025 紀元前311年 ペルシャ式戦車・前
■紀元前311年 4月初旬 キミニウスの野
夜明けを告げる角笛が、霧の底から響き渡る。
幕舎の中。
ヘラクレスは、一度も鎧を脱ぐことなく朝を迎え、欠伸をしながら起き上がった。
「ふぁぁ⋯⋯」
浅い微睡み(まどろみ)の中で聞こえた、エトルリアの盾を叩く音や、遠くでいななく馬の声が、今も聞こえる気がする。
「ヘラクレスさま、おはようございます」
「ああ、おはよう」
隣で眠っていたカシオスが身を起こすと、幕舎で寝ていた他の者たちも次々と起き上がった。
「お前たちよく眠れたか?」
レオニダスは重そうな瞼で首を振り、アルカトオスはふらふらと立ち上がった。
「⋯⋯かおを洗ってきます、⋯⋯頭が重い⋯⋯」
「私も行こう」
幕舎を出て、朝の冷えた空気の中で顔を洗う。
心地よい水の冷たさが、寝不足のヘラクレスの頭を現実に引き戻した。
ふと見ると、宿営地の柵の外では、朝靄が立ち込め、視界を遮っている。
その時――白濁した世界の向こう側から、大地を揺らすような地響きが伝わってきた。
「ヘラクレスさま⋯⋯これはエトルリアの全軍が動いているのでは!」
「そうかもな……」
ヘラクレスは戦いの気配を感じ、顔を引き締める。
セストゥスが、冷えた麦飯を口に放り込みながらやって来た。
「ヘラクレス、気を張りすぎて初陣で死ぬなよ」
脇には、指揮官の証である葡萄の木の杖が挟まれている。
「……うん。顔色は最悪だが、目は死んでいないな」
「はい……初めての戦場であまり眠れませんでした。ですが、身体は動きます」
「それでいい。初陣でぐっすり眠れる奴など、よほどの馬鹿か、早死にする奴だけだ」
その時——
執政官クィントゥスのテントに赤い旗が掲げられ、出陣の角笛が鳴り響く。
セストゥスは一気に表情を引き締め、他の隊員たちの方に体を向けた。
「出るぞ! 俺たちの持ち場は変わらず中列の右翼の端だ。霧が晴れた瞬間、目の前に敵が見えても驚くな! ……野郎ども、槍と盾を持て! 出陣だ!」
ヘラクレスは急いで幕舎に戻り、円盾と槍を握りしめた。
「よし! 行くぞ」
メナンドロスたちが頷く。
「ヘラクレス様の前は俺たちが守ります」
「無理はするな! 隊長と俺の指示に従い、引く時は引くように!」
「「はいっ!」」
陣地の出口を通る際、ヘラクレスは一瞬だけ、背後に広がる宿営地を振り返った。
昨夜、必死に掘った溝と、自分たちが担いできた杭で作った柵。それらが、霧の中に静かに佇んでいる。
(生きてここに戻って来れるのだろうか⋯⋯。いや、私にはタケルス神が付いているのだ。信じて進むだけだ)
陣の外に出ると、セストゥスの百人隊は盾を寄せ合い、密集した長方形の壁を作った。
ーーーーーーーーーーー
大和猛が《N‑Home》に訊ねる。
「なあ、ヘラクレスの隊って、百人隊なのに百人いなくないか?」
《その通りです、ご主人様。
ローマの百人隊が実際百人だったのは王政期の最初期だけです。
この時期は機動性が重視された結果、60〜80人で運用されるのが通例となっています》
「あと、これ6列で隊を組んでるよな?」
《はい、ヘラクレス様の隊は74名で横12〜13人、縦6列の隊形を組んでいます》
「これ、前が死ぬまで、後ろは戦わなくていいのか?」
《ご主人様は相変わらず馬鹿ですね》
「うるさい! じゃあ、いつ交代出来るんだ? 負傷した時か?」
《違います。負傷や死亡を待ってから交代していては、疲れた兵がどんどん死んでいき、そこから陣形が食い破られます。交代は『前列が疲れて息が上がる』前に百人隊長の判断で行われます》
「疲れる前? まだ戦えるのにか?」
《人間の体力と集中力は数分しか持ちません。ローマ軍の強さは常に『元気な兵士』を最前線に送り出し続け、敵の疲弊を待つ戦術にあります》
「でも戦ってるのに簡単には交代出来ないだろ?」
《その通りです。交代の合図は笛で行われ、1列目が斜め後ろにスライドし、2列目のすき間に入り込みます。そして2列目はそのまま前に一歩進む事で交代が完了します。この時、もたつけば敵の刃が突き刺さるため、高度な機動が要求されました》
「いやいや、笛が鳴ったら敵も気づくだろ。一歩下がった瞬間を狙って来るじゃなぇか!?」
《ご主人様の、その偶に感の鋭いところがうざいです。『分かった』で終わってくれてもいいんですよ?》
「誰の真似だ? いいから俺の疑問に応えろ」
《分かりました。
敵と完全に密着している時にはもちろん交代は出来ません。
しかし古代の白兵戦では、数分間激しく斬りあった後、双方の疲労から自然と数歩距離を取り、互いに睨み合う『小休止』の時間が必ず訪れました。百人隊長はその一瞬の隙を見逃さず、笛を鳴らすのです》
「ふ~ん、そうなのか。あと三列になってるけど、これがこの時代の陣形なのか?」
