表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
異世界王朝育成―アレキサンダー大王の末裔―  作者: Y・T
第一章 ディアドコイ領脱出
3/8

003 紀元前312年 母バルシネ

猛は呼吸を整え、静かに告げる。


――死を待つか、それとも運命に抗うか。

選ぶのは――今だ。


「…………っ!」


ヘラクレスは、その場に崩れ落ちた。


指先が乾いた土に食い込み、喉の奥から絞り出すような喘ぎが漏れる。

祖母の無惨な最期、弟の絶望的な幽閉。


猛が淡々と突きつけた「一族の末路」は、彼が平穏という名のまゆの中に隠していた事実、鋭利な刃で切り裂いたのだ。


「……運命に抗う、だと? どうやって……。母上はいつも、父上の家臣たちは恐ろしい、決して目立ってはいけないと言っている。彼らが私の命を狙っているなら、どこへ逃げても同じだ。監視もいる……逃げ切れるはずない……!」


ヘラクレスの叫びは、夕闇に虚しく響いた。


――戦えとは言っていない。


その声は、崩れ落ちた少年の背にそっと手を置くように、静かに降りた。


――お前はまだ狙われていない。

 彼らの目は、正当後継者である異母弟アレクサンドロス四世に向けられている。今なら逃げられる。生き延びる道は閉ざされてはいない。


ヘラクレスの肩が、わずかに震えた。

絶望の底に沈みかけた心に、細い細い光が差し込む。


「逃げる⋯⋯いったい何処へ?」


――西方のローマだ。


その名が告げられた瞬間、ヘラクレスの瞳がかすかに揺れた。


この時代のローマはまだ弱小の勢力で、イタリア半島の二割弱しか支配していなかった。


「ローマ……」


ヘラクレスの脳裏に母バルシネが時折語っていた、遠い西方に住む蛮族の新興都市が過った。マケドニアの王族争いから最も遠く、ヘラクレスの顔を誰も知らない土地。


父が築いた大帝国の威容に比べれば、あまりに小さく、あまりに野蛮な辺境の国だ。


だが、それゆえに──

マケドニアの将軍たちの野心からも、血みどろの王族争いからも遠い。

父の威光が届かぬ代わりに、ディアドコイの刃も届かぬ“亡命の地”になり得る。


ヘラクレスの喉がゴクリと動いた。


――ローマはやがてギリシャにも負けぬ国になる。私の言葉を信じるか?


ヘラクレスは震える手で地面に手をつき立ち上がった。

その瞳には、先ほどまでの絶望ではなく、未知の希望に対する激しい動揺と、それに縋ろうとする必死さが混在していた。


「……母に、母に相談してもよいか?」


――いいだろう。だが私の話をしていいのは、お前が心から信頼できる者だけだ。人数を絞れ。


「……分かっています。母上だけだ。私のことを無償で愛してくれているのは」


ヘラクレスは泥を払い、夕闇に沈む邸宅の中に入っていった。


磨き抜かれた大理石の回廊を、足音を殺して進む。かつての王宮の面影を写した、ペルシャの香が静かに漂う母の私室へ。


「ヘラクレスさま……!?」


部屋の前には侍女のテッサがいた。

だが彼女はヘラクレスのただならぬ形相に気圧けおされ、止める間もなくヘラクレスが重厚な扉を叩いた。


「母上、ヘラクレスです。……急ぎ、お話ししたいことが!」


一瞬の沈黙の後。燭台の灯りの下で書状を見つめていたバルシネが、立ち上がり内側から扉を開く。


「ヘラクレス? こんな時間にどうしたのです。……泥だらけではないですか。テッサ下がりなさい」


彼女はヘラクレスの異様な雰囲気を感じ、侍女を下がらせた。


親子二人だけの、閉ざされた空間。


バルシネが扉のかんぬきを下ろす音が、静かな部屋に重く響く。


「……何があったのです。刺客でも見つけたというの?」


「母上、落ち着いて聞いてください。……神の声を聞いたのです」


バルシネの眉が、ピクリと跳ねた。

彼女の瞳に浮かんだのは驚きではなく、深い落胆と警戒だ。これまで数多の偽預言者や、神託を騙って人を操る権力者を見てきた彼女にとって、それは最も聞きたくない言葉だった。


