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異能者・3

 気づいた時、すでに陽は落ち暗闇が周囲を包んでいた。机の上に置かれた時計に目を向けるとすでに7時を回っている。

 部屋のなかも薄闇に包まれ、パソコンのディスプレイが煌煌と光っている。

 ふと、気配を感じた。

(これは……)

 香月はそっと振り返った。

 部屋の隅の暗がりに女の影が見えた。一人の女が顔を俯かせて立っている。長い髪、白いブラウス、茶色のロングスカート。手は土で汚れ、その指先からは液体がポタリポタリと雫になって床に落ちていく。どす黒く染まった血。その顔は影がかかりはっきりと見ることは出来ない。

 それが実体のない存在であることは香月にもわかっている。普通の人間にその姿は決して見る事は出来ないだろう。

 冷たい殺意。すぐに篠原のことを思い出した。

(あの人……殺されたんだ)

 瞬間的にその事を感じ取ることが出来た。きっと彰吾の警告を無視して、事件に近寄ろうとしたのだろう。

 女は何も言わずにそこに立っている。肉体のない『思念』だけの存在。死んだ女の残された思い。その思念に香月は深い悲しみを感じ取った。

「何なの?」

 女は何も答えようとはしない。ただ、冷たく暗い思念が漂ってくる。

「あなたは何を恨んでいるの? 何か復讐のつもりなの?」

 もう一度香月は優しく訊いた。

 女の目が怪しく光り、風が部屋をふわりと流れた。

 香月ははっとしてすぐに右手を差し出し、その風を受け止めた。

 パンという空気がぶつかりあうような渇いた音が部屋に響きわたる。

 そっと右手の手のひらを眺めると浅く、手のひらの皮が切れているのが見えた。普通の人間ならば首一つ持っていかれかねない。

「警告のつもりなの?」

「余計なことしないで」

 女は低く篭もったような声でそう言うと暗闇のなかに溶け込むように消えていった。後には静寂だけが残った。


 夜になって、彰吾は再び香月のもとを訪れていた。

 重苦しい空気が部屋のなかに漂っている。

「ごめん」

 彰吾は香月に頭を下げた。「あいつのこと助けられなかった」

 篠原が殺された事を彰吾は詫びた。香月はそんな彰吾を見て首を振った。

「いいの。彰ちゃんは努力してくれたんだし……それに彰ちゃんが、無事で良かった」

 正直な気持ちだった。あの女が現れた時、まっさきに香月は彰吾のことを思った。

「香月……」

 ちらりと彰吾は香月の右手を見た。すでに血は止まっていたが、その手には軽く包帯が捲かれている。彰吾は悔しそうに唇を噛んだ。彰吾にとって篠原が殺されたこと以上に香月が狙われたことがショックだった。まさか香月までが狙われるとは思ってもみなかった。

「もう私たちの存在に気づいているってことかな」

「……たぶん篠原さんがここで電話を受け取ったために、ここにいる人間が自分の邪魔をすると思い込んだだけだろう。俺の前に姿を現さなかったのがその証拠だよ。ただ……俺たちの存在に気づけばどうなるかわからないな」

「私たちがこの件に手を出すなら……きっと狙ってくるでしょうね」

「ヤバイ相手だな」

「うん」

 二人とも、初めての経験だった。これまで死者の姿を見るような事はあっても、それは極自然な残留思念のようなものに過ぎなかったし、例えわずかながらでも恨みを持った存在であったとしても二人の力があれば簡単に浄化させてあげることが出来た。

