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異世界王朝育成―アレキサンダー大王の末裔―  作者: Y・T
第一章 ディアドコイ領脱出
9/11

008 紀元前312年 脱出開始

紀元前312年4月2日

ヘラクレスの部屋


夕暮れの光が差し込む屋敷の個室で、

ヘラクレスは静かに座していた。


そばには、側近のメナンドロスが1人だけ。

スパイの目を避けるため、この部屋に集まるのは最低限にしてある。


扉の向こうから、急ぎ足の気配が近づく。


コン、コン。


扉が叩かれる音と同時に、猛のゲームモニターに《アルカトオス:帰還》の通知が表示された。


猛はマイクをオフにしたまま、小さく笑う。


(帰ってきたな。次のイベントだ)


「……ヘラクレス様。アルカトオスです。ただいま戻りました」


「メナンドロス、入れてやれ」


「はっ」


メナンドロスが扉を開く。


アルカトオスは、長い道のりを駆け戻ったせいか、外套の裾に砂埃をまとわせたまま、深く片膝をついた。


だがその顔は、疲労よりも──確信に満ちていた。


ヘラクレスは結果を察して微かに笑みを浮かべた。


「……上手くいったか」


アルカトオスは深く頷いた。


「はい。

 商人テオドロスは所有する船、三隻すべてを差し出すと誓いました。二か月後の六月三日。最後の船に、ヘラクレス様をお乗せする事になりました」


アルカトオスの言葉が落ちた瞬間、

部屋の空気がわずかに震えた。


メナンドロスが息を呑む。


「……本当に船が手に入った。

 タケロス神のお告げは、やはり本物だった……」


アルカトオスは口角をわずかに上げた。


「我らは神タケロスに守られております。

 私は──ヘラクレス様が栄光の道を歩まれると確信しました」


ヘラクレスは目を閉じ、静かに頷いた。


大和猛が告げる。

――ヘラクレス、よくやった。これで「外の世界」とのパイプがつながった。だが、ここから出航までの二ヶ月間、お前たちはアッタロスの目を欺き、死んだように静かに過ごさねばならない。油断するな。


猛の声は、興奮するアルカトオスたちとは対照的に、冷徹なまでに冷静だった。


ヘラクレスは目を開くと、跪くアルカトオスと、傍らに立つメナンドロスに命じる。


「母上にはメナンドロスから報告しろ。レオニダスとピュロスにはアルカトオスが伝えるのだ。急がなくともよい。スパイたちに怪しまれぬようにな。油断するなよ」


「「はい」」


ーーーー

《N-Home》が告げる。

《ご主人様。ダイジェスト機能で時間をスキップしましょうか?》


「そうだな、頼む」


ダイジェストでヘラクレスが知った中規模な情報が表示されていく。


※4月7日

商人テオドロスが港の管理官と行政官エポニムスに移住を報告。

手数料と賄賂を渡す。


※4月12日

商人テオドロスが領主アッタロスに呼び出される。

アッタロスは移住するなら資産の五割を、さらに使用人や部下の家族も連れて行くなら八割を寄越せと要求する。

テオドロスは資産の七割を納めることで交渉を成立させる。


「おい、なんかテオドロスが資産の七割を取られたぞ!?」


《商人は金を持ってますからね。この時代、船を三隻持つ中規模商人でも、超富裕層に入ります。

 それに奴隷や使用人は貴重な労働力であり、領主が手放したくないのは当然です》


「ふーん。まあ俺の金じゃないからいいか……?」


■5月10日

テオドロスの移住(第一便)が静かに出航する。

港では特に騒ぎもなく、季節の風に乗って船はゆっくりと沖へ向かった。


■5月19日

ピュロスが故郷の村に、妹エレーネ(10歳)と弟ティオン(8歳)を迎えに行く。


村では、近所の女性が一人、わずかな賃金で家に住み込み、子どもたちの世話をしてくれていた。


ピュロスは村長とその女性に深く礼を述べ、ささやかな謝礼金を手渡した。

そして「叔父の村で暮らすことになった」と告げ、妹と弟を村から連れ出した。


村人たちは驚きつつも、

「まあ、あの家は大変だったからな……」と見送った。


■5月21日

テオドロスの2回目の移住船が出航する。

今回はテオドロス本人が船に乗り込み、残された家族や使用人たちが港で静かに見送った。


港には、長年の商人仲間がテオドロスが去っていくことを惜しんだ。


この船には、ピュロスの妹エレーネと弟ティオンも乗っていた。だが、ピュロスはスパイを警戒し、あえて見送りに姿を見せなかった。


ーーーー

猛のゲームモニターに《脱出イベント》の通知が点滅し、ダイジェスト機能が停止した。


「おっ、始まったな」


《脱出イベントの成功率は95%です。気楽に見守りましょう》


■6月3日 午前6時。


屋敷の門の横に作られた詰所に宿泊した、夜勤の監視兵、ケリオンとラコスの2人が、夜のあいだ閉じられていた門を開けた。


※当時のギリシャ〜ヘレニズム期の屋敷は、家で中庭を囲む『コの字』や『ロの字』の構造が一般的で、防御性を高めるために出入口が一つだけという造りが多かった。


貴族などの大きな屋敷になると、表門のほか、裏門や通用口ポストゥムが設けられることも珍しくない。しかし、ヘラクレスの屋敷は“保護”の名目でありながら実質的には軟禁であるため、監視のしやすい『ロの字型の単一門』の構造で作られていた。