「ヘラクレス、熱でもあるのですか? それとも、誰か得体の知れない者に吹き込まれたの?  そんな不吉な冗談はよしなさい」


母の冷たい言葉に、ヘラクレスはたじろいだ。


――ヘラクレス、神の御業を――お前たちに見せてやる。

 このタケルスに金や宝石などの価値のある物を捧げるのだ。


供物くもつを……? ですか、どうやって……」


ヘラクレスは当惑し、母の心配そうな視線と、脳内に響く威厳ある声の間で板挟みになった。だが、猛の口調に迷いはない。


「……ヘラクレス  誰と話しているのです。何もない空間に向かって……」


怯えすら含んだバルシネの声。彼女の目には、息子が正気を失い、目に見えない「何か」の指示を仰いでいるようにしか見えなかった。


――ヘラクレス、躊躇するな。そこに金貨があるだろう。それを卓の上に置くのだ。


ヘラクレスはバルシネの机の上にある革袋へ手を伸ばした。中には、日々の生活や謝礼のために用意されていた数枚の金貨が入っていた。


「ヘラクレス、何をするのです!」


バルシネの制止を無視し、ヘラクレスは震える手で金貨を一枚、大理石の卓の中央に置いた。


「母上、見ていてください。……タケルス神、これを捧げます」


その瞬間、金貨が宙に浮き、モザイクが掛かったように消えてゆく。


《N-Home》が告げる。


《金貨1枚を1万ポイントに変換しました》

《ポイントはスキルの購入に使えます》


「へえ、このゲーム、ポイント制なんだ」


《そうなんです、ご主人様。国が違うとお金の単位も違うし、お供えはお金だけじゃありませんから、ゲーム上の仕様です》



バルシネは息を呑み、卓に手を伸ばした。


「……金貨が……消えた……? どうして……?」


ヘラクレスと彼女には《N-Home》の声は聞こえていない。

猛がマイクで神託を告げるときだけ、ヘラクレスの脳に声が届く。


そのため、ただ目の前で起きた“説明不能な現象”だけが彼女たちの事実として残った。


ヘラクレスは母の震える手をそっと握った。


「……母上。もう一度……やってみます」


バルシネの瞳が大きく揺れた。


「ヘラクレス、やめなさい。そんな……得体の知れない……」


しかしヘラクレスは、机の上の革袋からもう一枚の金貨を取り出した。

その動きは恐怖に震えながらも、どこか確信めいている。


「母上……よく見ていてください。これが私が嘘を言っていないと言う証拠です」


金貨を両手で包み込み、ゆっくりと卓の中央へ置く。


「……タケルス神。これを……もう一度、捧げます」


金貨が、ふわりと浮いた。


バルシネは息を呑み、後ずさった。


「……っ……!」


金貨は空中で揺らぎ、まるで細かい粒子に分解されるようにして消えた。


《金貨1枚を1万ポイントに変換しました》

《現在の所持ポイント:2万》


バルシネは震える声で呟いた。


「……本当に……また消えました。ヘラクレス……あなた……神託を……」


ヘラクレスは母の手を強く握り返した。


「母上。私はタケルス神に選ばれたのです。

 だから……一緒に来てください」


バルシネの瞳に、困惑の色が浮かぶ。


「……一緒に?……いったいどこに?」


バルシネの声は、今や拒絶ではなく、拠り所を求める者の震えに変わっていた。目の前で起きた二度の奇跡。それは、彼女が宮廷で見てきたどの手品や魔術よりも潔白で、抗いがたい力に満ちていたからだ。


猛は画面越しに、バルシネの顔を捉えた。


――ヘラクレス。母に行き先を告げよ。


猛の声が、少年の唇を震わせる。


「……ローマです。西方の、まだ誰も目を向けていない……新興の地です」


「ローマ……。あんな、蛮族の集まりのような国へ?」


バルシネの瞳に困惑が広がる。ギリシャの栄華に生きる者にとって、イタリアはまだ辺境の地に過ぎない。ローマはその一部を支配しているだけの存在だった。


「母上、今のローマは確かに小さく、野蛮に見えるかもしれません。ですが、父上が支配したこの地は、もはや私たちを食い殺そうとする狼たちの巣窟です。ローマなら、父上の名も、私の血筋も、誰にも利用されずに済む……。神は、そこが私たちの再起の地になると仰っているのです」


