018 紀元前312年 アエミリウス家の保護民
■6月29日 午前10時
ヘラクレスは、テオドロスが用意した最高級のトガを纏い、カシオスとレオニダスの二人と、ラテン語を話せる通訳を連れてルキウス・アエミリウス・パルミラの邸宅を訪れた。
重厚な大理石の柱が並ぶアトリウム(中庭)で待っていたのは、白髪が混じり始めた壮年の貴族だった。
アエミリウス氏族の一つ、パルミラ家の家長、ルキウスである。
ヘラクレスがティトゥスの封印された紹介状を差し出すと、ルキウスはそれを読み、ふっと口角を上げギリシャ語で呟いた。
「……ティトゥスめ、『私の代わりにこの少年の父親代わりになれ』と言ってきおった。奴がこれほど他人に肩入れするのは、数十年の付き合いで初めてのことだ。よほど貴公が気に入ったのだな」
ヘラクレスはルキウスが流暢なギリシャ語で話したことに驚いた。
だがローマの貴族にとって、ギリシャ語は教養の基本である。
話せて当然だった。
ルキウスは紹介状を置き、ヘラクレスの瞳を真っ直ぐに見据え、ギリシャ語で話す。
「ヘラクレス殿。貴公の正体が何者であれ、我が友ティトゥスが世話になった者を、アエミリウス家が見捨てるわけにはいかぬ。今日から貴公を、我が氏族の最優先の庇護民として迎えよう。……このローマで貴殿に仇なす者は、私とアエミリウス家を敵に回す事になる」
ーーーーーーーーー
大和猛が《N‑Home》に言う。
「おい、貴族の庇護民だってよ! これって普通のローマ市民なんかより、だいぶランク高いんじゃないか!?」
《ご主人様、それは早とちりです。クリエンテスとは、日本語で言えば『子分』や『子飼いの部下』に近い存在です。クリエンテスには、ローマ市民でも、ローマ市民でない異邦人でもなれますが、あくまで貴族という巨大な『傘』に入れてもらったに過ぎません》
《クリエンテスになっても、ローマ軍の主力である重歩兵(市民兵)になる資格などは得られないのです》
「え? でもアエミリウス家を敵に回すことになるって言ってたじゃん?」
《それはルキウス様がヘラクレス様の『パトロヌス(親分・保護者)』になったからです。パトロヌスは庇護民を守る“重い義務”を負いますが、その代わりにヘラクレス様も、ルキウス様に対して“強い忠誠と奉仕”を求められます》
「奉仕って、具体的に何をするんだ?」
《ルキウスが命じれば、ルキウスの支持者が選挙に出た時に応援に駆けつけたり、裁判の時に証人として後ろに並んだり、あるいは……『アエミリウス一族の軍が戦う時に、その手先となって命を懸けて戦場へ赴く』などです》
「何それめんどくさい。じゃあ、いらねぇじゃん?」
《ご主人様、言葉が足りませんでした。決して損な取引ではありません。むしろ、ローマで生き残るためにはこれ以上ない特権です》
「選挙の応援とか裁判のサクラとか、そんな雑用してる暇はヘラクレスにはねえよ? 割に合わないだろ?」
《いえ、保護がない異邦人は、ローマでは“法の外”の存在です。商売で騙されても裁判すら起こせず、役人に理不尽な扱いを受けても抗議もできません。最悪の場合、濡れ衣を着せられて奴隷として売られても、誰も助けてくれません》
「ま、まじか……」
ーーーーーーーーー
「庇護民にしていただいたこと、感謝致します」
ヘラクレスが丁寧にお辞儀をすると、
傍に控えるカシオスとレオニダスもほぼ同時に頭を下げた。
「ヘラクレス殿、遠慮は無用じゃ」
ルキウスは豪快に笑い、ヘラクレスの両腕を軽く掴み頭を上げさせた。
「さて、ヘラクレス殿。君のような若者がこのローマで名を上げ、真の市民権と地位を望むなら、進むべき道は一つしかない」
ルキウスは中庭に飾られた、歴代の先祖たちが戦場で勝ち取った武具の数々に視線を走らせた。
「軍務だ。ローマでは剣を振るい、血を流した者こそが最も尊重される。幸い、ティトゥスの手紙には君が類まれなる弓の使い手だとある。今、ローマはサムニウム人との激しい戦いの真っ只中にある」
ルキウスはヘラクレスの引き締まった体躯を満足げに眺め、声を潜めて続けた。
「我が一族が支援する非市民兵の軍の、百人隊のオプティオ(副隊長)候補として推薦状を書こう。戦場で手柄を立て、略奪品を持ち帰り、兵士たちの信頼を勝ち取って戻ってこい。そうなれば、元老院の頑固者たちも君を『余所者』とは呼べなくなる。……その腕、ローマと我が家門のために振るってみせよ」
「……」
ヘラクレスが悩むのを見て、猛がマイクを握る。
――ヘラクレス、断れ。14歳で戦争に行くのはリスクが高すぎる。お前には、安全な『神官ルート』が向いている。
ヘラクレスは一度目を閉じ、脳内の声に従って口を開いた。
「ルキウス様……今すぐ軍団に入るとはお答えできません。私は家族や側近と相談し神に仕えるつもりで動いておりました」
ルキウスは一瞬、目を細めたが、不機嫌を悟られぬよう穏やかな声で言う。
「ふむ……。貴公は家名の再興をお考えであったな。なんと言うお家かな?」
――ヘラクレス、ヤマト氏族のタケルス家だと言え!