 だが、今回の相手は今までとはまったく違う。その強い憎しみに満ちた力がどれほど強いものかを二人とも良く理解していた。

「正直言って……俺は怖かったんだ。あいつは俺なんかの手におえるような存在じゃないかもしれない」

 そう言って彰吾は肩を落とした。こんな彰吾の姿を見るのは香月も初めてだった。

「彰ちゃん……」

「どうする? 手をひけば、これ以上俺たちに手を出してくるような事もないだろう」

「本気でそう思ってるの?」

 香月の言葉に彰吾は黙った。「彰ちゃん、私のことを心配してくれてるの?」

「おまえに危ないことはさせられない」

「そんなこと言って彰ちゃんは手をひくつもりなんてないんでしょ?」

 彰吾は何も言わずに顎を指で掻いた。「大丈夫。私だって彰ちゃん一人で行かせるのは心配なんだから」

 そう言って香月は優しい眼差しで彰吾を見つめた。

 その夜、彰吾はそのまま香月のマンションに泊まった。三つある部屋の一つはいつでも彰吾が泊まっていけるようになっている。

 翌朝、彰吾はまたもとの明るさを取り戻していた。

 さっそく香月と彰吾は行動に移した。

 彰吾が霊符を作り、それに香月がさらに『念』を込めると、二人はその霊符を部屋の扉や窓に張りつけはじめた。香月にはその霊符に書かれた記号の意味はわからないが、どうやらそれは陰陽術のなかで『破邪符』と呼ばれ、邪悪な霊を祓う力があるらしい。

「少しは効き目があるかな」

「霊符は正しい作法とそれなりの霊力を持った人間が作ったものなら力を持つはずだよ」

 香月の疑問に彰吾はそう答えた。

 もちろん香月にもその霊符に自分たちの力が加わることで一定の力を持つことは感じている。おそらく霊符が部屋に貼られたことで『邪気』のようなものは、この部屋に入りこむことは一切不可能になったことだろう。

 だが、問題は昨日のような強い『思念』にこの霊符が通用するかどうかだった。

 昨日、あの女がここに現れたのは、篠原の電話を伝わりこの場所を知ったためだろう。香月や彰吾は小さい頃からの習性で無意識のうちに常に『気』を隠している。霊符で封じてしまえば、香月や彰吾の存在を消すことが出来るかもしれない。

 二人はすでに篠原を殺した存在と戦う決意を固めていた。

 朝のニュースではオカルト雑誌の編集者の怪死が報じられている。名前は伏せているもののそれが篠原であることは彰吾たちにははっきりとわかる。警察では金銭トラブルではないかと見ているようだ。いずれにしても警察が動いたところで解決出来るような相手ではない。

「『狙われている人』に連絡は?」

「今からだよ。へたに接触すれば、また僕らを襲いかねないから慎重にやらないとね」

 二人ともその『山崎克己』という名前は知っていたが、それを極力口にしようとはしなかった。その名前を口にすることが、昨日の強い殺意を含んだ『思念』を呼び込みかねないことを知っているのだ。

 その力の大きさを理解しているからこそ慎重にならなければいけない。

「その人、いったい何をしたのかしら?」

「さあね……ただ、同姓同名の人間がすでに3人殺されているってことは、その名前を持つ者を無差別に殺しているのかもしれない。他人を恨む時、やはり真っ先に頭に浮かぶのはその相手の名前だからね。特に付き合いが浅ければ浅いほど、相手の存在そのものではなく、名前を思い浮かべながら死んでいくってことは有り得ることだよ」

「それじゃその人は誰かのとばっちりを受けたってこと?」

「そう考えることも出来るね。もちろん逆に今まで殺された人がとばっちりを受けていて、やっと『奴』が本命に辿り着いた可能性もあるよ」

 その時、インターホンのチャイムが鳴った。

「あ、担当さんかも」

 ちらりと香月を見てから彰吾は玄関へ向かった。

「あら、いったい何を始めたの?」

 香月の担当をしている加藤美咲が、部屋のあちこちに貼られた霊符を見て驚いたような声をあげながら姿を見せた。美咲とは香月が作家になった時からの付き合いで、彰吾のこともよく知っている。つい先日29歳になったばかりで、二人にとっては姉のような存在だった。――とはいえ、二人の能力のことについては何も話していはいない。