バルシネは、机の上に置かれたままの宝石箱に視線を落とした。父アルタバゾスから受け継ぎ、流転の人生の中で唯一手放さなかった、ペルシャ貴族の誇りそのもの。


――バルシネにその宝石を捨てさせろ。逃亡の邪魔だ、敵に略奪されるかもしれない。ゆえに俺に捧げるのだ。


猛の冷徹な声が、ヘラクレスの口を借りて響く。


「……その宝石は捨てろと神が仰っています。それは逃亡の足枷になり、やがて来る追手の略奪品になるだけだ。ゆえに我に捧げろと」


「宝石を……捨てる……? ……捧げる、のですか?」


バルシネは、ヘラクレスの口から伝えられたタケルス神の言葉を、信じがたい思いで反芻した。


彼女の視線が、大理石の化粧台の上に置かれた豪華な宝石箱と、何もない虚空との間を激しく往復する。


――安心しろ。全てを捨てる必要はない。逃亡に必要な資金以外を私に捧げるのだ。それに奉納された財物はただ消える訳ではない。私がヘラクレス授ける神の加護の力の源泉となる。


「母上、信じてください。神は……タケルス様は、この宝石の輝きを私たちの『力』に変えてくださると言われています」


ヘラクレスの言葉を受け、バルシネはゆっくりと立ち上がると、大理石の化粧台へと向かった。そこには、かつてのペルシャ王宮を思わせる繊細な彫刻が施された鏡と、数々の香油の瓶が並んでいる。


だが上に置かれている豪華な宝石箱には目もくれなかった。


バルシネは鏡の台座にある隠し細工に指をかける。

カチリ、と小さな音が響き、一段深い引き出しがせり出してきた。

その中に収められていたのは、使い古された革袋ではなく、漆黒の木肌が美しい宝石箱だった。


「母上これは……」


「こちらが私の本当の宝石箱です」


バルシネは宝石箱を引き寄せ、その蓋を大きく開いた。


燭台の炎に照らされ、大粒のエメラルドやペルシャ産の真珠、精巧な金の細工が眩いばかりの光を放つ。それは大王の側室であった彼女自身と、実父の総督アルタバゾスの栄華の残り香であった。


とは言え、彼女の資産は多くはない。


父の遺産は兄たちが相続したため、彼女には一切入っていない。

また大王の側室に与えられるのは名誉と保護であり、財物ではない。

そのため彼女の手元に残ったのは、父と大王から贈られた宝飾品だけだった。


バルシネは震える手で、宝石箱の中からいくつかの小ぶりな金貨袋と、換金しやすい指輪数個を素早く選び出し、自らの懐へと忍ばせた。


「……これは持っていきましょう。神の加護が届かぬ時、人のお金が必要になることもあるはずですから」


総督の娘として現実的な苦労も知る彼女らしい、冷徹な判断だった。


さらに彼女は、2つ目の宝石箱の底に沈んでいた一つの小さな革袋を手に取った。中から現れたのは、大粒のサファイアが埋め込まれた黄金の指輪。大王アレクサンドロス3世が彼女へ託したヘラクレスの印章指輪だ。


そして更にもう一つ、彼女は装飾の乏しい、一見すると平凡な指輪をそっと指先で掬い上げた。


「大王の指輪と……父から譲り受けた、亡き母の形見。これだけは、たとえ神が望まれても捧げることはできません」


ヘラクレスはその小さな指輪を慈しむように見つめる母の横顔に、かつてない覚悟を見た。


――それでいい。その二つは、お前たちが人であるためのくさびだ。


猛の声が、肯定するようにヘラクレスの脳内に響く。


「……母上。残りのものは、捧げてもよいのですか?」


バルシネは、かつての栄華のすべてが詰まった宝石箱を最後にもう一度だけ見つめ、静かに頷いた。


「ええ。今の私には、あなたの未来と、この2つの宝石があれば十分です」



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