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異世界王朝育成―アレキサンダー大王の末裔―  作者: Y・T
第一章 ディアドコイ領脱出
11/13

010 紀元前312年 逃避港

ヘラクレスが門まで歩いて来ると、ルカは迷いのない所作で跪いた。


「父テオドロスの命を受け、お迎えに参りました。ステファノス家の次男、ルカにございます。

ご安心ください。外の兵舎の見張り二人は既に兄カシオスが始末しました。片付けが済み次第、もう一台の馬車を連れてこちらに参ります」


ルカの報告を聞き、レオニダスとメナンドロスは顔を見合わせ頷いた。1キロ先の兵舎を制圧したということは、この屋敷周辺はヘラクレスの手に落ちたことを意味する。


ヘラクレスは、興奮で手がわずかに震えるのを隠すように、ルカの言葉に深く頷いた。


「……よくやってくれた。感謝する、ルカ。ステファノス家の助けは一生忘れない」


ヘラクレスは周囲の側近たちを見渡し、声を張り上げた。


「皆、聞いたな! 道は開いた! ぐずぐずしている暇はない。アッタロスに気づかれる前に荷物を積み込め、港に向かうぞ!」


主君の号令を受け、即座にアルカトオスが実務的な指示を飛ばす。


「まずはヘラクレス様とバルシネ様が最初の馬車に乗る! 同行はレオニダスとメナンドロス、頼んだぞ。道中の護衛は貴公らにかかっている!」

「任せろ」

「承知した」


レオニダスは短く応じて剣の柄を握り直し、メナンドロスは音もなくバルシネの側に寄り添った。


アルカトオスは、荷物を抱えて震えているテッサと、その背後に隠れる幼い娘たちに視線を向けた。


「私とピュロス、そしてテッサの家族は次の馬車だ! 二手に分かれることで、出来るだけ目立たなくするのだ!」


側近たちはそれぞれの役割に従い、弾かれたように動き出した。


「食糧も服も要りません。必要なものはすべて父が船に揃えてあります。今は一刻も早くここを離れるのが先決です!」


ルカの鋭い言葉に、ヘラクレスは迷いなく頷いた。

バルシネもまた、長年過ごした部屋に一瞥もくれず、テッサに支えられながら馬車へと足を踏み入れる。


「……さあ、行こう」


ヘラクレスが乗り込むと同時に、レオニダスとメナンドロスが御者台と後方に分かれて飛び乗った。


荷積みという無駄な時間を一切省いたことで、制圧から出発まで、わずか数分。

中庭に馬車の車輪が砂利を蹴る激しい音が響き、馬車が、開け放たれた正門を抜けてペルガモンの街へと躍り出る。


背後で遠ざかる屋敷の白い壁は、もはや彼らを閉じ込める檻ではなく、ただの抜け殻へと変わった。



■午前10時


馬車は街道を南へと駆け下りていた。

山上の邸宅から港までは約20キロの長い下り坂が続く。

午前の陽光が石畳を照らし、車輪が跳ねるたびに乾いた音が響いた。


ヘラクレスは揺れる車内で拳を握りしめたまま、背後に遠ざかる街並みを一度も振り返らなかった。


バルシネが緊張している息子の手を握る。


「心配はいりません。あなたにはタケルス神の御加護があります」


ルカは御者台で、深くフードを被り直した。


「……バルシネ様、ヘラクレス様。これより、港までの半分を過ぎたあたりにある『宿場町』を抜けます。そこが最大の山場です。フードをお被りください」


宿場町には、一息つくための兵士や、アッタロス直属の役人が駐屯している可能性が高かった。


バルシネは、御者台で肩を強張らせているルカの背に、落ち着き払った声で告げる。


「ルカ、そのフードを下ろしなさい。……今、この街道で最も目立つのは『顔を隠そうとする者』です」


ルカが戸惑うように振り返ろうとすると、彼女は静かに続けた。


「私たちの顔を知る役人など、この港には一人もいません。彼らが探しているのは『犯罪者』であって、白昼堂々と街道を行く商人の家族ではないのです。

……いいこと、自信こそが最高の仮面なのですよ。顔を上げ、街の主のように振る舞いなさい」


その言葉には、かつてペルシア帝国やアレクサンドロスの宮廷で、無数の視線に晒されながら生き抜いてきた女性特有の重みがあった。


ルカとメナンドロスはハッとして、被りかけたフードをゆっくりと下ろした。


「……失礼いたしました。仰る通りです」


ルカは背筋を伸ばし、御者として前方を真っ直ぐに見据えた。商家の息子らしい、落ち着き払った態度に戻る。


馬車は、石畳を叩くリズミカルな音を立てながら、宿場町の入り口へと差し掛かった。


街道沿いには茶屋や馬具屋が立ち並び、休憩中の兵士たちが焚き火を囲んで談笑している。

数名の役人が通りを歩く人々の身なりを漫然と眺めているが、堂々と進む立派な馬車に対し、あえて制止をかける様子はない。


ヘラクレスは車内の小窓から、外の様子を窺った。


すぐそばを、アッタロスの紋章をつけた兵士が通り過ぎていく。心臓が早鐘を打つが、バルシネは静かに微笑んだまま、その手を優しく握り締めていた。