「おまじないですよ」

 香月は笑って答えた。間違っても美咲のことを捲きこむようなことにだけはしてはならない。その思いは香月も彰吾も同じだった。

「はい、美咲さんのぶんですよ」

 香月は霊符の一枚になおさら強い『念』をこめてから手渡した。

「ありがとう」

 美咲は霊符を大切にバッグにしまいこみながら香月の顔を見た。「それで仕事は進んでるの?」

 そう言って美咲は後ろからパソコンのディスプレイを覗き込む。

「まあまあ……かな」

「慌てなくていいからね。締切りなんて気にする必要なんてないから、じっくり香月ちゃんの気にいるものを書いてね」

「ありがとう」

「ホントはもっと頻繁に様子見にきたいんだけどね」

 美咲も今年の春から、また一人新人の面倒を見ることになり、以前ほどは香月のもとに来ることが出来なくなっていた。

「僕がついてますから、ご心配なく」

 相変わらず一人で霊符を部屋の中に貼りながら彰吾が口を出した。

「だから心配なのよ。香月ちゃんのお仕事の邪魔しないでね」

 美咲の言葉に三人とも笑った。

「じゃ、俺はちょっと出かけてくるよ」

 彰吾はジャケットを上に羽織ると、香月に声をかけた。香月には彰吾が何を考えているかはすぐにわかった。

「じゃ、帰りにお菓子でも買ってきてよ」

(気をつけてね)

 香月は目でそう合図を送った。


 マンションを出ると彰吾は近くの公園に向かった。

 そこなら何かあっても香月に影響が及ぶことはないだろう。出来る限り香月を事件の中心に近づけることは避けたかった。

 公園に着くと、彰吾は公園のベンチに座り、ポケットから携帯電話を取り出した。向かい側のベンチには初老の男性が座っている。

(よし)

 彰吾は携帯電話を握り締め、大きく息を吸いこむとそこに念を送りこんだ。やがてディスプレイに一つの電話番号が浮かび上がってくる。

 彰吾はその番号をちらりと見ると、その番号に電話をかけた。

――はい

 男の声が聞こえてくる。

「山崎克己さんですね」

――ええ、そうですが……あなたは?

「篠原さんの知り合いのものです。あなたの件で昨日ちょっと相談を受けましてね」

 当然、山崎克己という男のことを彰吾は直接知らなかったが、それでも電話から伝わってくる声からどんな男なのかを感じることが出来た。そして、今、男がどんな状況に置かれているのかということも理解出来た。

 この男に関わった事で篠原は殺され、香月もまた狙われる事になったのだ。

 電話から聞こえてくる声とともに、昨日、篠原にまとわりついていたのと同じ『気』が自分を取り囲もうとしているのを感じる。彰吾は念を自分の身体にこめ、その『気』をやり過ごしながら山崎克己という男と話しを続けた。

 山崎は篠原の死や自らの周辺に起きていることに戸惑い、怯えながらも、まだ頭のなかでは『呪い』や『祟り』のようなものを否定している。

 無理もないかもしれないと思いながらも、現実から目をそらそうとしているような山崎の口振りに無性に腹がたち、彰吾はほんの少し意地悪を言った。

「まず現実を理解することですよ」

 その言葉だけで男の考えが変わるとは考えにくかったが、それでも家族のことを思えば自分がやったかもしれない罪に気づいてくれるかもしれない。

 やがて、話しが終わると彰吾は電話を切り大きく深呼吸をした。

 自分の心のなかに、まだ見えない敵に対する恐怖があることに気づき、彰吾は苦笑いをした。

(初めてだな……こんなのは)

 自らの霊力がどれほどのものかは、彰吾もよく理解している。

 若干の予知能力、そして、『気』を読む力。今やったような『気』の存在から相手への連絡先を見つけ出すような器用な能力は香月よりも自分のほうが上だろう。だが、基本的な霊力は遥かに香月のほうが上だ。そして、『奴』と戦うためにはその霊力の大きさが必要なのだということは彰吾にもわかっている。それでも出来る限り香月に力を使わせることはしたくはない。

 向かいのベンチに座った男の携帯電話が鳴っている音が聞こえてくる。

 思わず彰吾は笑った。

 おそらく山崎克巳が折り返し電話をしてきたのだろう。ほんのいたずら心で、彰吾は克巳の携帯のディスプレイにベンチに座る男の携帯電話の番号を表示させたのだ。彰吾にとっては簡単に出来るいたずらだった。だが、このいたずらで今回のことを理解しきれていない山崎克巳も、世の中には科学では証明出来ない現実があることを少しは理解して欲しかった。

(さてと……)

 向かいの男が不機嫌そうに電話を切るのを見ながら彰吾は立ち上がった。まさか相手がいくら恨みの『思念』の塊であっても、無関係無差別に殺したりはしないだろう。それに何よりも向かいの男に死相の影も見えはしない。このぶんならあと20年は元気に過ごせるだろう。

