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異世界王朝育成―アレキサンダー大王の末裔―  作者: Y・T
第一章 ディアドコイ領脱出
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015 紀元前312年 ティトゥスの投資

■6月22日。午前9時

タレントゥム、ムッリウス邸


昨夜の宴の喧騒が嘘のように、屋敷は静かな朝を迎えていた。


ヘラクレスは、中庭の噴水の淵に腰を下ろし、磨き上げられた自らの短剣を静かに見つめていた。


宴の席で、ティトゥスは酒の力を借りて何度もヘラクレスの素性を探ろうとした。だが、ヘラクレスは猛の指示通り、適度な距離を保ちつつ「没落した名門の誇り」を演じきり、核心には一歩も踏み込ませなかった。


その時、背後から衣の擦れる音と共に小さな声が聞こえた。


「ヘラクレス様……」


振り返ると、そこには昨夜よりもさらに地味な、しかし気品のある旅装に身を包んだカシアが立っていた。


「……昨夜は、父の不躾な問いにも真摯に答えていただき、ありがとうございました。カシアからもお礼を」


カシアはさらに一歩近づき、ヘラクレスに頭を下げた。


彼女の胸元には昨日まで肌身離さず身に付けていた、亡き婚約者の形見である琥珀の首飾りが外されていた。過去に縛られていた少女が、自らの意志でその鎖を解いたのだ。


「……父は、貴方様を『危険だが、この上なく価値のあるお方だ』と申しておりました。そして、貴方が望まれるなら、ローマの有力者への紹介状を用意すると」


カシアの瞳が、真っ直ぐにヘラクレスを射抜く。


「ヘラクレス様。貴方様は本当に、ただの『没落貴族』なのですか? 私には、貴方様がもっと大きな……運命を背負っておられるように見えるのです」


ヘラクレスは噴水の水面に映る自分の顔を見つめ、静かに立ち上がった。


昨夜、タケルスから「深入りはするな」と神託を受けていたが、目の前の少女が向ける視線は、ただの好奇心ではないと感じた。


「……カシア殿。私が何を背負っているか、今は私自身も探している最中だ。だが一つだけ確かなことがある」


ヘラクレスは彼女に近づきすぎず、かといって冷たすぎない絶妙な距離で立ち止まった。


「私はたち止まるつもりはない。……いつか私が、何者であったかではなく、何者になったかを君に話せる日が来たら、その時は本当の答えを教えよう」


カシアは一瞬顔を赤らめ、息を呑んだ。

まだ12歳の少女には、その言葉はまるで告白のように聞こえたのだ。


「……分かりました。その日を楽しみに、貴方の無事をタレントゥムの地で祈っております」




■正午 タレントゥム港


桟橋には、出航の準備を整えた船が、ゆるやかな波に揺れていた。


ヘラクレスが船の前で分かれを告げると三男のアリストス・ムッリウスが前に出た。


「ヘラクレス殿、また会いましょう」


アリストスがヘラクレスと抱擁を交わすと、次女のルチアも抱き着いてきた。


「ヘラクレスさま、また会いに来てくださいね!」


長女カシアは静かに微笑む。


「ヘラクレスさま。またお会い出来る日を、心待ちにしております」


ティトゥス・ムッリウスが一歩前に出た。


「ヘラクレス殿……」


少年の瞳を見つめ、ティトゥスはゆっくりと言葉を紡いだ。


「短い間ではあったが、私は貴殿の中に、非凡な“何か”を感じた。それは商人としての直感です」


そう言うと、ティトゥスは従者に合図を送った。


ティトゥスの傍仕え2人が前に出る。2人の胸には、それぞれ革袋が抱かれていた。


「これは?」


「私からの投資です。金貨にして100枚。……ヘラクレス殿ならきっとローマで活躍する。ローマで異国人が貴族になることは至難の業ですが、あなたならやり遂げるかも知れない。その時、ムッリウス家が“最初の友”であったことを、どうか覚えていて頂きたい」


