021 紀元前312年 指揮官
■7月07日
ローマ郊外のカストラ
入隊から一週間。
ヘラクレスたち新兵の日常は、単調で、かつ暴力的なまでの肉体労働に支配されていた。
軍事歩行、川を渡るための水泳、障害物を超えるための訓練、そして荷を背負ってのランニング。
「……一、二っ! 一、二っ!」
砂埃が舞う広場を、ヘラクレスは今日もレオニダスたちと共に黙々と周回していた。背中には20キロの砂袋、左手には重い木盾。
だが猛から授けられたスキルの恩恵は劇的だった。訓練に慣れた今、ヘラクレスの呼吸は深く安定している。新兵ながら、隊の中では飛び抜けた存在と認められるようになっていた。
ヘラクレスは周囲を見下し、孤立するような真似はしなかった。
(……一人だけの力では戦争に勝てない、隊の一員にはなることが重要だ)
セストゥスの隊にはヘラクレスたちの他にも新兵が7人いた。
ヘラクレスは、隣で顔を真っ赤にして今にも倒れそうな新兵に、さりげなく肩を貸した。
「……おい、前を見ろ。顎を引けば少しは楽になる」
「……う、うるせえ……」
新兵のプッロは毒づきながらも、ヘラクレスの安定した足取りに引きずられるようにして、脱落せずに歩き続けた。
セストゥスはその光景を、視察台の上からじっと見つめていた。
「……ヘラクレスの若造、自分の余力を周囲を支えるために使ったか」
過酷な状況下で「周囲の脱落を防ごうとする」のは、副官に必要な素質だった。
夕暮れ時。
一日の行軍訓練が終わると、セストゥスは視察台から降りヘラクレスたちの前まで歩み寄った。
その足元には、疲労で立ち上がることすらできない新兵たちが無数に転がっている。
「ヤマトのヘラクレス。貴様、なぜ息が上がっていない」
セストゥスの鋭い眼光がヘラクレスを射抜く。それは疑念ではなく、純粋な驚愕と、わずかな期待が混じった色だった。
「……必死に耐えているだけです。セストゥス殿」
「ふん、口の減らないガキだ。だがな、私が求めているのは個人の武勇ではない。隣の男と歩調を合わせ、死ぬまで盾を並べ続けることだ」
セストゥスは転がっている新兵の一人を葡萄の木の杖で小突き、再びヘラクレスを見た。
「貴様が今日やったことは、本来ならば副官がやるべき仕事だ。脱落者を拾い、隊列を維持する……。ルキウス様が貴様を俺に預けた理由が、少しだけ分かった気がするぞ」
セストゥスはそれだけ言うと、背を向けた。
「今日はここまでだ。明日も日の出と共にここへ集まれ」
号令が響き、訓練場の空気がゆるむ。
カシオスはヘラクレスの横で、ほっとしたように小さく息を吐いた。
「さすがヘラクレス様です。……今では隊の皆がヘラクレス様に注目していますよ」
ヘラクレスは周囲に聞こえぬよう、低く答えた。
「分かっているだろう。……これは私の力ではない、タケルス様のお力だ。
私の本来の体はまだ未熟だ。鍛え続けなければ、授かった力の本来の能力を引き出すことはできないだろう」
カシオスはその言葉に、主君の勤勉さを垣間見た。
そして、胸の奥でさらなる忠誠を誓い、静かに頷いた。
■7月31日
ローマ郊外のカストラ
ローマの夏は、暴力的なまでの陽光を広場に叩きつけていた。
一ヶ月前、白く細かったヘラクレスの肌は、今や陽に焼けて精悍な褐色に変わり、その肩や腕には、砂袋と盾を支え続けた証である強靭な筋肉が浮き上がっている。
「……整列ッ!」
セストゥスの号令が飛び、皆が集まる。
