第9話:氷の男の激重感情
――『形だけ』の結婚など、私は絶対に許可しない。
低く、地を這うようなクラウスの重厚な声が、薄暗い執務室の空気をびりびりと震わせた。
顎先に触れる黒革の手袋。その下にある男の指先は、戦場を支配する冷酷な武神のものとは思えないほど繊細で、まるで触れれば粉々に砕けてしまう硝子細工を慈しむかのように、わずかな痛みすらエレオノーラに与えていなかった。
だが、その至近距離から注がれる金の瞳に宿る熱量は、息が詰まるほどに狂おしく、重かった。
社交界で囁かれる『冷徹無比な黒狼』『感情を氷漬けにした生ける彫像』という渾名が、どれほど底の浅い風評であったかを思い知らされる。男の瞳の奥で渦巻いているのは、氷などではなく、すべてを焼き尽くさんばかりの純度の高い業火だった。
「……閣下」
エレオノーラはかろうじて声の震えを抑え、冷徹な理性の仮面を貼り直そうとした。
わずか数十センチの距離にあるクラウスの端正な美貌。男の肌から立ち上る、万年雪の冷気と、それと相反する熱い体温の匂いが、エレオノーラの思考回路を麻痺させようとしていた。
「私の提案書の文脈をお読み違えではありませんか? 私が貴殿に求めたのは、帝国法に基づく身柄の保護と、侯爵家からの干渉を排するための戸籍上の身分です。私は貴領に前代未聞の豊穣と莫大な軍事予算の圧縮をもたらす。貴殿は私に絶対不可侵の後ろ盾を与える。……これは極めて合理的かつ対等な、純然たる『事業提携』のはずですが」
「事業提携、だと?」
クラウスの喉から、嘲るような、しかし酷く苦い吐息が漏れた。
彼はエレオノーラの顎を解放すると、ゆっくりと半歩、後退った。
逃げ場を塞ぐような威圧感がわずかに和らいだことに、エレオノーラは安堵しかけた――だが、その直後、男が軍用外套の内ポケットから取り出した『あるもの』を目にした瞬間、彼女の息は完全に止まった。
クラウスの大きな掌に乗せられていたのは、四つ折りにされ、角が擦り切れ、幾重にも折り目が変色した一枚の羊皮紙だった。
過酷な戦場で幾度となく開かれ、肌身離さず持ち歩かれていたことが一目でわかる、古びた紙片。
クラウスは無骨な指先で、その紙片を丁寧に、まるで聖遺物を扱うかのような手つきで広げた。
そして、執務机の上に静かに置く。
「……これに見覚えはあるか、エレオノーラ」
エレオノーラは吸い寄せられるように、その紙面を見つめた。
淡く青白い魔導ランプの光に照らし出されたのは――。
『帝国暦343年冬・北境守備隊向け耐寒糧食および結界石配分指示書』
そこには、紛れもなくエレオノーラ自身の筆跡が残されていた。
凍傷を予防するための薬草の煎じ方、万年雪の吹雪の中で結界石を効率的に配置するための幾何学図形、兵士たちの胃腸を冷やさないための雑穀シチューの煮込み方に至るまで、現場の兵士一人ひとりの命を救うために彼女が夜を徹して書き殴った、あの日の補給指示書の写しだった。
「これは……」
「前世――いや、一年前の冬だ」
クラウスの金の瞳が、酷く切なげに細められた。
「吹雪に閉ざされ、補給を断たれ、部下の半分が凍傷で指を失いかけていた極寒の国境砦。帝都の無能な輜重官どもに見捨てられ、全滅を覚悟していた我が部隊の前に、奇跡のように届いた物資に添えられていた指示書だ。……名義は『アルトハイム侯爵家当主ユリウス』となっていた」
クラウスは机に両手をつき、エレオノーラを見下ろした。
その声は低く、しかし一言一句が魂を削るような重みを帯びていた。
「だが、現場の苦境を知り尽くしたこの緻密な配分指示、凍える兵士を案じる血の通った筆跡が、あの夜会で酒を呷ることしか能のない豚のものなどであるはずがない。……私は調べさせた。帝都のあらゆる商流を、帳簿を、裏の記録を洗った。そして知ったのだ。帝都の片隅で、莫大な負債を抱えた侯爵家をたった一人で支え、己の血を削って領民と結界を守り、あまつさえ国境の兵士の命まで救ってみせた、真の賢者が誰であったかを」
「……」
「君はずっと、あの男のためにすべてを捧げていた」
クラウスの拳が、みしりと音を立てて握りしめられた。
「自分の手柄をすべてあの無能に奪われ、影のように扱われ、どれほど過酷な労働を強いられても不平一つ漏らさず、すり減り続けていた。私は北の果てから、歯噛みしながらそれを見ていたのだぞ。……戦火が収まり、帝都へ戻ったあかつきには、何を代償にしてでも君をあの泥沼から引きずり出すつもりだった」
エレオノーラの胸が、ドクンと激しく脈打った。
(……あの方が、そこまで……? 前世の私のことを、そこまで知っていたというの……?)
