013 紀元前312年 ムッリウス家の三男
■6月20日。午前11時過ぎ。
ヘラクレスの船は出航後、予定通り海賊に襲われている商船を発見した。
「前方、左舷の前寄りに船影5つ! 商船を囲んでいるぞ!」
見張り台の叫びに、ヘラクレスは甲板へ飛び出した。
潮風の中には、焦げたような匂いが混じっている。
水平線の先──
大型の商船2隻が3隻の海賊船に左右から押さえ込まれ、今まさに引き裂かれようとしていた。
――ヘラクレス。よく聞け。
あれが昨日言った“獲物”だ。
あの商船にいる青年を救えば、大きな人脈が得られる。
タケルスの静かな声が、脳内に響く。
「……分かっています」
ヘラクレスが小声でカシオスに伝える。
「神託だ。あの船を助ける」
カシオスは一瞬、戸惑いの表情を見せたが、ヘラクレスの瞳に宿る不退転の決意、そして「神託」の重みを感じ取り、即座に船員たちへ咆哮した。
「野郎ども、進路変更だ! あの商船を助けるぞ! 全員、戦闘配置に付け!」
突然の号令に、船員たちがざわついた。
「カシオス様、正気ですか!? 巻き込まれたら俺たちまで──」
しかしカシオスは、その不安を一喝で吹き飛ばした。
「黙れ! 没落したとはいえ、我が父の恩人である御方が助けると言っておられるのだ! ステファノス家の名にかけて、海賊を撃退する! 帆を張れ!」
船員たちは渋々ながらも、カシオスの迫力に押されて動き始めた。
ヘラクレスは合成弓を握りしめ、手すり越しに標的を凝視する。
――ヘラクレス。右側の手前の船だ、あの船に海賊を率いている首領がいる。近づけば首領は船首に現れるだろう。
ヘラクレスが小声でカシオスに伝える。
「カシオス。手前の右側の船の船首に海賊の首領がいるそうだ。船首に現れる筈だから、弓で狙える角度で通過してくれ」
「分かりました!」
海賊のひとりが、ヘラクレスたちの船の接近に気が付く。
「ザンザス様! あっちから船が一隻来やす!!」
「⋯⋯ちっ、野郎ども! 新手の船が俺たちの獲物を奪う気だぞ。威嚇して追い払うぞ」
ザンザスは船首に立ち、『来るなら来い』と部下数人と共に剣を振り回した。
ヘラクレスは船首から弓を引き絞る。
指を弦から離す瞬間――波のうねりで船体が激しく跳ねた。
放たれた矢は、頭目から大きく外れ、海へと吸い込まれていった。
「下手クソなヤツだ! やる気ならヤッてやろうじゃねえか! 野郎ども、あの小生意気な商船に矢の雨をくれてやれ!」
ザンザスの怒号により、海賊船から矢の雨が降り注いだ。
「ヘラクレス様、伏せて!」
レオニダスが盾を掲げて覆いかぶさり、矢が盾に刺さる。
「すまないレオニダス」
――ヘラクレス。いくら神の力でも、遠距離から狙うのは至難の業だ。
近距離で一発で勝負を決めろ! ルカに舵を切らせて、船首同士をギリギリですれ違わせるんだ!
「ルカ! 右だ、限界まで引き付けてから舵を切れ!」
ヘラクレスの指示に、ルカが死に物狂いで舵を回す。
激しい音を立てて波を切り、海賊船の前を横切る。
船首同士が最も近づく距離。
――今だ、ヘラクレス!
