ヤマザキカツミ・1
時はさらに遡る。
山崎克巳が自らと同姓同名の人間の死に怯える、そのおよそ半年前――
群馬県前橋市、新前橋駅前にある小さな居酒屋で、鯨岡重徳は一人酒を飲んでいた。
客が扉を開け、暖簾を潜って中に入ってくる度に冷たい風が店内に吹きこんでくる。すでに12月も暮れになり、夜になると毎日のようにチラチラと雪が舞っている。
奥の座敷のほうからは、少し早い忘年会でも行われているのか、大きな笑い声や時には拍手が聞こえてくる。
鯨岡は一人、そんな雑音に耳を傾けることなくじっと目の前のグラスに視線を注いで考え込んでいた。
手が微かに震えるのを押さえるように、鯨岡はグラスを握り締めた。
(このまま突き進んでいいのか?)
自分自身に問い掛ける。
鯨岡は『富士総合セキュリティ』という警備会社でガードマンをして働いていた。今は銀行の現金輸送車の警備を行っている。毎日毎日、大金の入ったジェラルミンケースを運びながら、いつも思っていた。
(このままこの金が自分のものになれば)
もちろんそんなことが出来るはずがない。
自分にはそんな才覚もなければ、度胸もありはしない。そうずっと思いつづけてきた。
鯨岡は5歳年下の妹、エリカと二人で暮らしている。
母は鯨岡が10歳の時に男を作って家を出て行き、父も鯨岡が高校2年の時に病死した。悲しみはなかった。父は土木作業員だったが、その収入のほとんどは父の酒代に消えていき、家計は鯨岡がバイトをすることで支えていた。もし、父が病死しなければ、いずれは自分が殺していたかもしれないと今でも時々思うことがある。
父の死後、鯨岡は高校を中退して、すぐに『富士総合セキュリティ』に就職した。
妹のエリカは生まれつき視力が弱く、子供の頃から「いずれ失明する」と医者からも宣告されていた。
――普通の角膜移植ならば50万もあれば出来るのですが……あなたの妹さんの場合はちょっと特殊でね……遺伝でしょうね。
そう言って医者が示したのは1000万という高額な手術料だった。確かに鯨岡が生れる前に死んだ祖母がやはり同じ病気で目が見えなかったという話を聞いたことがある。エリカのために何とかしてやりたかったが、とても鯨岡にはそんな金を用意することは出来なかった。21歳になった今、妹の視力はほとんど奪われてしまっている。アパート内ならば一般の人と同じような生活は出来るものの、一人で外に出ることは出来なかった。
毎日、働いてもそれはしょせん日々の生活費に消えていく。ほとんどギリギリといえる生活が続いていた。
(いったい俺は何のために働いているんだ?)
その生活に鯨岡は疲れていた。そんな時、あの男と出会った。
次第に秋が深まり始めた10月の夜、鯨岡が一人居酒屋の隅で飲んでいると、ふいに隣に若い男が座った。
男は『山崎克己』と名乗った。紺のスーツを着込み、いかにもどこかの営業マンのように見える。男は人懐こい笑顔を見せながら鯨岡に酒を勧めた。
どこで自分のことを聞いてきたのかはわからないが、山崎は鯨岡が警備会社で働いていることも、エリカの目がいずれ完全に見えなくなるということも知っていた。
「あんた……いったい何なんだよ……どうして俺のことを知ってるんだ?」
山崎は黙って笑った。その目はまるで鯨岡を笑っているように見える。
「黙ってないで答えろよ。誰なんだおまえ? 新手の詐欺か? だったら俺なんて相手にしたって意味がないぞ。金なんかない」
「良い話しがあるんですよ。妹さんのためにもなる話です」
訝しがる鯨岡にたいし、山崎は笑って言った。その笑顔に嫌な予感がした。
その話しを聞いてはいけない気がした。それでも、妹のことを考えた時、鯨岡は男の話しに耳を傾けてしまっていた。
「世の中に、どれほど未解決な事件が多いかご存知ですか?」山崎はそう言った。
「さあ……」
「毎日のように事件が起きる。皆、事件が起きる話しは聞くが、事件が解決したという話しはどれだけ聞きます? 一昨年の年末に連続して起きた現金輸送車の強奪事件だって、結局、一件は未解決のままじゃないですか」
山崎の舌は滑らかだった。鯨岡は山崎に薦められるまま酒を飲み、そして話しを聞いた。いつのまにかさっき感じた嫌な予感は消えている。
「法や警察は万全ではない。いや、むしろ今の世の中ではそんなものは穴だらけのザルだ。そのザルをうまく掻い潜って大金を手にしている奴等が山ほど存在している。我々が朝から晩まで働いて何年かかっても手に入れられない金をたった一日で手に入れるんですよ。羨ましいと思いませんか?」
「そりゃ――」
「でしょう? 要するにいかにうまくやるか、それだけなんですよ」
酔いのせいもあるかもしれない。だが、男の話しを聞いていると全ての犯罪などまるで朝飯前に思えてくる。
「あんたの話しを聞いてると、俺までが簡単にそんなことが出来るようになってくるな」
酔いに任せて鯨岡は笑った。だが、それはあくまでも冗談に過ぎず、そんなことが現実に出来るとは考えていない。
