009 紀元前312年 監視兵の制圧
■朝9時半
侍女のテッサが震える声を押し殺し、門の詰所でくつろいでいた熟年兵ドリスに声をかけた。
「ドリス様……。バルシネ様が、どうしても貴方にお会いして、直接お話ししたいことがあると仰っております。どうも……今後の身の振り方について、お悩みのようでして⋯⋯」
ドリスは椅子の背にもたれたまま、不機嫌そうに髭をなでた。
「身の振り方など、わしに聞かれても困る。それならアッタロス様に相談して欲しいと伝えてくれ。わしは門を守るのが仕事だ」
ドリスがまともに取り合おうとしないのを見て、テッサは一歩詰め寄り、声を潜めた。
「身の振り方に悩んでおられると言うのは、私の推測なのです。バルシネ様は、私が何を伺っても、ただ涙を浮かべるばかりで何も応えてくれません。ですが『ドリス殿なら分かってくれるはずだ』と、何度も貴方のお名前を……」
ドリスは鼻で笑う。
(嘘くさい芝居だ⋯⋯)
テッサは潤んだ瞳でドリスを真っ直ぐに見つめ、さらに畳みかけた。
「あの方は、アッタロス様を恐れておいでです。だからこそ、武人として信頼のおけるドリス様に、先に内密な相談をしたいのではないでしょうか」
ドリスの眉がぴくりと動いた。
(……内密な相談、だと? もしバルシネがわしにだけ本心を漏らし、それをアッタロス様に報告できれば……大きな手柄になる)
ドリスはニヤリと下卑た笑みを浮かべ、腰を上げた。
「……ふん、仕方のない御人だ。いいだろう、お前の顔に免じて話だけは聞いてやる。タルマ! 俺が戻るまで、何があっても門から目を離すなよ!」
ドリスは門に立つ若手を見向きもせず、手柄を独り占めしようと、テッサの後に続いてさっそうと屋敷の奥へと入っていく。
(……さて。バルシネは何でわしを釣る気だ? 金か、体か? どちらにしても愚かな女の発想だな……)
そんな卑俗な考えをドリスがしていると、廊下の先のバルシネの部屋から、顔色の悪いピュロスがふらふらと現れた。
(……ピュロスか⋯⋯バルシネの部屋に何の用だ?)
一瞬、ドリスの脳裏に監視兵としての本能的な不審がよぎった。だが、それこそがヘラクレスたちが仕掛けた「油断」への入り口だった。
ピュロスはドリスの視線に気づくと、わざとらしく恐怖に目を見開いた。そして、前を歩くテッサに気付かれないよう、すれ違いざまにドリスの耳元へ顔を寄せ、密やかに告げた。
「……ドリス様、お気を付けください」
「ん!?」
ドリスが不審を抱いたまま耳を貸すと、ピュロスはテッサに聞こえぬよう、掠れた声で耳打ちする。
「バルシネ様は狂っておいでだ。アッタロス様に殺される夢を見たと、逃亡を計画しています。あなたが呼ばれたのは、逃亡を助けてもらうためです」
「 逃亡だと!?」
「はい。きっとあなたを買収する気です……」
ドリスの目がギラリと光った。不審は一瞬で、巨大な獲物を前にした「欲」へと塗り替えられた。
(なるほど。わしを金で抱き込み、逃亡の片棒を担がせようというわけか。……面白い、まずは話に乗ったふりをして、隠し持っている宝石をすべて吐き出させてから報告してやる!)