隊の最後列に並んだ新兵たちは、一ヶ月前のような「烏合の衆」ではない。
ある時は砂袋を背負い、ある時はテヴェレ川沿いの泥濘を走り、またある時は急斜面を駆け登った。
泥と汗にまみれながらも、一糸乱れぬ隊列を維持し、荒い息を一つも漏らさぬ兵士へと成長していた。
セストゥスは、新兵たちの顔を一人ずつ検分するように歩く。
「……よく生き残った、新兵ども。今日までで、貴様らの足腰はようやく『兵士』の最低線に達した」
セストゥスは部下に合図を送り、山積みにされた 実戦用の重い木盾と、訓練用の木槍を運ばせた。
「今日からは“槍”と“盾”の使い方の訓練だ。
我が隊は中装槍隊だ。隊列を組み、槍で押し返し、盾で生き残る。そのための技術を身体に叩き込んでやる!」
セストゥスはヘラクレスに、一際重く作られた指揮官用の木盾を突き出した。
「ヘラクレス。貴様には仮の副官として、俺の隣で『型』を実演してもらう。……いいか、ローマの盾は壁だ。一人で持とうとするな。隣の男の命を守り、自分の命を預けるための壁だと思え!」
ヘラクレスは、ずっしりとした木盾の重みを左腕で受け止めた。一ヶ月の行軍で鍛え上げられた足腰は、その重みに微塵も揺るがない。
(……ついに、武器の訓練。ここからが本番だ)
ヘラクレスは、視界の端で共に一ヶ月を耐え抜いたレオニダスたち側近5人と他の新兵たちと視線で言葉を交わし気合を入れる。
セストゥスは広場の中央にそびえ立つ、人間の背丈ほどもある頑強な木柱を杖で指し示した。
「まずは基本だ。盾を顔の高さまで上げ、体は半身に構えろ。敵と正対するな、盾の裏に身を隠せ!」
セストゥスが自ら盾を構えて見せると、ヘラクレスもそれに倣う。猛から授けられた【筋力】と【体力】のおかげで、他の新兵が「重すぎる」と悲鳴を上げる特注の木盾も、ヘラクレスの腕の中では吸い付くように安定していた。
「突けっ!!」
号令と共に、ヘラクレスは槍を真っ直ぐに突き出した。ローマ式の槍術は、大振り振り回すような華麗な技ではない。
盾の右脇、あるいは上部から最短距離で敵を「突く」、効率を求めた動作だ。木の柱の標的に木槍が激突し、ズシンという鈍い衝撃がヘラクレスの肩に伝わった。
「……ほう。一突きごとに腰が据わっているな」
セストゥスが感心したように呟いた。ヘラクレスの突きには、ただの筋力だけではない、猛の【威圧】スキルがもたらす「迷いのなさ」も宿っていた。
「新兵たち、ヘラクレスを中心に壁を作れ! ヘラクレス、新兵達を指揮してみせろ!」
「はい!」
セストゥスが命じると、側近たちが即座に横に並び、盾を重ね合わせた。
だが、そこからだった。
「違う! 何度言えばわかるんだヘラクレス!!」
セストゥスの葡萄の杖が、ヘラクレスの掲げた盾を激しく叩いた。石造りの広場に乾いた音が響き渡る。
「貴様の突きは鋭いが、それは一対一の『決闘』の動きだ! 前に出すぎるな! 隣との隙間を空けるな! 貴様が一人で敵を倒そうとするたびに、隣の兵士の脇腹がガラ空きになるのが分からんのか!」
ヘラクレスは木盾を支え直し、奥歯を噛み締めた。
身体能力や個人の技量が高すぎるがゆえに、無意識に自分一人で解決しようとしてしまい、ローマ軍の真髄である「一糸乱れぬ壁」としての動きから浮いてしまっていたのだ。
「ピュロス! お前もだ! 主君を守ろうとして盾を斜めにするな。それは優しさではなく、隊列全体の崩壊を招く裏切りだ!」