ヘラクレスは盾の陰から飛び出した。
二十メートル先に頭目の嘲笑う顔がある。
ヘラクレスは弓を構え、右目を瞑り、父親譲りの青い瞳で瞬時に狙いを付け矢を解き放った。
放たれた二射目は、ザンザスの喉元へと吸い込まれた。
「……がっ!」
ザンザスが喉を手で押さえながら崩れ落ちる。
それを見た海賊たちの顔から、一瞬で笑みが消え、驚愕と恐怖が広がった。
「頭が……頭がやられた!」
「この波の中で当てやがったぞ!」
動揺が広がる中、副船長が、顔を引きつらせて絶叫した。
「ずらかるぞ! あの船はヤバい! 面舵だ、全力で漕げ!」
その号令で弾かれたように、海賊たちは商船にかけていた鉤縄を斧で叩き切り、我先にと自分たちの船へ飛び移った。
海賊船は大商船と激しく舷側を擦り合わせ、火花を散らしながら、ほうほうの体で逃げ去ってゆく。
ヘラクレスは弓を握ったまま、逃げ惑う彼らを冷徹な眼差しで見送った。
「……勝ったぞ! 奴らはもう戻ってこん!」
カシオスが叫び、船員たちに歓声が上がり、警戒が解かれる。
静寂が戻り始めた海上で、残されたのはボロボロになったタレントゥムの大きな商船と、返り血を浴びることなく勝利を手にしたヘラクレスたちだけだった。
ヘラクレスが弓を下ろすと、隣で盾を構えていたレオニダスが感嘆の息を漏らした。
「……見事です、ヘラクレス様。まさに神懸かった一射でした」
――よし、ヘラクレス。完璧だったぞ。 こちらは僅かな怪我人が出た
だけで、海賊を追い払った。さあ、商人の青年に声をかけてやれ。
ヘラクレスは弓を側近に預けると、カシオスと共に手すりまで進み出た。
タレントゥムの商船に横付けすると、隣の船のデッキでは、海賊が去った後の惨状の中で、呆然と立ち尽くす青年と五、六人の船員たちの姿が見えた。
(やば、全滅しかけてるじゃん)
焦る猛とは逆に、ヘラクレスは落ち着いた声で、相手を威圧せぬよう呼びかけた。
「……大丈夫か? そちらへ乗り移っても構わないか?」
その声に弾かれたように、船の船長である青年――アリストス・ムッリウスが顔を上げた。
自分たちを救ってくれた人物が、自分より年下の若者であることに驚愕しながらも、必死に声を絞り出す。
「……あ、ああ……! 助けてくれてありがとう。……どうぞ、こちらへお越しください!」
アリストスの許可を受け、レオニダスたちが手際よく両船の間にタラップを架けた。
ヘラクレスはカシオスを従え、揺れる足場を確かな足取りで渡り、煙の燻る商船のデッキへと足を踏み入れた。
アリストスは震える膝を叩き、よろよろと立ち上がると、ヘラクレスの前で深く頭を下げた。
「……ありがとうございます。私はタレントゥムのムッリウス商家の三男、アリストス、この船団の長です。あなたがその船の船長ですか?」
そこへ、一歩後ろに控えていたカシオスが悠然と口を開く。
「あの船の船長は私、カシオス・ステファノスだ。だがムッリウス殿。貴公の窮地を救うと決断し、その見事な弓で首領を倒したのは、私の友人である此方のヘラクレス様だ」
カシオスの言葉に、アリストスは頷いた。
「……ヘラクレス殿。カシオス殿。感謝いたします。ご助力がなければ、今頃は海の藻屑にされていたでしょう。あっ、そうだ。少しお待ちください」
そう言ってアリストスは自身の船室に入ると、すぐに革袋を手に持って戻って来た。
「……手持ちの金貨20枚でございます。今の持ち合わせはこれしかございませぬが、どうか私たちの命を救って下さったお礼にお納めください」
ヘラクレスが頷くと、側近のピュロスが礼金を受け取った。
「もしよろしければ、ご一緒にタレントゥムに参りませんか? 我が父ティトゥス・ムッリウスは名の知れた商人です。ぜひご紹介させて下さい」
――ヘラクレス。紹介して貰え、この出会いは重要だ。
ヘラクレスは一瞬、海風に吹かれるように目を閉じ、タケルスの指示に頷いた。
それからアリストスに向かって穏やかに微笑んだ。
「アリストスの申し出、ありがたく受けよう。私は家の再興を願う没落した貴族です。高名な御方にお会いできるのは、願ってもないことだ」
ヘラクレスの気品ある返答に、アリストスはパッと表情を明るくした。
「受けていただけますか! 父もきっと喜びます。父は、義に厚い方を何よりも好む人ですから!」
カシオスが一歩前に出る。
「見たところ、そちらは動ける船員が少ないようです。タレントゥムの港までこちらの船員を何人かお貸ししましょう」
「ありがとうございます!」
「では、そちらの負傷した船員の治療が終わり次第、すぐに出航しましょう。他の海賊に襲われてはかないません」
「はい! すぐに準備させます!」
アリストスはすぐさま自分の船の船員たちに指示を飛ばした。
「みんな聞いたか! この御方々は私たちの恩人だ! 帆を張り直せ。エフェソスに行くのは延期だ! ヘラクレス殿の船と共に、一度タレントゥムへ戻るぞ!!」
傷ついた船員たちは、生きてタレントゥムに戻れることに安堵し、喜びの声を上げた。