 あとは山崎克巳という男と、どこでどのような形で会うかを考えなければいけない。彰吾はこれからやらなければいけないことを考えながら歩き出した。


   *   *   *


 新宿歌舞伎町の雑居ビルの前に立ち、その2階部分を見上げる。

 その雑居ビルにはいくつもの風俗店が入り、戸口の部分にはピンクの看板が張り出されている。だが、2階の窓の部分にはまったく違い、黒い暗幕が掛けられ、その部分だけが怪しい雰囲気を作り出している。

 ビルを見上げる彰吾の身体に、突然、ドンと一人の男の身体がぶつかった。二人組らしいその男はジロリと彰吾を睨みつけると、足早に通り過ぎていった。

「朝倉さん、次どこ行きます?」

 大柄な男がもう一人に一風変わった大阪弁で声をかけている。プンと火薬と血の匂いがした。

(刑事?)

 彰吾はその男たちに死相を感じ取っていた。近いうちにあの男たち二人ともが死ぬ事になるかもしれないな、とふと思う。だが、今はその二人に関わっている余裕はない。

 彰吾は自動ドアを通り抜けると、エレベーターを待たずに非常階段を使って2階に上がっていった。2階のドアにもまた暗幕が、まるで人の出入りを妨げるように垂れ下がっている。

 彰吾は慣れた手つきで、暗幕を潜り抜けるとドアを開けた。

 室内は薄暗く、さらに何枚もの暗幕で室内をいくつかに区切ってある。そこに微かに通路がわかる程度に蝋燭が立てられている。

 硫黄や香の煙が立ち昇るなか、彰吾はゆっくりと奥へと進んだ。

 その一番奥まで歩き、暗幕に手をかけた時、なかから声が聞こえてきた。

「彰吾か?」しわがれた老婆の声。

「ああ」

 彰吾は暗幕をかきわけ、中へと入っていった。

 暗幕で囲まれた狭い空間のなか、黒いマントに身を包んだ老婆が床に敷かれた絨毯の上に座り込み、彰吾を見上げている。その顔には何本もの深い皺が刻まれ、黒い瞳が皺のなかから覗いているように見える。

 彰吾は靴を脱ぐとその老婆の前に腰をおろした。

「調子はどうだい?」彰吾は軽く笑いかけた。

「まあまあさね。久しぶりだねえ。今日はどうしたんだい?」

 ジロリと彰吾の表情を眺め老婆は訊いた。ここでは魔術、呪術に関するさまざまな品を販売している。

 老婆とは小学校3年の頃からの知りあいだ。偶然、この店から漂ってくる霊気に誘われるように入ったのが初めてだった。突然、小学生が現れたことに老婆は驚いた表情を見せたが、それでもすぐに彰吾の霊力に気づき、それからはまるで彰吾を自分の孫のように可愛がってくれる。

「命水晶をもらいたいんだ」

「命水晶?」

 老婆はぴくりと眉をあげた。「あんたが命水晶を欲しがるなんてどうしたんだい? 何か厄介ごとにでも首を突っ込んだかい?」

「ああ、ちょっとね」

「ちょっと? あんたの言う『ちょっと』っていうのはどんなことなのかね。『命水晶』というのはいざという時に自らの命の身代わりにするもの。つまり命の危険があるときに使うものさ。わかっているんだろう?」

「知ってるよ」

「つまりそれだけの危険があるものに手を出そうとしてるってことだね」

 老婆の言葉に彰吾は答えようとはせず、ただにこやかに微笑んだ。

 その表情を見つめ、老婆はその懐から小さな水晶球を皺だらけの手のひらにのせて彰吾に向けた。

「いくらだい?」

 彰吾は老婆の手からその水晶球を受け取りながら訊いた。

「50万だよ」

「手持ちはないな。あとでいいかい?」

「全てが終わったあとで支払ってくれればいいよ」

「その時には生きていないかもしれないよ。それでもいいの?」

「そうならないための命水晶だろ? 大丈夫。あんたは死なないよ」

「ありがとう」

 彰吾は立ち上がった。


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