「そりゃそうですよ。鯨岡さん、あなたなら100%成功できる。なんていってもあなたは決して疑われることのない立場になれるのですからね」
「え? そりゃ、どういう意味?」
「つまりね、あなたが運んでいる金をそっくり頂いてしまおうって言ってるんですよ」
「何言ってるんだ?」
まるで理解出来ないというように鯨岡はパチパチと目を瞬かせた。
「あなたの現金輸送車を襲いましょう」
山崎はあっさりと言ってのけた。その言葉に一気に酔いが冷めていく。
「な、何をバカなことを……」
思わず周囲を見回した。そして、誰にも聞かれていないことを確認してから再び、男へ顔を向けた。「お、俺に強盗をやれっていうのか?」
「違いますよ。強盗をするのは私たち。あなたはそれを見過ごすだけでいいんですよ」
「『私たち』?」
「そう、私ともう一人であなたの現金輸送車を襲います」
男はさらりと言うと笑ってビールを飲んだ。
「何言ってるんだよ……じょ、冗談なのか?」
鯨岡はわざと笑顔を作ろうとしたが、うまくいかなかった。すっかり酔いは冷めて、それどころか寒気までしてくる。
「さあ……どう思います?」
「よしてくれよ 俺にそんなこと出来るわけないだろ」
「なぜ?」
「なぜって――」
「金は必要ないと? 妹さんの目はあのままでいいと?」畳み掛けるように男は言った。
「誰もそんなことは言ってないだろ」
そう、誰もそんなことは思っていない。出来る事なら1日も早くエリカの目を治してやりたいものだ。しかし、今の警備会社の給料だけでは兄妹二人で暮らしていくのが精一杯で、とても手術費用を作ることなど出来ないことも事実だ。
「なら、妹さんのために一仕事するのも良いんじゃないですか? 兄貴なんでしょ? 妹の幸せを考えてやったらどうです? 結婚させてあげたいんでしょ?」
鯨岡は愕然とした。なぜ、そんなことまでこの男は知っているんだ?
エリカには今、付き合っている男がいる。高校時代の同級生で林葉道明という男だ。アパートにも何度か訪ねてきているし、エリカをよく遊びに連れ出してくれる。道明は高校の頃は暴走族に所属しており、何度も警察に厄介になったことのあるワルだったが、卒業後はすっかり変貌し今は小さな自動車修理工場で整備工をやっている。鯨岡は道明のことをすでに弟のように感じていた。あの男ほど目の不自由なエリカのことを思ってくれる奴はいないだろう。
これまでも道明はエリカに結婚を申し込んでいた。だが、エリカは自分の目のことを気にして、色よい返事を出せないでいる。そのことについては道明からも相談されていた。
「おまえ……誰なんだ? どうしてそんなことまで知ってるんだ?」
「さあ、どうしてだと思いますか?」
男はにやにやと笑った。
エリカと道明のことは、自分以外に誰も知らないはずだ。エリカが拒んでいるため、道明もまだ家族にも紹介出来ずにいる。
「まさか……道明君が?」
「彼は手を組んでもいいって言ってますよ」
またも鯨岡は愕然とした。いかに以前警察に厄介になったことがあったとはいえ、今まじめに働いている道明が犯罪に手を出すとは信じられない。
「そんなバカな」
「なぜ? 彼のほうがあなたよりも妹のことを想ってるってことでしょうね」
「違う!」
思わず声を荒げた。罪を犯すことが妹を想うことになるならとっくにやっている。
「彼からあなたの話を聞いた時はもっと妹想いの人かと思ってましたが……臆病な人ですね。あなたはただ車の運搬経路と警備体制を私たちに教えてくれるだけでいいんですよ。あとは私たちがやるんです。そんなことも出来ないんですか? それとも妹さんがどうなってもいいっていうことですか?」
「バカなこと言うな!」鯨岡は男を睨んだ。
「それじゃ協力してもらえますか?」
男はあくまでも冷静だった。
「そんな……そんなことがうまくいくはずがないじゃないか」
「なぜです?」
「なぜ……って……」鯨岡は口ごもった。
「うまくいくならいいんでしょう?」
「それは――」
「悲観的に考えるのはやめましょう。任せてくださいよ。私だって警察になど捕まりたくないんだ。そんなへまな計画など立てはしませんよ」
「だが――」
「それじゃこうしましょう。私はあなたの情報をもとに計画を立てます。その計画を聞いてあなたは参加するかどうかを考えればいい。どうです? それならいいでしょう? そのかわりちゃんとあなたの仕事について私に教えてくださいね」
山崎はそう言って鯨岡の顔をじっと見つめた。その山崎の目が不敵に笑っていた。
あれから2ヶ月半、鯨岡は山崎に現金輸送に関する情報を全て話した。それをもとに山崎が計画を立てたのだが、不思議な事に鯨岡に聞くまでもなく、山崎は銀行業務や現金輸送についての知識を持っていた。そして、いつの間にか鯨岡は計画から外れる事が出来なくなっていた。当然ながらエリカには計画のことを一切話はしなかった。鯨岡は決してエリカのことだけはこの計画に巻き込みたくはなかった。
そして今日、計画決行の日が来週の月曜と山崎から告げられた。
(本当にこのまま進んでしまっていいのか?)
