012 紀元前312年 海賊退治
■6月10日
午後4時、アンティゴノスの執務室。
アッタロスの急使が、アンティゴノスのいるケライナイに着いた。
※ケライナイはペルガモンから南東へ300キロほど離れた地で、現トルコ、アナトリア半島の中央部から少し西に位置する。そのためヘラクレスの逃亡が発覚してから既に5日が経過していた。
「なんだと⋯⋯」
アンティゴノスは執務室の椅子に座ったまま右眼を細め、震えながら平伏するアッタロスの使いを見下ろした。
使者の額から汗がぽたりと落ちた。
「……いま、ヘラクレスが逃げ出したと言ったか?」
アンティゴノス一世は通称「モノフタルモス(片目のアンティゴノス)」と呼ばれ、大王亡き後、広大なアナトリアを統べ、帝国で最大の版図を誇る男である。
そのため使者はアンティゴノスに睨まれて、今にも逃げ出したい気持ちになった。
「はい⋯⋯監視の兵はすべて殺されました。この手紙は、ヘラクレス様がアンティゴノス様へ書き残したものです」
アンティゴノスは、使者から印章の押された書状を受け取り目を通した。
「『王位には興味がない。名の知れぬ村で密かに過ごす』……か。
ふん。アッタロスは子供のお守りも出来んのか。奴の無能さには反吐が出るわ」
アンティゴノスが椅子から立ち上がると、その影が使者を覆い尽くした。
「ヘラクレスという存在は、生きているだけで火種なのだ。私が奴を担ぎ上げれば王になり、カッサンドロスが担いでも王になる。奴が何を望むかなど関係ない」
アンティゴノスは文を握りつぶし、背後の地図へと歩み寄った。
「周囲の村を探しているそうだが、無駄だ。子供と女が監視を抜けて消えたのだ。必ず裏に手引きした者がいる。……南だ。港を調べろ。財力のある貴族や商人が動いた形跡はないか。船の出入りをすべて洗え」
片目の巨王は、直感だけで正解の匂いを掴みかけていた。
「アッタロスに伝えろ。一ヶ月以内にヘラクレスの首、あるいは生け捕って私の前に連れてこいとな。さもなければ、ペルガモンの統治権は貴様の弟に預けることになるだろうとな!」
使者は返事もできず、何度も床に額を打ちつけるように頭を下げ、逃げるように部屋を飛び出した。
ーー
5日後。
ペルガモン港、港湾管理所。
執務室の机には、数えきれないほどのパピルスが山積みにされていた。
守備隊長ガノンは、血走った眼でそれらの一枚一枚を睨みつける。
領主アッタロスからの督促は、日を追うごとに苛烈さを増し、今や「成果なし」という報告は死を意味していた。
「……分からん。一向に絞り込めん!」
ガノンは部下の前で、苛立ちまぎれに机を叩いた。
使者がアンティゴノスの命を受けて帰還し、港の全記録を洗い始めて丸一日が経過した。
だが、肝心の「ヘラクレスがいつ屋敷を抜け出したか」という正確な日時が特定できていない。
ヘラクレスの監視兵の定期報告は五日に一度だった。その空白の時間が、大きな壁となって立ちはだかっていた。
「ヘラクレスが消えたのは十日前から十五日前の間……。対象となる船が多すぎる。商船、漁船、果ては他国の使節船まで入れれば、この5日間に港を出た船は百を優に超えるぞ」
兵士たちが積み荷の目録や乗船名簿を必死に照合しているが、偽名や偽装工作の可能性を考えれば、そのすべてが疑わしく見えた。
その時――アッタロスが管理所のドアを空けて入ってきた。
ガノンからの報告が待ち切れなかったのだ。
「アッタロスさま!」
「ガノン。ヘラクレスの行方の手掛かりは掴めたのか!」
「いえ、⋯⋯まだです」
「商人の動きはどうだ! 没落した家や、最近急にいなくなった他国の奴はいないか!」
「……調べております。ですが、いつの間にか夜逃げした者や廃業した者はこの不穏な情勢下では珍しくありません。ステファノス家などは、アッタロス様に多額の献上金をして一月前から3回に分けて堂々と出国しておりますし……」
「……ステファノスか」
アッタロスはその名を一度口の中で転がしたが、すぐに意識から外した。
彼にとってステファノス家は、自分に大きな利をもたらした「従順な羊」に過ぎなかった。
それに当主のテオドロスが乗った船はローマに着き、最後に出た船も、今頃はマケドニアを通過し、アテネの辺りを運航している頃だ。
つまり既にアンティゴノスの勢力圏には居ないと言う事になる。
「アンティゴノス様がお待ちだ。猶予はない。……エジプトに絞るぞ。王家が頼るなら、大王の腹心プトレマイオスだ。エジプトに行った船を洗い直せ。何としてもあの小僧を見つけ出すのだ!」
「はっ!」
■6月19日夜
ヘラクレスの乗った船は、ギリシャからイタリア半島の南部に渡る直前の島、ケルキラ島で夜が明けるのを待っていた。
※当時の船は沿岸航法が主体のため、ヘラクレスたちも出来るだけ陸地に沿って進んでいた。
猛がネットの攻略法を見ながらマイクを握る。
――ヘラクレス聞こえるか?