ピュロスの囁きに、ドリスはほくそ笑む。
そこで二人は、テッサが不自然に足を止めて話し込む自分たちを、怪訝そうに見つめているのに気が付いた。
「……ドリス様、足を止めてすいません。どうぞ、バルシネ様のお部屋に……」
テッサが促すと、ドリスは鼻を鳴らし、鷹揚に頷いた。
「うむ。じゃあなピュロス」
ドリスは背後の少年に背を見せた。
その瞬間、背後のピュロスの瞳から怯えが消え、冷徹な狩人の目に変わった。
ピュロスは服の下に隠し持っていた短刀を取り出し、ドリスの背を一突きし、深く貫いた。
「ぐ……っ!!」
肺を貫かれたドリスは、叫ぶこともできず、膝をついた。
熟練の兵士といえど、信頼していた少年の牙が、これほど無慈悲に自分を貫くとは夢にも思わなかったのだ。
ドリスの意識が遠のき、床へ倒れ込むよりも早く、部屋の扉が開いた。
待ち構えていたメナンドロスとレオニダスが飛び出し、鎧の擦れる音さえ立てさせずにドリスの巨体を支え、そのまま部屋の中へと引きずり込んでいく。
廊下には、小刻みに震えながら血の付いた短刀を握るピュロスと、無言で床の血を拭い始めるテッサだけが残された。
ヘラクレスは部屋の中から歩み寄り、血に濡れた少年の肩に手を置いた。
「……ピュロス、よくやった。お前の勇気に感謝する」
ーーーー
猛が攻略法を見ながら進行状況を確認し、N-Homeに語り掛ける。
「今のところは順調だな。後は門の1人だけだ。兵舎の方の二人の監視兵は、商人のテオドロスの息子とその部下たちが始末してくれるんだよな?」
《はい。兵舎の敵の排除の成功確率は99%。大丈夫です》
「なんだよその1%は、ヘラクレス以外の視点での確認はできないのか?」
《ご主人様の年収1年分の課金で、直属の家臣の視点が解放されます。
さらに10年分の課金で、味方全員の視点が解放されます》
「あっ、よく考えると、主人公以外の視点が見えるって卑怯だよな。うん、卑怯は良くないな」
《さすがご主人様! 自分に都合のいい解釈をさせれば一流です》
■午前9時40分
廊下でドリスを始末した後、ヘラクレスはレオニダスとメナンドロスが、遺体をバルシネの部屋の収納箱に隠した。
「……ピュロス、窓の外を確認しろ」
ヘラクレスの声に従い、ピュロスが窓から外を窺う。
「……見えます。ステファノス家の馬車が、予定の丘で待機しています」
ヘラクレスは頷き、アルカトオスに命じた。
「合図を。彼らが丘を降りて門へ近づけば、タルマの意識は馬車に向かう。その時に包囲して確実に殺す。万一、タルマを取り逃がせば、我らの計画は失敗する」
アルカトオスが窓から「青い旗」を一度、大きく振った。
それが合図だった。
丘の上の馬車がゆっくりと動き出し、砂煙を上げて屋敷の正門へと坂を下り始める。
その間に、ヘラクレスたちは中庭に続く、一階の出入り口へと移動した。
「……来ました。タルマが槍を構え直しています。見た事のない馬車を不審に思っているようです」
「今だ、馬車に気を取られているうちに近づいて仕留めるんだ」
「「はいっ!」」
側近の中でも年が上で力の強いレオニダスとメナンドロスの二人が、静かな足取りで動いた。
二人は壁際を縫うようにして正門の裏側へと肉薄する。
門の外では、タルマが馬車の進路を遮るように槍を突き出していた。
「止まれ! 名を名乗れ!」
タルマの意識が目前の馬車に完全に釘付けになった瞬間、門の影から二つの影が躍り出る。
レオニダスが剣をタルマの背後から突き刺す。
「ぐっ!?」
突き立てられた刃は、タルマの心臓を一撃で貫いた。
「っ⋯⋯ぐはっ」
タルマは叫び声を上げる間もなく、肺に残った空気を血と共に吐き出し、その場に崩れ落ちる。
出る幕のなかったメナンドロスが笑う。
「さすがだなレオニダス。見事な一突きだったぞ」
「おっ、やっぱりそう思うか!」
レオニダスが調子に乗りかけた時、屋敷の前に止まった馬車から御者が降りてきた。
「……私はテオドロスの次男、ルカ・ステファノスです。父の命により、ヘラクレス様をお迎えに参りました」
ルカは礼儀正しく、しかし迅速な動作で一礼した。レオニダスは警戒を解かず、短く応じる。
「俺は側近のレオニダス、こっちはメナンドロスだ。……ルカと言ったな、話は聞いている」
レオニダスは、屋敷の奥からゆっくりと門へ向かって歩いてくる主君に目を移した。
「――そして、あちらが我が主、ヘラクレス様だ」
ルカは目を見開き、初めて目にする王子の姿に息を呑んだ。
太陽の光を背負い、此方にやって来る14歳の少年には、確かに大王の息子としての威厳がそこにあった。




