019 紀元前312年 セストゥス百人隊長
ヘラクレスは有力貴族のルキウス・アエミリウスの邸宅を辞して、戻る道すがら終始無言だった。
レオニダスはヘラクレスの顔色を伺いながらも、抑えきれない気持ちを口にする。
「……ヘラクレス様。本当に、よろしかったのですか。軍に入るなど、死地へ飛び込むも同然。神殿での道であれば、命を掛ける必要はありません」
ヘラクレスは足を止めず、真っ直ぐに前を見つめたまま答えた。
「……レオニダス。私はルキウス殿に、ローマで認められるためには軍で力を示さねばならないと教えられた。ならこの機会に、私は自分の力を試してみたいと思う」
ヘラクレスは話をするうちに、自分自身の気持ちにハッキリと気付いた。
「私はただ、アンティゴノスやディアドコイたちから逃れるためだけに、このローマに来た。
だが今は父上が自らの力で偉業を成したように、私も父上の子として、自分の力で運命を切り拓きたいのだ」
レオニダスは静かに頷いた。
彼としても軍に入ることは異論がなかった。神官となったヘラクレスの傍で神に仕えるよりも、戦場を駆け巡る方が性に合っている。
商館へ戻ると、バルシネたちが待ち構えていた。
ヘラクレスが「軍に志願する」ことを伝えると、バルシネの顔から血の気が引いた。
「戦場へ……? あなたは、また危険な場所に身を置こうというのですか……」
「母上。案ずることはありません。私にはタケルス様の加護があります。必ずこのローマでタケルスの家名を轟かせ、ローマを祖国と呼べる国にします」
バルシネは首を傾げる。
「タケルス?」
「はい。タケルス様からヘラクレス・ヤマト・タケルスの名を頂きました。マケドニアのアルゲアス朝の家名を名乗るのは危険だと」
バルシネは「タケルス……」とその響きを確かめるように呟くと、驚きに揺れていた瞳を少しだけ和らげ、納得したように頷いた。
「……左様ですか。タケルス神が、ご自分の名を家名として授けてくださったのですね。マケドニアの⋯⋯アルゲアス朝の名に降りかかる災いから逃れるために……」
彼女は優しくヘラクレスの手を取る。
「分かりました。あなたが戦場へ行くのが神の導きであるならば、私はそれを止めません。……レオニダス、アルカトオス、メナンドロス、ピュロス。この子を守ってくれますか?」
4人が力強く頷く。
「はっ! 命に代えましても!」
その横で、商人テオドロスが一歩進み出た。
「では私たちは金銭面でお支えできるよう、商人としてこの地に勢力を築きましょう。タケルス家がローマで立つための基盤は、我らが整えます」
その時、長男カシオスが声を上げた。
「お待ちください、父上! 私は……ヘラクレス様と戦地に赴こうと思います」
テオドロスは目を見開いた。
「なんだと……?」
カシオスは真っ直ぐにテオドロスの瞳を見た。
「ヘラクレス様は間違いなくタケルス神の加護を受けておられます。ローマまでの苦難の道のりを容易く成し遂げ、さらには海賊船を弓だけで撃退されました」
カシオスは拳を握りしめ、覚悟を伝える。
「ルキウス様がヘラクレス様に話した内容も聞きました。ローマで力を持つならば、軍役を経験しなければなりません。ステファノス家の未来を考えれば、私はヘラクレス様のお傍で軍役につき、お力となるべきです。そうしたいのです!」
室内の空気がわずかに揺れた。カシオスの決意は、誰の目にも本物だった。
ヘラクレスが告げる。
「……カシオス。お前は私よりも年長だ。だが、戦場では年齢も家柄も関係ない。立つ者は皆、死と隣り合わせになる。それでも付いてくるか?」
「はい! このカシオス、どこまでもヘラクレス様に付いて行きます!」
その声音は低く、揺るぎがない。
「カシオス。お前がそこまでの覚悟があるなら、今日から私の“側近”に迎え入れる」
カシオスは息を呑み、胸に拳を当てて深く頭を垂れた。
「……はい。命を賭して、ヘラクレス様のお傍でお仕えいたします」
ヘラクレスは静かに頷いた。
「ならば共に来い。ローマで我がタケルス家の名を上げる」
「はいっ!」
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■7月01日 午前5時半
リパ・グラエカ テオドロスの家
まだ朝靄の立ち込める薄暗い居間。
テオドロス、ルカ、バルシネ、テッサとその娘たちが集まり、ローマ軍の入隊試験に向かうヘラクレスたちを見送る。
「ヘラクレス、怪我だけはしないでね」
「大丈夫です母上、今日はただの試験です」
バルシネが不安そうに息子のトガを整えると、テッサの娘イリスとセレーネが側近たちの周りをちょこちょこと走り回る。
「レオニダス様、これ、お守り!」
イリスが差し出したのは、庭で摘んだばかりの草花だった。
「ああ……、ありがとう」