前世で毒杯をあおらされた後、クラウスが帝都の司法省に不審死の公式再調査を要求したという事実は知っていた。だが、それはてっきり、補給を受けた軍人としての義理や、国家的な不審点への追及にすぎないと思っていたのだ。
まさか――あの戦場の日から、この男が自分という存在を、これほどまでに深く見つめ、焦燥と執着を募らせていたなどとは、夢にも思わなかった。
「だが、君は手紙を寄越した」
クラウスは自嘲するように唇を歪めた。
「あの男が男爵令嬢を屋敷に引き入れ、君をないがしろにしたと知った瞬間、私の怒りは天を衝いた。殺してやろうと思った。今すぐ親衛隊を率いてアルトハイム本邸を包囲し、あの愚か者の首を刎ねて、君を奪い去ってやろうとすら考えた。……そこへ、この手紙だ」
クラウスは机の上の提案書を乱暴に指先で弾いた。
「君の才覚を蔑ろにし、あのような安っぽい泥棒猫にうつつを抜かす愚か者に、君をこれ以上預けておく気など毛頭ない。私の前で『事業提携』などと澄ました顔をするな。君の敵は私の敵だ。アルトハイム侯爵家がこれまで君から搾取してきたすべての栄華を、骨の髄まで、金貨一枚に至るまで搾り取って破滅させてやる」
部屋の空気が、男の放つ圧倒的な熱量に呑まれていく。
エレオノーラは圧倒されていた。
彼女が組み立てていたのは、あくまで「法的・経済的な因果応報」という冷徹な計算式だった。しかし、目の前の男がぶつけてくるのは、計算式など容易く消し炭にしてしまうほどの、純然たる感情の暴力――激重の執着と庇護欲だった。
(なんなの……この男は……。ビジネスライクな契約を結びに来たはずなのに……この男の体温は、あまりにも高すぎる……)
前世でユリウスから浴びせられ続けたのは、凍りつくような侮蔑と、都合よく搾取するための冷たい言葉だけだった。
だからこそ、エレオノーラは今世において、すべての感情を損切りしたはずだったのだ。他人の愛など信じない。情など赤字の元凶でしかない。数字と法律だけが、自分を裏切らない唯一の味方だと、そう固く誓ったはずだった。
それなのに――。
耳朶が、ジリジリと熱い。
胸の奥で冷たく凍りつかせていたはずの何かが、クラウスの狂気じみた眼差しに当てられて、チリチリと音を立てて軋んでいた。
ふと、クラウスが息を整えた。
彼はエレオノーラが戸惑い、警戒するようにわずかに身を引いたのを見逃さなかった。
「……すまない」
クラウスは自らの激情を押し殺すように瞳を伏せると、スッと音もなく二歩、距離を取った。
そして――信じがたいことに、帝国軍の最高司令官であり、皇弟大公であるその巨躯を折り曲げ、エレオノーラの前で右腕を胸に当てて、深々と片膝をついたのだ。
騎士が、生涯の主君にのみ捧げる、至高の臣従の礼。
「き、閣下……!? 皇族であられる貴殿が、なぜそのような無礼を……!」
「怖がらせるつもりはなかった」
頭を垂れたまま、クラウスは低く、誠実な声で語りかけた。
「君が傷つき、誰も信じられなくなっていることは痛いほど解っている。私の感情を今すぐ受け入れろとは言わない。……だが、私の妻になる以上、覚悟しておけ。私はあの無能のように、君を日陰に置き、都合よく道具として使い潰すことなど絶対にしない。世界中の誰よりも君を尊び、守り、甘やかし尽くす」
クラウスは顔を上げ、黄金の瞳をエレオノーラへ向けた。
その視線には、先ほどの猛獣のような凶暴さは消え去り、ただただ澄み切った、揺るぎない覚悟が宿っていた。
「君が背負ってきた重荷のすべてを、半分よこせ。君が戦うというのなら、私は君の最も忠実な刃となろう。……その対価として、私は君のすべてを欲している。だからこそ――『形だけの夫婦』などという言葉で、私を煙に巻くことだけは許さん」
息を呑む静寂。
部屋の隅で短剣を拾い上げていたジゼルすら、息を殺してその光景を見守っていた。
クラウスは立ち上がると、外套の内ポケットから、もう一通の分厚い公文書を取り出し、机の上に置いた。
そこには、帝国法務省の認証印とともに、ヴァルハイト大公家の黒狼紋章が、重厚な黒蝋によって押印されていた。
「これを見ろ」
エレオノーラは促されるまま、その書類へと視線を落とした。
一行目を読んだ瞬間、彼女の冷静な頭脳が、再び激しく揺さぶられた。
『ヴァルハイト大公国・統治権委任ならびに包括的財産管理信託公正証書』
――第一条:ヴァルハイト大公クラウスは、領内の全財政権、農政権、物資配分権、ならびに兵站監査権を、大公妃エレオノーラ・フォン・ヘスブルクへ無条件で委譲する。