■午前7時。

交代の監視兵ドリスとタルマが到着し、夜勤組と入れ替わった。

若年のタルマが槍を携えて門に立ち、熟年のドリスは詰所へと入ってゆく。


夜勤を終えたケリオンとラコスは、あくびを噛み殺しながら、屋敷のすぐ近くに建てられた兵舎へと向かった。


※4人の監視兵は、1キロほど離れた兵舎に住み、交代で勤務する仕組みを取っていた。



ーーーーーー

■午前8時。ヘラクレスの部屋。


テッサが扉を軽く叩き、静かに開けた。


「フィリッポス様をお連れしました」


彼女の後ろから、細身の少年フィリッポスが姿を現し、部屋を見渡す。


部屋にはヘラクレスの他に、レオニダスがいた。


ヘラクレスは壁際の椅子に腰を掛け、

レオニダスはその横の壁にもたれ立ち、腕を組んでいる。


「フィリッポス、入れ」


低く抑えた声。

フィリッポスは一瞬だけテッサを見たが、逆らう理由もなく前へ進む。


「御用は……何でしょうか」


「皆が来る。少し待て」


短く告げられ、フィリッポスは小さく頷いた。

フィリッポスは側近たちが呼ばれる理由は聞いていないが、全員が来るなら問題は無さそうだと思った。


やがて、扉の外から三つの足音が近づいてきた。


扉が開き、

アルカトオス、ピュロス、メナンドロスが順に入って来る。


三人がヘラクレスに軽く挨拶を交わし、そのあとピュロスがフィリッポスに軽く声をかけた。


フィリッポスの胸の奥が少し軽くなる。

ピュロスは同じ密偵の仲間だ。

彼がそばにいるだけで、心強かった。


だが──

テッサが扉を静かに閉じた瞬間、

部屋の空気が変わった。


誰も座らない。

誰も雑談をしない。

全員が立ったまま、ヘラクレスの言葉を待っている。


フィリッポスはその変化にすぐ気づいた。

胸の奥で、説明のつかないざわつきが生まれる。


ここ最近ヘラクレスは変わった。

時折、今までにはなかった“恐ろしい圧”を放ちながら、フィリッポスを見るようになった気がする。


ヘラクレスは椅子から立ち上がり、静かにフィリッポスを見て、手招きした。


「フィリッポス、此方へ」


フィリッポスは一瞬だけ周囲を見た。

アルカトオスも、メナンドロスも、ピュロスも、当然だが誰も動かない。

しかし、自分を何とも言えない表情で見ていた。


(……何だ?)


胸のざわつきが、ゆっくりと形を持ち始める。


フィリッポスは静かに息を吸い、ヘラクレスの方へ一歩、踏み出した。


その一歩一歩が、なぜか重く感じられる。


フィリッポスがヘラクレスの前で立ち止まると、ヘラクレスはゆっくりと視線を上げ、短く命じた。


「動くな、じっとしていろ。ただ捕まえるだけだ。動けば切る」


「えっ!? な、なにを――」


話の途中で、ヘラクレスの手が腰の剣へ伸びた。

金具がわずかに鳴り、刃が鞘から半ば抜ける。


フィリッポスは反射的に助けを求めようと、後ろを振り返った。


その瞬間、フィリッポスは驚きで、目を見開く。


すぐ背後。

そこにはいつの間にかピュロスが立っていた。


ピュロスは素早くフィリッポスの耳元に顔を寄せ、

誰にも聞こえない小声で告げる。


「すぐに助ける⋯⋯」


ピュロスはそう言いながら、手に持っていたロープでフィリッポスの体を縛り始めた。


フィリッポスは『すぐに助ける』と言う言葉により、抵抗という選択を取らなかった。彼が確実に分かった事は、今ここにはピュロス以外には仲間がいないという事である。



やがてフィリッポスの両手は後ろで縛られ、猿ぐつわがきつく結ばれた。


ヘラクレスは次の指示を出す。


「フィリッポスは収納箱に入れて置け。次は神託に従い、ディオゲネス先生を呼び出し捕まえる」


「「はっ」」


フィリッポスはヘラクレスの言葉にますます混乱した。


(神託? みんな、何を始める気なんだ? 頭がおかしくなったのか!?)