「っ!? はい、タケルス様」
――明日の出航は午前8時だ。
……いや、そっちは“午前8時”じゃ分からないか。ちょっと待ってろ。
ーーーーーー
猛は《N‑Home》に訊ねる。
「なあ、一刻って言葉はこの時代の人間にも通じるか?」
《通じます。
ですがご主人様、日本の“時代劇に出てくる一刻=二時間”とは別物ですからね》
「そうなのか?」
《はい、ローマの“刻”は 昼を12等分した時間 のことで、一刻の長さは季節によって変わる可変時間です》
猛が眉を寄せる。
「じゃあ一刻は一時間くらいなんだな?」
《いいえ、この時期なら一刻は約75分ほどです》
「分かった」
ーーーーーーー
――ヘラクレス。日が昇ってから二刻より少し前に声を掛ける。声を掛けたらすぐに港を出港しタレントゥム(イタリア南方の都市国家)を目指せ。
「承知しました。日が昇ってから二刻弱ですね」
――それから二、三刻すれば、海賊に襲われている商船が2隻見える。それを助けろ。
ヘラクレスは少し息を呑み、慎重に言葉を選んで返した。
「海賊……タケルス様。私たちだけで海賊から商船を助けることができるでしょうか?」
猛は画面でヘラクレスを見ながら、落ち着いた声で答える。
――大丈夫だ。今からお前に弓術のスキルを授ける。それで海賊の首領を狙い撃ちにするだけだ。首領が死ねば残った海賊は引き上げる。
猛は弓術スキルを選択し、購入&授与ボタンを押した。
《スキル【弓術(レベル4)熟練弓兵】を付与しました》
《残りポイント──34万》
その瞬間──
ヘラクレスの身体から、まるで胸の奥に灯がともるように、静かに力が広がった。
「……これは……」
――力を授けた。いまのお前は熟練の弓兵と同じくらいの腕前で敵を射る事が出来る。
ヘラクレスは拳を握りしめた。
指先が震えているのは、恐れではなく、確信だった。
「……タケルス様。ありがとうございます。神託に従い、明日は必ず海賊の頭を倒して見せます!」
ーーーーーー
N‑Homeが危険を告げる。
《本当に海賊退治をやらせるのですか? 弓術レベル4でも、成功率が35%しかない高難易度サブミッションですよ》
「分かってる。だがなAI、男にはほぼ負けると分かっていても、戦わなければならない時があるんだ」
《ちょっと何を言ってるのか分かりません。戦うのはヘラクレス様ですよ?》
「煩い! 俺だってヘラクレスが死ねば、始めからやり直しなんだ。リスクを背負ってるんだよ! それにこのイベントをクリアすれば、今後の展開が100倍は楽になる。⋯⋯つまり、避けては通れない、男の戦いってやつだ!」
N‑Homeがため息をつく。
《よく分かりませんが⋯⋯。ヘラクレス様、ご武運をお祈りしておきます⋯⋯》