イリスは花を渡すと恥ずかしそうにテッサの後ろに隠れた。
「……さあ、行くぞ」
「「はい」」
ヘラクレスの号令に、カシオス、レオニダス、メナンドロス、アルカトオス、ピュロスの五人が立ち上がる。
テオドロスとルカは、これから市場へ向かう準備をしながら、その背中を見送った。
ヘラクレスたちはしばらく歩き、ローマの城壁を出て、郊外に広がる緩やかな平野に出た。
「アルカトオス。ここが……カストラの野か?」
「はい、ヘラクレス様。
ローマ市民にはマルスの野と言う市民専用の訓練場があります。彼らはそこでレギオン(重歩兵)となる訓練を行います。
ですが私たち非市民の兵は、ここカストラの野で軽歩兵、弓兵、槍兵、騎兵など、レギオン(重歩兵)を支える兵となるための訓練を行います」
ヘラクレスが見ると、カストラの平原では非市民の兵たちが四百人ほど訓練をしていた。
さらにテントの前には、入隊試験に来ている者たちが五十人ほど集まっているのが見える。
ヘラクレスは、ルキウスから預かった
「アエミリウス家の印章」が刻まれた木札を握りしめ、受付の列へと並んだ。
周囲では、体格のいい非市民の若者たちが、年若いヘラクレスを見て「あんな子供が何をしに来た」と鼻で笑う。
だが、ヘラクレスの順番が来て簡易テントの中に入り、官吏に印章を提示した瞬間、空気は一変した。
「……アエミリウス家の賓客か」
官吏の目が鋭くなり、すぐさま奥に控えていた数人の官員が飛んできて印章を確認した。
「失礼いたしました、お話は伺っております。……ヘラクレス、およびその随員5名。軍籍への登録、並びに身体検査を特例として完了させます」
本来ならば数時間かかるはずの事務手続きと検査は、ルキウスの圧倒的な政治力によって、わずかな時間で終わった。
ヘラクレスの腕に軍籍を示す証が巻かれ、レオニダスたちも次々と登録されていく。
官員が補足する。
「軍籍登録は済みました。通常は適正を見た後にどの隊に入るかが決まりますが、ルキウス殿の書状ではセストゥス百人隊長の隊に入れるように書かれています」
ヘラクレスが初めて聞く名に首を傾げた。
「セストゥス殿?」
「私だ……」
ヘラクレスの前に、壮年の立派な体格の男が現れた。赤い房のついた兜を被り、右手に葡萄の木の杖――百人隊長の証――を携えた男。
「アエミリウス様から貴様たちを、私の隊の副官にするよう言われている。だが、ここから先は実力次第だ。明日から我が隊での訓練で、役に立たぬと判断すれば副官には出来ぬ」
セストゥスは品定めするような目でヘラクレスたちを一瞥したあと、部下2名を従えて無言で去っていった。
「ヘラクレス様、あの方はルキウス様の派閥の方でしょうか?」
「そうだろうな……。明日から世話になる隊長だ、無礼のないようにな……」
「はっ」
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猛が《N-Home》に問う。
「AI、派閥って何だ?」
《ローマでは、貴族たちが互いに協力し、利益を得るための集団を作っています。それを“派閥”と呼びます。
同じ家柄の者、同じ利益を持つ者、同じ敵を持つ者などが集まって、政治や軍の人事を動かしています》
《セストゥス百人隊長は、おそらくアエミリウス家の影響下にある人物でしょう。ローマの軍人は、どの貴族を“後ろ盾”に持つかで人生が大きく変わります》
「後ろ盾があればどう変わるんだ? 後ろ盾をするメリットは?」
《名門貴族の後ろ盾があれば、昇進の後押しや政治的な保護、退役後に良い土地を与えられる可能性が高まります。
ローマでは、こうした“貸し借り”が出世の道を決めるのです》
《一方でルキウスのような名門貴族は、有能な軍人を支援することで、
自分の派閥に“恩義を感じる者”を増やします。
退役後もその影響力は続くため、
こうして築かれた“人脈と恩義の網”が、
ローマでの政治力として貴族に返ってくるのです》
「ふ~ん、なるほどな」
猛は力尽きたように机に突っ伏せた。
「はぁ。それにしてもヘラクレスの奴、俺の考えてた安全な神官ルートとは違う道に進んじまったな。まあ、俺の命じゃないから好きにすればいいけど、跡継ぎを作る前には死んで欲しくないな⋯⋯」
《まだ結婚すらしてませんからね。ここはご主人様の言う、腕の見せ所なのでは?》
「うるせぇ。このゲームは死んでもOKなのが良いところだろ。死んだらゲームオーバーなのが初代の辛いとこだよな」
《大丈夫ですよ? ヘラクレス様が亡くなっても、まだ弟のアレクサンドロス4世様がいますから》
「アホか! そいつ監禁されててもうすぐ死ぬ奴じゃねぇか!」
《ご主人さま、腕の見せ所です》
猛は椅子から立ち上がる。
「腕の話はもういい。まずは飯だ。再開は飯のあと風呂に入ってからだ」
《いってらっしゃーい》




