014 紀元前312年 ムッリウス家の姉妹
■6月21日 午前10時過ぎ
ヘラクレスたちの船は、海賊船から救ったアリストスの大型商船の後ろを航行し、タレントゥムの港に入った。
「ここが、タレントゥム⋯⋯」
ヘラクレスは思わず息を呑んだ。
タレントゥムはペルガモンよりも、遥かに大きく、そして栄えていた。
市場の喧騒、オリーブ油の匂い、商人たちの怒号、船大工の槌音──すべてが活気に満ち、ペルガモンとは比べものにならない。
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大和猛が《N-Home》に問いかける。
「なあAi、ここイタリア半島だろ? ペルガモンと少し建物の雰囲気が似てないか?」
《ご主人様、それはタレントゥムがギリシャ人により作られた都市だからだと思います。イタリア南方にはギリシャ人が移住して作った都市が幾つもあります》
「移住? ギリシャ人がイタリアに侵攻して勢力拡大したってことか?」
《いいえ、軍隊で攻めたというより、“住み着いて増えていった”という感じです。ギリシャ人は交易と新しい土地の確保を目的としました》
「でもギリシャの町って事は、ここもディアドコイの誰かが支配してるってことか?」
《いいえ、ご主人。タレントゥムは“ギリシャ文化の町”ですが、ディアドコイの領土ではありません。
イタリア南方のギリシャ系の都市は独立しており、それぞれが小さな国家として成り立っています》
「国家? じゃあ上下関係はどうなってるんだ? それぞれの都市に王がいる感じか?」
《上下関係は存在しません。タレントゥムのようなギリシャ系都市は、“王”ではなく、市民による政治で運営されています。都市ごとに仕組みは違いますが、基本は評議会や選ばれた指導者が方針を決める形です》
「ふ~ん。同じギリシャでもアレキサンダー大王のマケドニアは王政なのにここは違うんだな」
《ご主人様、ギリシャの国々は紀元前1600〜1200年頃には確かに強力な王がいました。
しかし紀元前8世紀頃から、多くの地域で王政は廃止され、都市国家へと移行しました。
その後、マケドニアの覇権下に入ってもポリスは王政に戻らず、ローマに征服されてアカイア属州となる紀元前146年まで、ギリシャ世界の大半は“王のいない政治体制”のままだったのです》
「へえ、そうなのか?」
《はい。イタリア南部のギリシャ系都市が王政でないのは、それらの都市が“ギリシャ本土で王政が消え、都市国家が一般化した後”に建設されたからです》
「ふ~ん」
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タレントゥムに入港後、ヘラクレスの乗った船は、アリストスの船と並んで係留された。
ヘラクレスはバルシネと相談し、バルシネは船に残ることとなった。
バルシネの容姿は周囲の注意を引くため、ヘラクレスたちの足取りをアンティゴノスに悟られないためだ。
イタリアがディアドコイたちの支配下にないと言っても、王子の返還を求められればタレントゥムやローマが応じる可能性はあるからだ。
ヘラクレスが船から降りると、直ぐにアリストスが歩み寄って来た。
「ヘラクレス殿……! ここがタレントゥムです。これから我が家に案内しますね!」
アリストスは晴れやかな顔でヘラクレスの前に立ち、周囲に集まる船員や荷受人たちに向かって声を張り上げた。
「この御方は我がムッリウス家の恩人、ヘラクレス殿だ! 道を開けろ!」
ヘラクレスが一歩、タレントゥムの土を踏みしめる。
ペルガモンの山風とは違う、乾いた太陽の熱が足裏からじわりと伝わってきた。
後ろに控えるピュロスが、感極まったように小声で囁く。
「……ヘラクレス様、ここならアンティゴノスの力も届きません。ようやく、僕らは本当の『自由』を手に入れたのですね」
ヘラクレスは静かに頷いた。
アリストスに導かれ、一行は港の喧騒を抜けて、大理石の柱が並ぶ高台の居住区へと向かう。
行き交う人々は、アリストスがどこかから連れてきた“年若い一団”を、珍しげに振り返っていた。
その中心にいるヘラクレスは、周囲の側近とは異なる雰囲気を纏っており、市民たちの好奇の的となる。
「……ヘラクレス殿。港に着いてすぐに、部下を父の下へ走らせました。屋敷に着けば、すぐに父は会ってくれると思います」
道をさらに進むと、やがて高台の道が緩やかに右へ折れた先に、白い壁に囲まれた大きな屋敷が姿を現した。
門前には、数名の使用人が整列している。
アリストスが小さく息をついた。
「……父が、出迎えてくれるようです」
その言葉と同時に、屋敷の奥から、ゆっくりと一人の男が姿を現した。
白いトガを纏い、年齢を重ねた体つきでありながら、その歩みには揺るぎない威厳が宿っている。
ティトゥス・ムッリウス。
南イタリアでも指折りの実力者であり、アリストスの父にして、タレントゥムの経済を背後から支える巨商である。
「アリストス、無事でよかった」
ティトゥスは息子を力強く抱擁し、その無事を確かめると、すぐに視線をヘラクレスたちへと転じ、柔和ながらも全てを見透かすような笑みを浮かべた。
「貴殿らが息子の命の恩人か。ムッリウス家を代表して、深く感謝する」
