転しながら強引に受身をとり、着地と同時に二、三歩よろめいた。喉の奥にカッと熱い鉄の味が広がり、新鮮な血が口元まで込み上げてきたが、彼はそれを強引に飲み下した。
「ハッ、口ほどにもねえな!」ヘットンは戦槌を引きずり、一歩一歩と確実に間合いを詰める。「俺の『ボーンクラッシャー』を壊すんじゃなかったのか? ほら、やってみろよ!」
チャン・ヨウシーは奥歯を噛み締め、太乙剣気を三度射出した。
今度は打手ではなく、ヘットン本人をダイレクトに狙う。
しかしヘットンは防御の姿勢すら取らず、僅かに身を躱しただけだった。剣気は彼の革鎧の表面を虚しくかすめ、虚空へと消える。
(クソッ……剣気自体の単体攻撃力が低すぎる。最大出力のバーストを放つには、チャージ(聚気)する時間が必要だ。だが、今の俺に一番足りないのは、その『時間』だ!)
ヘットンが戦槌を振りかぶる僅かな隙を突き、チャン・ヨウシーは姿勢を低くして地を這うように突進。残された功徳のすべてを右拳に宿し、ヘットンの脇腹へと一撃を叩き込もうとした。
だが、ヘットンは冷酷に口元を歪めると、左の肘を容赦なく振り下ろした。
ガッ――。
チャン・ヨウシーの身体は、まるで叩き折られた丸太のように横飛びになり、枯れ井戸の石壁へと激しく激突した。
背中の肋骨がミシミシと嫌な音を立て、胸中を狂い狂う気血がついに抑えきれなくなる。彼は石壁に向かって真っ赤な血をぶちまけ、壁面に暗い血の花を咲かせた。
「ガハッ……ッ!」
彼は片膝を突き、右手で地面をかろうじて支えた。力を込めすぎた指関節が、真っ白に変色している。
【功徳残高:42パーセント】
なおも数字はリアルタイムで下落し続けている。経脈を流れる太乙剣気は、干からびかけた泥川のようになり、巡らせるたびに刺すような激痛が神経を苛んだ。
「親父、俺にやらせてくれ!」ブレントが狂喜乱舞しながら剣を引っ提げて突進してきた。その剣先は、明確にチャン・ヨウシーの右腕を狙っている。「まずその右腕を叩き斬ってやる!」
チャン・ヨウシーは掠れる視界の中で無理やり顔を上げ、絶望の淵で、最後の法目をあの戦槌へと走らせた。
(マージ・ノード(合併結節点)は……まだ生きている。あの材料ケチ(偷工減料)による構造的欠陥は、金庫の奥底に隠された不渡り手形(虚假合同)のように、確かにそこにある。あそこに触れることさえできれば、回路全体をショート(引爆)させられるのに……!)
だが、触れられない。今の彼の肉体スペックが弱すぎて、ヘットンの鉄壁のフロントラインを突破する術がない。
ブレントの凶刃が目の前まで迫る。月光を反射した剣鋒が、凍てつくような冷光を放ちながら振り下ろされようとした、その時――。
古城の方向から、地響きのような重低音が鳴り響いた。
それは地上からではない。大地の底、何百年も眠りについていた巨獣が突如として叩き起こされ、怒りの咆哮を漏らしたかのような地鳴りだった。
ヘットンの顔色が一変した。
次の瞬間、古城の壁の隙間、地盤の亀裂、さらには枯れ井戸の縁から、おびただしい数の【暗金色の茨】が狂ったように噴出した。
その茨は、前回遭遇したときよりも遥かに太く、狂暴だった。トゲの表面を流転する神力の輝きは、まるで闇の中に燃え盛る暗金色の炎の群れ。それが通過したコンクリートや青石には、深い爪痕のような傷が刻まれていく。
「な、なんだこれは――ッ!?」
「ギャァァ! 俺の足が、足がァァッ!」
前列の打手たちは回避行動すら取れなかった。人間の腕ほどもある太い茨が、毒蛇の如き速度で彼らの足首に絡みつき、鋭いトゲが肉を裂いて骨に達する。鮮血が一瞬にしてズボンを赤く染め上げた。さらに地底から杭のように突き出す茨の触手に足元をすくわれ、黒服のファランクスは完全に瓦解した。
最も茨の近くにいたブレントは、文字通り魂を飛ばさんばかりに絶叫した。一本の茨が彼の頬をかすめ、顔面に生々しい一文字の血線を刻む。彼は狂ったように悲鳴を上げ、四つん這いになりながら、なりふり構わず後方へと逃げ惑った。
「撤退だ! 撤退しろォォ!」ブレントの声はすでに涙に濡れていた。