すでにビールジョッキも4杯目になっている。それでも、まるで今夜は酔うことが出来ない。どれほど飲んでも心のなかの不安が消えることはなかった。
ふと、人影が目の前に立ち、鯨岡は顔をあげた。
「お待たせしました」
林葉道明だった。
道明は長い髪を栗色に染め、イマドキの若者っぽく耳にはピアスまでしている。仕事が終わってすぐにやってきたらしく、ツナギを着たままの姿だった。道明は通りかかった店員に生ビールを頼むと改めて鯨岡に顔を向けた。「急の仕事が入っちゃいまして……」
道明は鯨岡の正面に座るとツナギのポケットからタバコを取り出し、一本取り出すとすぐに吸いはじめた。
「で……話しってなんですか?」
「来週のことだよ」
ぼそりと鯨岡が言うと道明はあからさまに嫌な顔をした。
「こんなところでそんな話するのはやめましょうよ」
「おまえ……本当にいいのか?」
「今更、何言ってるんですか?」
不機嫌そうに道明は言った。「もう後にはひけませんよ」
確かにそれは鯨岡もわかっている。計画は完璧に用意され、あとはそれを実行に移すだけだ。すでに拳銃も手にいれている。
「正直言って俺は怖いんだ」
鯨岡もタバコを一本口に咥えると火をつけた。紫煙を思いっきり身体のなかに吸いこむ。
「そりゃまあ、俺だって不安ですよ」
そう言って道明は、ちょうど店員が持ってきた生ビールのジョッキに口をつけた。「けど、エリカちゃんのためにも、やらなきゃなんないでしょ」
道明の目には強い決意がはっきりと見えた。
「俺だってあいつのことを考えればなんとかしようと思うさ……けど、本当にあの男の言いなりにこのまま突っ走ってしまっていいもんかな」
なによりも鯨岡は山崎という男をまだ信用してはいなかった。
鯨岡はせわしなくタバコを吸った。
「言いなりってことはないでしょう。俺たちだって自分の意志で計画に加わったんですよ」
「だがな、あいつのことを俺たちはほとんど何も知らないんだぞ」
知っているのは名前と連絡先として教えられた携帯電話の番号だけだ。この辺のことにあまり詳しくないところをみると地元の人間でないことは想像出来るが、実際にどこに住んでいるのかは教えてはもらってはいない。得体のしれない山崎という男にこのままついて行くことが正しいのかどうか、鯨岡にはわからなかった。しかも、逆に鯨岡たちは山崎に仕事のことや、家族のことまで調べられている。
そもそも、なぜ山崎が道明や鯨岡を選んだのか、それが気になっている。山崎はただ、「知り合いからあんたたちのことを教えてもらった」とだけ話していた。その知り合いというのが誰のことなのかも鯨岡たちには知らされていない。それを不公平に感じながらも、文句も言うことが出来ない。山崎という男はどこか妙に迫力があった。
「そんなこと、どうでもいいじゃないですか」
鯨岡の不安をよそに、道明はぶっきらぼうに言った。
「なんだって?」
「エリカちゃんのためになればいいじゃないですか。あの男が何を考えているのかなんて関係ありませんよ。俺が考えてるのはそれだけです」
まるで迷いを吹っ切るように道明は言うと、一気にビールを飲み干した。
「道明……」
道明の言葉に鯨岡も何も言えなくなった。それほどまでにエリカを思ってくれる道明の気持ちは嬉しかった。
だが、本当にそれでいいのだろうか。
(やめろ……考えたってしかたない)
鯨岡もそう割り切ろうと決めた。
そう……今はただ突き進むほかないのだ。