いいか、口が裂けても『アルゲアス家』なんて名乗るなよ。大王の庶子だとバレたら、ローマで身動きが取れなくなり、再び軟禁状態になるぞ。
「……マケドニアの古き血筋、ヤマト氏族のタケルス家の者でございます」
「ヤマト氏族か……」
ルキウスたちローマ人はもともとギリシャの家名に詳しくはない。ゆえにヤマトと言う家名に疑問を持たなかった。また当時、没落貴族が新しい家名を名乗るのは自然だった。
「ヘラクレス殿、元老院に入ろうと思えば、市民権と重職に就く必要がある。だがローマは「市民皆兵」と言う国家だ。公職に就くためには、原則として10年間の軍役経験、あるいは10回以上の従軍経験を持たねばならぬ。家名再興を希望するならば軍に入るべきだ」
ーーーーーーーーー
猛が《N-Home》に問う。
「ちょっと待て、公職に就くのに金と人気の他にも軍務経験も必要なのか!?」
《はい、必要です。絶対条件ではありませんが、軍務経験がない場合、当選確率は大幅に低下します。ローマでは“国家に剣を捧げた者”が政治を語る資格を持つとされています》
「マジかよ……」
猛は思わず天を仰いだ。
「じゃあヘラクレスが、市民権を得るためには神殿に行くだけじゃダメって事か?」
《市民権を得ること自体は、有力者の推薦や金、あるいは国家への貢献で可能ですが、“元老院議員”という頂点を目指すなら、軍務経験のない者は『臆病者』の烙印を押され、民衆の支持を失います。つまり、今のままでは政治の表舞台には立てません》
「なら……やるしかないじゃん」
ーーーーーーーーーーーーー
猛はマイクをギュッと強く握った。
――ヘラクレス。予定を変更するぞ。
アレキサンドロス大王のようになれとは言わない、だが戦場に立つ勇気があるなら、ルキウスに軍団に入れて貰え。
ヘラクレスは、コクリと頷き、全身の血が逆流するような熱さを感じた。
父、アレクサンドロス。その名は彼にとって、憧れであると同時に、決して逃れることのできない「呪い」でもあった。これまで「庶子」として影に隠れ、殺されぬよう逃げ続けてきた少年の中に、眠っていた何かが目を覚ます。
(父上のように……)
「ルキウス様、私が間違っておりました。軍に入らせてください。神への祈りは戦場でも捧げられます。このローマで家名を再興させるため、私は誰よりも戦いで活躍し、その資格があると証明してみせます!」
ルキウスはヘラクレスの豹変に一瞬呆気に取られたが、やがてその表情に笑みを浮かべた。少年の体から放たれる「気迫」が、変わったのを肌で感じたのだ。
「はっはっは! 良い眼になったな、ヘラクレス! ティトゥスが手紙に書いていた通り、やはり貴公には武の才がありそうだ!」
ルキウスはアトリウム(建物内部の中庭)に響き渡る声で笑い、ヘラクレスの肩を力強く叩いた。
「私が貴公の道を示そう。あとは貴公
の実力と覚悟、そして運しだいだ」
ヘラクレスは深く頭を下げた。
「望むところです。ルキウス殿のご恩に報いるため全力を尽くします!」