「ふざけるなッ!」ヘットンは激昂し、戦槌を振り回して足元に迫る茨を力任せに叩き折った。
断裂した断面から、鼻を突くような鉄錆の匂いを含んだ暗金色の汁が激しく噴出する。
だが、折っても折っても、後から後から茨の触手は湧き上がり、それはさながら増殖を続ける暗金色の『樹海(海)』のようだった。ヘットンとチャン・ヨウシーの間に、物理的な絶対防壁を築き上げていく。
「何が起きてやがる……ッ!」ヘットンは歯をきりきりと軋ませ、戦槌で茨の壁を切り開こうとしたが、一本圧殺するたびに、その傷口から三本の新たな茨が文字通り『増殖』して押し寄せてくる。
チャン・ヨウシーは石壁に背を預けたまま、激しく肩で息をしていた。彼の視線は、荒れ狂う暗金色の樹海を飛び越え、古城の2階へと向けられる。
窓辺には、アナスタシアが立っていた。
両手を窓枠にきつく押し付け、淡い金髪を夜風に激しくなびかせている。その横顔はガラス細工のように白く透き通り、唇からは完全に血の気が失せていた。しかし――その氷ブルーの瞳だけは、恐ろしいほどにギラギラと輝いていた。それはまるで、薪を燃やし尽くした最後の残火が、消滅の直前に放つ、最も過酷で最も眩い烈光のようだった。
彼女の華奢な身体が、不意にグラリと揺らぐ。
「――おいッ!」
チャン・ヨウシーの瞳孔が、恐怖に大きく見開かれた。
彼は全身の激痛を頭から締め出し、経脈に残された最後の功徳を限界を超えてオーバードライブさせた。彼の身体は一筋の残像と化し、茨の僅かな隙間を縫うようにして古城の内部へと滑り込む。
アナスタシアの身体が、前方にゆっくりと倒れ込んでいく。
地面に激突する寸前、チャン・ヨウシーの腕が彼女をしっかりと受け止めた。
抱き上げた彼女は、まるで一枚の枯れ葉のように儚く軽かった。彼の腕の中に力なく預けられたその身体は冷え切り、額にはびっしりと冷や汗が浮かんでいる。唇は小刻みに震えているものの、もはや掠れた吐息すら発することができない状態だった。
(神力の完全なオーバードロー(過剰融資)か……!)
チャン・ヨウシーに迷いはなかった。彼はすぐさま左手を彼女の背中に当て、識海に残された僅か2割強の功徳を、決済システムを無視した【緊急のブリッジローン(つなぎ融資)】として、手のひらから彼女の体内へと一気に流し込んだ。
功徳の濁流が、彼女のカラカラに干からびた経絡へと流れ込む。それはまるで、凍てついてひび割れた水道管に温水を流し込むかのようだった。強引な神力行使によってズタズタに傷ついていた微細な経絡が、その金青色の光によって一行ずつ上書き(修復)されていく。
【功徳残高:21パーセント】
アナスタシアの呼吸が、次第に一定のテンポを取り戻していく。だが、彼女の意識が戻ることはなかった。
氷ブルーの瞳がうっすらと開かれ、焦点の合わない視線がチャン・ヨウシーの顔をぼんやりと捉えた。何かを言おうとしてその唇が小さく動いたが、結局、彼女はそのまま静かに瞼を閉じ、深い昏睡へと落ちていった。
チャン・ヨウシーは彼女を横抱き(お姫様抱き)にしたまま古城の中へと歩みを進め、1階ホールの色あせた古いソファへと、壊れ物を扱うようにそっと横たえた。
色褪せた絨毯のファブリックの上に、彼女の長い金髪が広がる。それはまるで、月光を浴びて淡い輝きを放つ、最高級のシルクのようだった。
窓の外では、夜風が相変わらず獣のようにすすり泣いている。
荒れ果てた芝生の上には、鉄砧会の残党たちが文字通り死屍累々と転がっていた。茨に足を貫かれた者、つまずいて腰を抜かした者……怨嗟の悲鳴とうめき声が、陰惨なハーモニーを奏でている。
ヘットンはなおも茨の壁の向こう側に立ち尽くしていた。その右腕には、トゲによって刻まれた骨に達するほどの深い裂傷があり、鮮血が滴り落ちている。だが彼は、その痛みを忘れたかのように古城の方向を凝視していた。その瞳の中には、狂気にも似たドス黒い殺意がメラメラと燃え上がっている。
「イヴァン・ヒューズ……」
地獄の底から響くような、怨念に満ちた声が漏れ出た。
「お前がいつまでその中に引きこもっていられるか……試してやろうじゃねえか」




