第39話 ……私を忘れないための……おまじない……だよ?
三森との話を終えた俺は、全身からどっと力が抜け落ちるような感覚に襲われていた。惰性で図書室に行ったは良いものの、目が滑って文字が何も頭に入らない。思った以上に脳が疲弊しているらしい。
諦めて俺は早々に勉強を切り上げ、H大の赤い本を鞄に押し込み、図書室を出て西階段へと向かった。
「──ごめんね。急に呼んじゃって」
「いえ。何かあったんですか?」
踊り場のところで、男女が意味深な雰囲気で話してる。あれは──佐藤さんと桐谷くんだ。
良くないとは思いつつも、俺は咄嗟に柱の陰に隠れ、聞き耳を立てる。
「突然で申し訳ないんだけど……私と付き合わない? 桐谷」
「えっ?」
えっ?
「つつ付き合うって、お、俺とですか!?」
「うん。私、桐谷の彼女になりたい」
ついに言った!!!
マネージャーという立場から、ずっと桐谷くんを想い続けてきた佐藤さんが、ようやく……!
「どう……かな」
「いや、えっと、その、本当に俺で良いんですか? 俺、夢中になると周り見えなくなるし、暑苦しいし、気遣いとかもあんまできないし」
「それでも私は、桐谷が良いの」
「……たぶん俺、付き合ったらめっちゃ重いですよ? 他の男と話してたら拗ねるし、束縛もしちゃいそうだし、絶対に面倒くさいと思います」
「知ってる。だから桐谷には、私だけを見ていて欲しい」
佐藤さんの真っ直ぐな言葉。それを受けた桐谷くんの背中は、少し照れているように見えた。そして。
「……不束者ですけど、こちらこそよろしくお願いします」
おめでとー!!!
2人は無言で抱き合い、幸せな雰囲気に包まれる。いやぁ、めでたい……西階段の踊り場はあくまで通路であり告白スポットでは無いという点に関しては、今回は目を瞑ろう。
「……よかった……嬉しい」
「うわっ──!」
「しー」
びっくりした……気づいたら背後に氷護先輩が立っていた。目に大粒の涙を浮かべて。
「いつから見てたんですか?」
「……ご主人様が……来る前から……後ろで」
「まじすか」
全然気がつかなかった。たしかにこの辺は隠れやすい柱が多いけど。
「邪魔しちゃ悪いから……反対の階段から……降りよ」
「そうですね」
こういうのは、知り合いに見られるのが一番恥ずかしいもんな。変に騒いでも悪いし、ここは遠くから見守るのが一番だ。
というわけで、俺は氷護先輩と一緒に3階の東階段を下った。
「……2人とも……幸せそうで……良かった……本当に」
「いつも一緒にいましたもんね」
部活ではもちろん、テスト前も一緒に勉強してたし。最初に部活見学した時から、佐藤さんは桐谷くんが気になってる風だったもんね。お似合いの2人であることは間違いない。
「……私……自分の幸せより……人の幸せの方が……好きかも」
「そうなんですか?」
「……うん……人の幸せのために……苦しめるなら……本望だよ」
無表情のまま、慈悲深い女神様のようなことを口にする。もはや悟りの境地だ。顔には出ないけど、優しい人だよな。本当に。
「あの、氷護先輩」
「何……ご主人様……?」
「俺、将来は海外で研究がしたいんです」
「……そう……なんだ」
「はい。なので氷護先輩に養われるのは……難しいかもしれません」
「そっか……いいね」
氷護先輩は俺を見てコクっと首を傾げる。どこまでも澄んだその瞳に、俺は吸い込まれそうになった。
「ごめんなさい。相談もせず、勝手に決めてしまって」
「……ううん……いいの……私は何より……ご主人様の幸せを……願ってるから」
東階段を降りたところ。
人のいない生徒ホールの前で、氷護先輩の足が止まる。
「……あのね……ご主人様」
「なんですか?」
「私は……都合の良い女で……良いんだ。だから……ご主人様が苦しい時は……いつでも呼んでね」
「だめですよ、そんなの。都合の良い女だなんて」
「優しいね……ご主人様は……じゃあ代わりに……たまには私の事……叱りに来て」
「叱るかはわからないですけど、絶対また会いに行きます」
「ふふっ……ありがと……こっち来て……!」
「え?」
氷護先輩は俺の手を突然掴むと、ホールにあるピアノの裏まで引っ張った。
「な、なんですか……?」
「……目……つぶって」
「は、はい」
氷護先輩に言われるがまま、俺が瞼を閉じたその直後。
マシュマロのような柔らかい感触が、俺の頬に現われた。思わず俺はぱっと目を開く。
「ひ、氷護先輩!?」
「……私を忘れないための……おまじない……だよ?」
氷護先輩の口元には、初めての綻びが見えていた。