宿場町の中央、噴水のある広場を通り抜ける。


そこには数人の騎兵が馬を休めていたが、彼らもまた、ルカの堂々とした御者ぶりに「商人の私用馬車だろう」と、特に注意を向けることはなかった。


ルカが車内へ告げる。

「……町を抜けます。ここからは遮るもののない、港への一本道です」


建物の影が消え、視界が開ける。

目の前には、午後の光を反射して白く光る街道が、紺碧のエーゲ海に向かって真っ直ぐに伸びていた。



やがて、前方に巨大な石造りの防波堤と、林立するマストが見えてきた。

ペルガモン港の入り口だ。


そこには宿場町とは比較にならないほど厳重な、アッタロス直属の歩兵が守る検問所が構えられていた。


ルカは手綱を握り直し、バルシネの教え通りに顎を引いて、堂々と馬を歩ませた。


「止まれ」


一人の重装歩兵が槍を水平に突き出し、馬車を制止した。


ヘラクレスは反射的に腰の短剣に手をかけそうになったが、隣に座る母の静かな温もりがそれを押し留めた。


ルカは焦る素振りも見せず、懐から行政官の印が押された正式な出国許可証を差し出す。


「ステファノス商会のルカです。父テオドロスの移住に伴う、親族や使用人の搬送をしております」


「ステファノス家か……」


兵士は許可証の印を確認し、納得したように頷いた。アッタロスに莫大な資産を差し出してローマへ渡るというステファノス家の話は、港の役人の間でも「野心家の商人が、またひとり町を出て、西の開拓に向かう」と噂になっていたのだ。


「よかろう、通れ。……西へ行っても息災でな、ステファノス」


兵士が槍を引き、馬車はゆっくりと石門をくぐり抜けた。


門を抜けた瞬間、潮の香りと共に、数多のマストが林立する活気に満ちたペルガモン港の全景が広がった。


ルカが小声で車内に告げる。


「……通れました。神託の通りです」


ヘラクレスは窓から、アッタロス直属の監視船が並ぶ桟橋のさらに奥の波止場を見つめた。


そこには、船体を真昼の光に反射させ、出航の準備を整えた商船が、静かに主を待っていた。


馬車が船のところまで来ると、

ルカは船のタラップ(はしご状の階段)のすぐ側に横付けした。


ルカは御者台から勢いよく飛び降り、積み荷に目を光らせていた船員たちに声を張り上げた。


「おい、よく聞け! これからお乗せするのは、父上の『旧知の恩人にあたる貴族の御一家』だ。没落され、西の地で父と共に再起を図られることになった。我らステファノス家にとっては大切な方々だ。不敬な真似は許さんぞ!」


船員たちは「ああ、旦那様が言っていた落ちぶれた貴族か」と納得したように頷いた。


「……こちらです。お足元に気をつけてください」


ルカが扉を開けると、まずは護衛役のレオニダスが降り立ち、周囲を威圧するように脇を固める。


続いて、地味な外套を纏ったバルシネとヘラクレス、船員たちは「高貴な出だったのが見て取れるな」「美しい女だ」と小声で囁き合ったが、ルカがそれを鋭く一喝する。


「見るな! 仕事に戻れ! 兄上が来ればすぐに出航するぞ!」


一行は、一般の船員が近寄れない船尾の居住区画へと、流れるように収容された。


居住区画の重厚な扉が閉まると、外の喧騒が嘘のように遠のく。

木の香りと油の匂いが漂う室内で、ヘラクレスたちは深く安堵の息をついた。


「……やり遂げましたね、母上。私たちは今、本当に船の中にいるのです」


バルシネはヘラクレスの手をそっと握った。


「まだです。船が出航するまでは気を抜いてはなりません」


ヘラクレスは頷き、窓から見える桟橋の光景を凝視した。



■午後1時


ルカの歓声が響く。


「来たぞ、カシオス兄上だ!!」


馬の蹄の音が激しく響き、3人の騎馬を先頭に、一台の馬車が桟橋に滑り込んできた。


馬車からはアルカトオス、ピュロス、そしてテッサの家族が転がるように降り、待機していた船員たちの手によって吸い込まれるように乗船していく。


最後に、馬に騎乗していた革鎧を着た逞しい青年――長男カシオスが武装した護衛二人を引き連れ、背後を確認しながらタラップを勢いよく駆け上がった。


カシオスは乱れた息を整えながら、デッキで指揮を執る弟のルカに短く頷いた。


「ルカ、出航だ! 急げ!」


「分かった! みんな出航だ!」


カシオスがデッキに降り立つと同時に、ステファノス家の熟練の船員たちが一斉に動き出した。


「野郎ども、いかりを上げろ! 帆を張れ! 父上たちが待つローマへ、全速力で駆け抜けるぞ!」


カシオスの号令で、白い帆がバサリと風を孕んで広がり、船員がオールをこぎ始め、船が桟橋から離れ、船体が波を切り始める。


ヘラクレスは船室の窓から、

生涯最後となるペルガモンの風景を見つめた。

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