《ご主人様、鋭いですね。あれはローマ軍の基本戦術である『三列陣形』の仕組みです》
「三列陣形?」
《はい。ローマ軍は百人隊を、前列・中列・後列の三段階に分けて戦列を組みます。
前列が押し返されても、中列が前に出て戦う事で突破を防ぎます。
そして中列が戦っている間に、前列は中列の後ろで隊形を立て直し、再び戦線に復帰できる──
これが三列陣形の最大の強みです》
猛は眉を寄せる。
「なんで中列の後ろなんだ? 後列の後ろがあるじゃないか?」
《一番前で戦うのが、若くて血気盛んな『前列』。彼らが疲れたり、戦線が膠着した時に、後ろから支えるのが実戦経験の豊富な中堅である『中列』です。そして最後方に控えるのが、最後の砦、鉄壁の老兵たち『後列』なのです》
《後列はいざと言う時の予備兵なので、彼らの後ろに入ることはありません。そのため兵力の配分も前列4割、中列4割、後列2割となっています》
ーーーーーーーーーーー
ヘラクレスの百人隊は中列の最右翼に隊列を組んだ。
副官の定位置に就くと、前には側近たちの背と、百人の兵士たちの後頭部が並んで見える。
エトルリア軍の足音と、戦車を引く馬のいななきがはっきりと聞こえ始めた。
霧の向こう、三千歩先(約4.5キロ)にあったはずの「軍勢」が、近くまで迫っているのが分かる。
やがて霧が完全に晴れ上がった瞬間、戦場に緊張が走った。
正面、数百歩(約二百メートル)の距離に、エトルリア連合軍の大軍が陣を敷いていた。
ヘラクレスはゴクリと喉を鳴らす。
(戦いが始まる⋯⋯)
すぐにエトルリア軍の角笛がなり、ゆっくりと距離を詰め始める。
敵の前列中央には、磨き上げられた青銅の円盾が連なり、その左翼には、彫刻のような装飾を施した二頭立ての戦車が、いななく馬と共に大地を揺るがす。
前列の最右翼を任されているローマ軍の隊長アントニウスが笑う。
「エトルリアの貴族が最初から相手をしてくれるらしいぞ」
エトルリアの戦車は貴族やエリートの乗り物だった。その運用は戦車の上から投槍を飛ばすこともあるが、基本は高速で移動し、陸上に降りて戦うスタイルだった。
アントニウスは気づいていないが、その戦車の中に一台だけいつもと違うもの――ペルシャ帝国が用いていた、車輪軸に刃を付けた戦車が混じっていた。
エトルリア軍の角笛が、空を切り裂くような高音で再度鳴り響いた。
次の瞬間、敵の左翼——すなわちヘラクレスたちの正面方向から、三十台のうち一台の戦車が地響きを立てて突進を開始した。
前列のアントニウスが叫ぶ。
「来るぞ、盾を構えろ!」
真っすぐローマ軍に向かっていた戦車が停止し、左端の一台だけ方向を変え向かってくる。
戦車には歩兵の強固な横並びの隊列を正面から突破する力はない。馬が人の群れを避けようと本能で減速するか、あるいは横へ回避しようとするからだ。
そのためペルシャ式の戦車を操る御者の狙いは最初から正面突破ではなかった。車輪の軸から突き出した死の刃がローマ歩兵の肉を正確に切り裂くよう、馬の進路を意図的にローマ歩兵の隊列の前を横切るよう曲げていたのだ。
通常の戦車だと勘違いしているアントニウスの怒号が飛ぶ。
「来るぞ! 戦車の上の御者と貴族を殺せ! 槍を突き立てろ!」
市民兵たちは手柄を焦り、貴族を刺そうと一歩前へ出た。その「一歩」が致命的な行為となった。
馬は歩兵の列のすぐ前を横切るように走り抜け、ローマ軍は貴族を殺そうと槍を繰り出した。
だが戦車の上のエトルリア貴族は、槍を突き立てられる前に、胸の高さまである強固な防壁の裏へと素早くしゃがみ、槍を回避した。
その直後、凄まじい金属音と共に、回転する死の刃が九名のローマ兵の足を無慈悲に刈り取った。
「ぎあああああッ!!」
凄惨な悲鳴と血飛沫が上がった。
片足や両足を一瞬で失った者たちが、盾を抱えたまま泥の中に次々と倒れ込んでいく。
ローマ軍に取って最悪だったのは、その被害者の中に、隊長のアントニウスが含まれていたことだ。
副隊長ブブリウスが血相を変えて叫ぶ。
「アントニウス隊長がやられた、俺が指揮を執る! 崩れるな! 負傷者を下げろ! 前列、隙間を埋めろッ!」
だが、正規の指揮官を失い、凄惨な光景を目の当たりにした若い非市民兵は、パニックに陥り戦列を維持できなかった。
そこへ、戦車に乗って高速で移動してきたエトルリアのエリート歩兵たちが、大盾を掲げて一斉に襲いかかる。
経験の少ない若者の多い隊は、敵の猛攻を前に一瞬で戦列を食い破られた。
ブブリウス副隊長は即座に決断し、鋭く笛を吹き鳴らした。
「後退! 隊列を下げろ! 中列の隙間を通って後退しろッ!!」
その合図で前列の隊が一斉に中列の隊と隊の隙間へと逃げ出した。
隊長のセストゥスが叫ぶ。
「前列が崩れたぞ! 戦闘用意!」
ヘラクレスは自分の横を通り抜ける、前列の兵の背を見送りながら、槍をギュッと握りしめた。