周囲の側近たちが息を呑んだ。

金貨100枚──タレントゥムでも邸宅が建つほどの巨額の金だ。


ヘラクレスが頷くと、側近たちが革袋を受け取る。


「もう一つ土産があります。これはローマの貴族、ルキウス・アエミリウス殿への紹介状です」


「アエミリウス?」


ティトゥス頷いた。


「私の父の代よりアエミリエス氏族とは深い繋がりがありましてな。

三十年近く前、ローマがラテン人との大戦に勝ち、ラテン人の一部の都市の富裕層にローマ市民権を一斉に与えたことがあったのです」


ティトゥスはニコリと笑い、ヘラクレスだけに聞こえるよう小声で告げる。


「その際に作られた“市民権付与者の名簿”に、

先代のアエミリエス殿が我が家の名をそっと紛れ込ませてくださったのだ。

そのおかげで、我が家はローマ市民権とアエミリエスの姓を頂けたのです」


(それって⋯⋯不正……)


ヘラクレスはそんな秘密を自分に話してもいいのかと思った。だが、それだけ自分を信用してくれたのだと思う事にする。


「⋯⋯なるほど皆さんがローマ姓だったのにはそのような事情があったのですね⋯⋯」


ヘラクレスは気まずさから、話題を元に戻した。


「⋯⋯ティトゥス殿。このご恩は、決して忘れません」


その言葉に、ティトゥスは満足げに微笑み、抱擁を交わす。


「期待しておりますぞ。

 ……さあ、行かれよ。追い風はすでに吹いている」


ヘラクレスは深く一礼し、側近たち共に船に乗り込んだ。


「ヘラクレス殿! お元気で! いつかまた会いましょう!」


アリストスが桟橋から身を乗り出し、千切れんばかりに手を振る。


防波堤の端では、カシアとルチアが並んで立っていた。


ルチアが無邪気に声を上げる傍らで、カシアは何も言わず、ただその目に少年の後ろ姿を焼き付けるように、じっと海を見つめた。


「……出航だ!」


カシオスの号令で白い帆が風を孕み、船体は滑るように青い海へと躍り出た。


遠ざかるタレントゥムの白い街並みと、自分たちを快く迎え入れてくれた家族たちの姿。ヘラクレスがその光景を静かに見つめていると、背後からバルシネが音もなく歩み寄った。


「ヘラクレス。タレントゥムはどうでしたか。……美しい少女たちが見送りに来ていましたね」


バルシネはその美貌ゆえに、目立つことを避けて船内でずっとメナンドロスと共に待機していた。彼女は、船に戻った息子の姿を窓の隙間から見守っていたのだ。


母の少しからかうような、それでいて未来を案じるような眼差しに、ヘラクレスは照れ隠しに視線を海へと戻した。


「……ムッリウス家の娘たちです。良い人たちでした。何より、父君のティトゥス殿が私の未来に『投資』してくれました。金貨百枚です。それだけあれば、ローマでの資金は十分でしょう」


「そう、きっとあなたに流れる大王の血が、異国の巨商を動かしたのですね。それと……カシアという娘さんは、最後まであなたの背中を追っていましたよ。きっとあなたに好意を抱いたのでしょう」


猛はマイクを握り締めた。


――ヘラクレス。悪いが、貰った金貨は奉納してくれないか。

弓の力を授けるのに、金貨百枚分の神力を使ったのだ。


「……っ」


ヘラクレスの肩がわずかに揺れた。

バルシネが息子の変化に気づき、静かに視線を向ける。


「母上……タケルス様は、頂いた金貨をお望みです」


ヘラクレスは短く息を整えた。


「タケルス様。ティトゥス殿から頂いた金貨百枚は、すべてお納めします。

 ですが……アリストス殿から頂いた二十枚は、戦ってくれた船員たちの報酬に使いたいのです」


言葉は丁寧だが、少年の声には揺るぎがなかった。

“奉納すべきもの”と“守るべきもの”を、はっきり分けている声音だった。


――分かった。それでいい。


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