フィリッポスは背中を押され、足元をふらつかせた。


収納箱の蓋が開けられ、レオニダスとメナンドロスが無言でフィリッポスの身体を持ち上げる。


ピュロスが助けてくれると言っても、いつになるか分からない。

そのため、フィリッポスは最後の抵抗を試みた。


「んんんっ!」


だが抵抗はできない。

腕も口も塞がれ、ただ運ばれるだけだった。


箱に入れられ蓋をされると暗闇がフィリッポスを覆う。

しばらくすると、扉がノックされた。


コン、コン。


テッサが扉を軽く叩き、静かに開けた。


「ディオゲネス先生をお連れしました」


「先生、中へどうぞ」


ディオゲネスは生徒である四人の側近を一瞥し、わずかに目を細めた。


ディオゲネスは四十代の脂の乗った年齢。

整えられた髭に、理知の光を宿す鋭い瞳。

大哲学者アリストテレスを崇拝し、日々の振る舞いを真似るところがあった。


そして、いつもと変わらぬ穏やかで、どこか人を食ったような声で言う。


「みんな揃って、何か楽しい話でもあるのかな?」


彼はゆったりとした足取りで部屋の中央へ進み、ヘラクレスの前に立った。


その態度は「教育係」としての優位性を微塵も崩していない。


「先生がアッタロスの密偵だった事は存じています。大人しく縄に付いてください。命の保証はします」


ディオゲネスは、向けられた言葉の意味を咀嚼するように数秒の沈黙を置いた。


だが、その顔から余裕が消えることはない。むしろ、教え子の「成長」を喜ぶかのような、不遜な笑みを深めた。


「……ほう。アリストテレスがアレクサンドロス大王に教えたのは『王の道』でしたが、私が貴方に教えたのは『疑う知恵』でしたかな?」


ディオゲネスは微笑んだあと、目をキツくして続けた。

「ですがヘラクレス様、その若さで妄想に取り憑かれるのはいささか早すぎます」


ディオゲネスは一歩踏み出し、ヘラクレスを威圧するように見下ろした。


「私が密偵だという『証拠』はあるのですか? 根拠のない拘束は、学問の府であるこの屋敷を汚す蛮行です。アッタロス様がこれを知れば、貴方の立場こそ危うくなりますよ」


ヘラクレスは冷淡な表情で応える。


「先生、証拠は神託です。先生が、故郷に残した年老いた盲目の母親を人質に取られ、やむなくアッタロスの軍門に降ったことなど、神は全てお見通しです」


ディオゲネスは目を細め、ヘラクレスの真意を考えた。


「……」


「もう一度言います、神託です。

 先生がまだ一度も密偵の仕事をしていない事も知っています。だが、それは報告するような動きが無かったから、その筆を止めていたに過ぎない。違いますか?」


ヘラクレスの自信満々な態度に、ディオゲネスは神託かどうかはともかく、全てを知られていると悟った。


「……そうだ。私はアッタロスに強要され、この屋敷に送り込まれた。だが、私は学問の徒だ。無実の若者を売って保身を図るのは業腹だった。だから、貴方が『ただの子供』でいるうちは、何も書かぬと決めていたのだ」


ヘラクレスが残念そうな顔をする。


「神託では、先生は我らの仲間にはなってはくれないと告げられました。それは年老いた母を置いていけないからだと」


ディオゲネスは哲学者らしく、ヘラクレスの神託について考える。


(恐らく私の幾つもの行動の断片を、ヘラクレスが夢の中まとめ、全てを知った。それを神託だと思いこんでいるのだろう⋯⋯)


「……そこまでお見通しですか」


彼は落ち着いた声で呟き、ヘラクレスの目を見て続けた。


「左様。私には故郷に老いた母がいる。アッタロスは、私が不穏な動きを見せれば即座に母の命を奪うと、そう私を縛っている。……ヘラクレス様、私が貴方を売らなかったのは、せめてもの良心。貴方と行動を共には出来ない」


「残念です。レオニダス、先生を縛れ」


レオニダスが、無言で頷き、ディオゲネスの背後に回った。


「先生、失礼します」


その声は短く、冷徹だった。レオニダスは手慣れた手つきでディオゲネスの両腕を後ろ手に回し、用意していた太い麻縄を迷いなく巻き付けていく。


「……っ」


ディオゲネスは抵抗しなかった。

ただ、縄が食い込むたびに、その理知的な顔をわずかに歪めるだけだ。


没落貴族として修羅場をくぐってきたレオニダスの結び目は、学者の細い腕を容赦なく締め上げ、自由を完全に奪った。


「ヘラクレス様、完了しました」


レオニダスの報告を受け、ヘラクレスは鋭く、冷徹な光を宿した瞳で部屋の扉を見据えた。


「次は使用人のマイラとカストルを取り押さえる」


ヘラクレスの声に、もはや迷いはない。


猛の授けた「神託」が、屋敷内に潜む『敵』を白日の下に晒していた。



■朝9時過ぎ。


裏切り者である使用人マイラとカストルも、それぞれ別の理由で部屋に呼び出され、拘束された。


悲鳴は上がらなかった。

二人とも、状況を理解するより早く口を塞がれ、縄で縛られた。



ヘラクレスは静かに息を吸う。

「……これで屋敷の内側は片付いた」


ヘラクレスはゆっくりと顔を上げ、扉の向こうへ視線を向けた。


「残るは……外の兵士たちだ」


その一言に、側近たちの肩が、わずかに強張る。


兵士はこれまでの相手とは違う。


次は捕縛ではすまない――自分たちの手を汚す番が来たのだ。

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