側近たちの絆が強すぎることも、ここでは仇となった。彼らは「部隊」ではなく「ヘラクレス個人の私兵」として動いてしまい、百人隊という巨大な機械の歯車になりきれない。
「……くっ」
ヘラクレスは重い木盾を掴み直し、立ち上がる。
周囲の熟練兵たちからは、「やはり付け焼刃か」「一人で空回りしている」という冷ややかな失笑が漏れる。
セストゥスの瞳にも、期待が大きかった分、厳しい落胆の色が混じり始める。
「ヘラクレス。貴様が『面』で戦う理屈を理解できんのなら、副官の座など夢のまた夢だぞ! ……もう一度だけチャンスをやる。構えろ!」
セストゥスの咆哮に対し、ヘラクレスは焦燥に駆られた。隣と合わせようとすれば自分の槍が死ぬ。自分の槍を活かそうとすれば、列が乱れる。
ーーーーー
大和猛は、ヘラクレスが指揮官として落第を押されそうな状況に焦った。
「くそっ! ヘラクレスの奴、苦戦してるじゃん」
《高すぎる能力が仇となってますね。いずれ経験が解決するでしょう》
「いや、ここはラストアタックだ!」
《ご主人さまが、何を言ってるのか分かりません》
《……あっ、ご主人様。なけなしのポイントを使う気ですか》
猛がスキル【指揮レベル1:小規模指揮】を選び、購入&授与ボタンを押す。
《スキル【指揮レベル1:小規模指揮】を付与しました》
《残りポイント──4万》
ーーーーー
――ヘラクレス。小規模指揮の極意を伝授した。どうすれば部隊を手足のように動かせるか、考えてみろ。すでに頭の中に入っている筈だ。
(頭の中に……入っている!?)
猛の言葉を聞いた瞬間、ヘラクレスの脳内が弾けたように冴えわたった。
バラバラだった情報の破片が、一つの「地図」のように繋がった。
(……分かる! ピュロスの盾の角度、カシオスの踏み込み、そして俺が空けた隙を誰が埋めるべきか。すべてが――意のままに動かせる気がする!)
ヘラクレスの瞳から焦燥が消え、冷徹なまでの透明感が宿る。彼は重い木盾を微動だにせず構え直すと、隣の側近たちに短く、鋭い声を飛ばした。
「レオニダス、半歩引いて右を締めろ。カシオス、盾の頂点を三指分上げろ。他は俺の呼吸に合わせろ。……行くぞ」
その一言で、先ほどまで浮いていたヘラクレスたち13人の動きがカチリと噛み合った。ヘラクレス一人が戦うのではなく、13人で一つの「鋼の壁」となっていた。
「ほう……?」
セストゥスが眉を動かした。先ほどまで脆く、自分勝手だった少年たちの陣形から、突如として隙が消えた。
「その壁が本物かどうか試してやる」
セストゥスはニヤリと笑うと、一番端の新兵の盾に容赦なく葡萄の杖を振り下ろした。
ガツォォン!!
凄まじい衝撃音が響く。だが、新兵の盾は揺るがなかった。衝撃は新兵の腕だけでなく、隣り合う盾へと逃がされ完璧に受け止められたのだ。
セストゥスの号令が飛ぶ。
「……突け!!」
13枚の盾の隙間から、一糸乱れぬタイミングで13本の木槍が突き出された。それは「個」の武勇を超えた、部隊という名の巨大な生き物による、冷徹な一刺しだった。
セストゥスはわずかに身を引き、驚愕を隠しきれない顔でヘラクレスを見据えた。
「やるではないかヘラクレス。……何を変えた。いや、貴様には何が見えた」
「何も……。ただ自分では無く、皆で敵を倒そうと考えただけです」
「そうか、それでいい」
そこにはもう、空回りをする少年の姿はなかった。
泥にまみれながらも、部隊という、戦場の一端を理解し始めた一人の「指揮官」が立っていた。