「父上、こちらがヘラクレス殿です。私の命と、商船を救ってくださった恩人です」
アリストスの紹介を受け、ティトゥスは改めてヘラクレスを正視した。
熟練商人の鋭い眼は、少年が持つ年齢に見合わぬ威風を放っていることを見抜いた。
「……貴殿がヘラクレス殿か。使いの者からは没落の身と伺ったが、その佇まいはとてもそうは見えぬ。貴方のような御方が、なぜこれほど危険な海を越えて来られることになったのか……」
ヘラクレスは返答に困った。
「父上、ヘラクレス殿がお困りです。まずは屋敷の中に入りましょう」
ティトゥスは「おっと、これは失敬した」と短く笑い、鋭かった眼光を柔和なものへと収めた。
「アリストスの言う通りだ。潮風に吹かれたまま、このような門前で問答をするのは商人の作法にもとる。さあ、中へ。貴殿らのために、タレントゥムで最高の席を用意させよう」
ティトゥスに促され、ヘラクレスたちは青銅の門をくぐり、屋敷の奥へと足を踏み入れた。
外壁の無骨な印象とは裏腹に、内部は白亜の大理石が敷き詰められ、中庭には透き通った水を湛えた噴水が涼やかな音を立てている。
回廊の随所には、ギリシャの洗練された彫像や、エジプトからもたらされたであろう色鮮やかな織物が飾られており、ムッリウス家の圧倒的な財力を物語っていた。
一行が広間へと案内されると、そこには焼きたてのパンの香りと、熟成されたワインの香りが満ちていた。
「……ヘラクレス殿。まずは、この毒気のない酒を一杯受けていただきたい。昨日の戦いの埃を洗い流すためのものだ」
ティトゥスは自ら銀の杯を手に取り、ヘラクレスに差し出した。
その所作一つ一つが、相手を「単なる客」ではなく「相応の礼を尽くすべき貴人」として扱っていることを示している。
ヘラクレスが捧げられた杯を恭しく受け取ったその時、広間の奥から軽やかな衣の擦れる音が響いた。
「父上、お戻りなさいませ」
柔らかな声と共に姿を現したのは、二人の少女だった。
一人は、静謐な美しさを湛えた長女のカシア(12歳)。
絹のように滑らかな黒髪をまとめ、落ち着いた足取りで進み出る彼女の瞳には、年齢に見合わぬ深い憂いがあった。
カシアは昨年、流行り病で婚約者を失っていた。この屋敷の華やかさはどこか遠い世界の出来事のように感じていたのだ。だが、その視線がヘラクレスを捉えた瞬間、止まっていた刻がわずかに動いたかのように、その瞳が小さく揺れた。
その後ろから、弾むような足取りで顔を出したのは次女のルチア(10歳)だ。
姉とは対照的に、好奇心そのものを形にしたような輝く瞳をヘラクレスに向け、あどけない笑みを浮かべている。
「ヘラクレス殿。私と後妻の間に出来た娘のカシアとルチアだ。兄を救った英雄にどうしても挨拶がしたいと言ってきかなくてな⋯⋯」
ティトゥスの紹介を受け、カシアがしなやかな動作で膝を折った。
「……お初にお目にかかります、ヘラクレス様。兄の命をお救いいただき、ムッリウス家の娘として心よりお礼を申し上げます」
彼女の声は澄んでいたが、どこか壊れ物を扱うような危うさが混じっている。一方のルチアは、ヘラクレスの腰にある短剣をじっと見つめながら、こらえきれないといった様子で口を開いた。
「ヘラクレス様は、たった一本の矢で悪い海賊を倒したって本当ですか? まるで英雄ヘラクレスの再来ですね!」
猛がマイクを握り、忠告する。
――ヘラクレス。二人ともお前の未来の花嫁候補だ。
だが、お前の状況では、ローマ人の花嫁を取った方がよくなる可能性が高い。だから心を完全には移すな。今はまだ近づきすぎるな。
ヘラクレスはルチアの無邪気な瞳を見つめ、それから一歩引いて、静かに、だがはっきりとした境界線を引くように微笑んだ。
「一本の矢で海賊を倒したのは事実だ。だが、それは私の腕ではなく、神の導きがあったからこそだ⋯⋯。それにルチア殿、私は英雄などではない。再起を掛けてローマへ向かう没落貴族に過ぎない」
「ヘラクレス様は謙虚な方なのですね! その目もとても素敵です! 左右で目の色が違う方を、私は初めて見ました!」
「ルチア失礼ですよ!」
「カシア殿、大丈夫です。
⋯⋯私の左右の目の色が違うのは、亡くなった父と同じなのです。父も右目は黒色、左目は青色だったと聞いています。ですので目は父譲り、髪は母譲りの黒なのです」
ヘラクレスの言葉は丁寧だったが、そこには深入りを許さない、壁があった。カシアはその微かな拒絶を感じ取り、わずかに目を見開いた。彼女の周囲にいる男たちは、ムッリウス家の財力や彼女の美しさに惹かれ、必死に距離を詰めようとする者ばかりだった。だが、目の前の年上の少年は財には目もくれない。
「……父親譲りの青い瞳ですか」
カシアが小さく呟く。その胸の奥で、死んだ婚約者への執着とは別の、ひりつくような好奇心が芽生えた。
ルチアが空気を壊すようにヘラクレスの腕を取る。
「ヘラクレス様、もっとあなたのことを聞かせて!」
若者たちの間に流れる奇妙な緊張感を、楽しむように見つめていたティトゥスが動く。
「はっはっは。ルチアそう急ぐでない。……宴の準備をさせているところだ。ヘラクレス殿、まずは客室で旅の疲れを癒されるがよい。夜の宴では、貴殿のこれからについて、ぜひ詳しく聞かせてほしい」