――第二条:大公妃の下す内政上の決裁は、大公本人の勅命と同等の効力を持ち、領内いかなる家臣もこれに異議を唱えることは叶わない。
――第三条:大公クラウスは、大公妃を軍師として遇し、その防衛および領地再生に関する指示に軍を挙げて従うものとする。
「……なっ、これは……!?」
エレオノーラは思わず声を上擦らせた。
あり得ない。
貴族社会において、婚姻とは夫が妻の財産を掌握し、妻を家門の従属下に置くのが常識だ。たとえ持参金の信託分離を行おうと、夫側の領地統治権に妻が直接介入するなど、前代未聞の特例である。
それどころか、この書類に記されているのは――夫側が妻に対して、自らの領地の全実権と財布の紐を無防備に差し出し、己の身柄すら妻の指揮下に置くという、完全なる『逆・公正証書』だった。
「閣下……正気ですか? これでは、貴殿が大公領のすべてを私に差し出しているに等しいではありませんか。もし私が悪女で、大公家の財産をすべて着服して売り飛ばしたらどうなさるおつもりなのです!?」
「好きにすればいい」
クラウスは眉一つ動かさず、平然と言い放った。
「奪えるものなら、ヴァルハイト領のすべてを奪ってみろ。君になら、この命ごとくれてやると言っているのだ。……これで分かっただろう。私は君を縛るために婚姻を求めているのではない。君という比類なき才覚に、この国で最も広大な舞台と、最も強大な軍事力を与えるために求めているのだ」
喉元が引き攣る。
反論の言葉が見つからない。
ここまで徹底して、命も権力も財産もすべて投げ出して自分を買い叩こうとする男に、エレオノーラはこれまでの人生で一度も出会ったことがなかった。
損得勘定を遥かに超越し、狂気的なまでの信頼と執愛を突きつけてくるこの男の前では、彼女が張り巡らせてきた計算尽くの防壁など、何の役にも立たなかった。
「……本当に、無茶苦茶なお方ですわね」
エレオノーラは溜息を漏らし、額を押さえた。
だが、その唇の端には、これまでの冷え切った皮肉とは異なる、微かな、人間らしい苦笑が浮かんでいた。
「私の勝ち目が、最初から潰されているではありませんか」
「勝敗などではない。契約の合意だ」
クラウスの口元が、わずかに緩んだ。
彼が笑うと、峻厳だった彫刻のような顔立ちに、年相応の青年の精悍さと、息を呑むような艶やかさが宿る。
ヒュウウ……と、夜風が再び窓から吹き込んできた。
夜明けまでは、まだ間がある。しかし、長居をすれば、いくら気配を殺しているとはいえ大公の存在が露見しかねない。
クラウスは身を翻し、窓枠へと足をかけた。
漆黒の毛皮外套が、風を孕んで大きくはためく。
夜の闇の縁に立ち、彼が最後に振り返った。
その黄金の瞳が、エレオノーラの姿を灼きつけるように見つめる。
「明後日の夜、迎えを寄越す」
クラウスは命じるように、しかし酷く愛おしげに告げた。
「あの侯爵邸での未練も、過去の亡霊も、すべて焼き捨てておけ。――身一つで来い、我が妃」
バサッ!
漆黒のマントが闇を裂き、巨躯が音もなく夜の虚空へと躍り出た。
遠くの夜空から、微かに空気を切り裂く竜の羽音が一度だけ轟き、そして瞬く間に北の闇へと消え去っていった。
開け放たれた窓。
吹き込む冷たい夜風の中で、カーテンが激しく揺れている。
部屋に残されたのは、机の上に置かれた『皇帝の婚姻承認状』、そして大公家の印章が押された『逆・公正証書』の二通だけだった。
「……お嬢様」
短剣を鞘に納めたジゼルが、夢でも見ていたかのように呆然とした足取りで歩み寄ってきた。
「本当に……あの御方が、あの黒狼大公閣下なのでございますか……? 信じられません……。社交界の噂では、冷酷非情で、血も涙もない怪物だと……」
「ええ……噂なんて、当てにならないものね」
エレオノーラは窓辺へ歩み寄り、冷たい夜風を胸いっぱいに吸い込んだ。
自らの左胸の上に、そっと手を当てる。
薄いドレスの生地越しに伝わってくるのは――トクン、トクン、と、今まで感じたこともないほど力強く、熱く脈打つ、己の心臓の鼓動だった。
「身一つで来い、ですって……? ふふ……相変わらず、傲慢で強引なお方」
エレオノーラは胸を押さえたまま、誰もいない北の夜空へ向けて、小さく呟いた。
その瞳には、すでに迷いの一片すら残っていなかった。
「上等ですわ。……その熱意に見合うだけの働き、骨の髄まで見せて差し上げます」
夜明け前の闇が、静かに青へと溶け始めていた。
決戦のカウントダウンが、今、始まった。




