第36話 ……本当はね……振られてもいいんだ……私
ハーフタイムに氷護先輩と話してから、桐谷くんの動きは明らかに変わった。
身体から固さが抜け、フットワークも軽い。相手を押し込む展開も増え、点差はみるみる縮まり、そして──1セット目を先取した。
「桐谷くんすごい……!」
「……あれが……実力……緊張しすぎ」
「さっき何を話したんですか?」
「……3年のことは気にせず……自分のために……楽しんでって……それだけ」
「なるほど」
たしかに桐谷くん、責任感強いもんな。いろいろと背負う気持ちもあったのかもしれない。もちろんここまで持ち直したのは、桐谷くんの実力だけど。
そのまま桐谷くんは2セット目も取り、勢いに乗ったチームは見事初戦に勝利した。
※
最終的に、団体戦は3位という結果で幕を閉じた。
2部リーグへの昇格はできなかったけれど、試合を終えた選手たちは、みんな清々しい表情だった。
「……桐谷たちは……ミーティングあるから……外で待と」
「ですね」
というわけで氷護先輩と2人。玄関近くの木陰で涼むこと。
冷えた汗でシャツが背中に張り付き、少し気持ち悪い。
「……ねぇ……ご主人様」
「なんですか?」
「……本当はね……振られてもいいんだ……私」
「──え?」
首元の汗をボディーシートで拭いながら、なんてことないように氷護先輩は言った。
「あの、それって結婚の話ですよね?」
「うん……私は苦しいのが好きだから……振られても……嬉しい」
氷護先輩は自分の脇の匂いを嗅ぎながら、無表情に制汗剤を振りかけている。やはり何を考えているのかはわからない。
「えっと──」
「プロポーズ……あの2人にも……されたんだよね……?」
「は、はい」
「……ご主人様は……自分が楽しい選択を……すればいい。他の人の気持ちとか……考えないで」
桐谷くんにかけた言葉と同じだ。誰のためじゃなく、自分のために選択をすること。
きっとそれが、氷護雪の行動基準なのだろう。
でも──それは俺の基準とは違う。俺はただ、自分がすべきことを、淡々と続けてきただけだから。その努力そのものが、俺の喜びだった。
俺は、俺が真に何がしたいのか、わからないのだ。
「あ、笹原くん! 来てくれてたんだ」
「笹原さん、こんにちは」
佐藤さんと桐谷くんが、並んで玄関から出てきた。相変わらず仲良しで何より。
「桐谷くんおつかれさま」
「ありがとうございます。俺は不甲斐ない結果でしたけど……」
「そんなことないよ!」
桐谷くんの戦績は3勝2敗。相手はほぼ上級生の中、勝ち越したのは本当にすごいと思う。
「……最後の試合。正直俺、負けるって思っちゃいました」
「たしかに……強かった……スマッシュも……フットワークも……すごい速い……」
「はい。スマッシュは見えないし、ドロップはブレーキがきついし、どこに打っても返されて……勝てるビジョンが浮かびませんでした。完全に俺の実力不足です」
俺が中学の時と同じだ。最初の打球音で格の違いを痛感し、届かなくて、諦めた。
圧倒的な実力差を前にして、凡人は逃げることしか、できないのだ。
「──だから俺、もっと練習します」
えっ?
「そうだね桐谷。がんばろっ」
「あたしも……練習……手伝う」
だけど桐谷くんは落ち込むどころか、なぜか嬉しそうに、その瞳を輝かせていた。
どうして彼は前を向けるんだろう……努力したって追いつけるか、わからないのに。
「……桐谷くんは、怖くないの?」
「怖い? どうしてですか?」
「だってさ、頑張っても近づけるかわからないのに。それでも自分の可能性を信じ続けるのって、怖くないのかな」
桐谷くんは額に手を当て、2、3秒考えると、ぽつりと呟いた。
「俺──彼女が欲しいんですよ」
「……はい?」
何を言っているんだ?
隣の佐藤さんも困惑の表情を浮かべている。
「俺、自分が心から愛する人とお付き合いして、将来的には結婚したいんです」
「う、うん。そうなんだ」
「だからそのためにまず、自信が欲しいんです」
「自信?」
「はい。どんなに才能ある人にも負けないくらい、俺もすごいんだぞっていう、そういう自信です。そんな自分になるために俺は、足掻いて足掻いて足掻きまくりたいんです。……まぁ、実際はまだまだですけどね」
と、桐谷くんは照れくさそうに笑った。
「ふふっ。そんな桐谷を見てる人も、絶対いると思うな」
「だと嬉しいです」
誰かに認められるためじゃなくて、自分自身を認めるための努力、か。
そっか、それでいいんだ。
──俺の中に、一つの決心が固まった。




