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第8話:深夜の急襲

銀隼(ぎんしゅん)の足に密書を託し、北の空へと放ってから、丸一日――二十四時間が経過していた。


時計の針は深夜一時を回っている。

本館南翼では、今日も今日とてセレスティアが「昼夜が逆転した贅沢な暮らしこそ高貴な証」と嘯き、ユリウスを従えて酒宴を開いていたようだが、それも小一時間ほど前にようやく静まり返った。

二人が眠りについた後の侯爵邸は、死んだように静まり返っている。

だが、その静けさは平穏によるものではない。エレオノーラという唯一無二の柱を失い、油の切れた機械のように軋み始めた巨大な屋敷が、崩壊へと向かって緩慢に息を止めているかのような、不吉な静寂だった。


本館北翼、エレオノーラの私室。

すでに私財のすべてを搬出させ、余計な調度品の一切なくなった部屋は、机と椅子、そして最低限の寝台だけが残された修道院の瞑想室のような佇まいを見せていた。

卓上には、小さな魔導ランプが淡く青白い光を灯している。


「お嬢様、今夜はもうお休みになってはいかがですか。昨夜も一睡もなさっておいでではありません」


壁際に控えていたジゼルが、心配そうに声をかけてきた。

その手には、冷めないように魔法瓶へ移されたハーブティーが握られている。


「ありがとう、ジゼル。でも、不思議と眠気は来ないのよ」


エレオノーラは窓辺の肘掛け椅子に腰掛け、夜空を見上げながら静かに微笑んだ。

眼鏡を外し、疲れた目元を指先で軽く揉む。


「大鷹が順調に北境へ届いたとしても、黒狼城へ到着するのは早くて明日の昼過ぎ。そこから大公閣下が書状を改め、返書をしたため、再び伝書を送る……。最短でも、返事が届くのは三日後ね。それまでに、明日の日中に進めるべき『次の布石』を頭の中で整理しておきたいの」


「次の布石、でございますか」


「ええ。アルトハイム領全土を覆う結界の減衰プログラムよ。あの方々はまだ気づいていないけれど、私が日々の祈りと魔力充填を止めたことで、地下霊廟の要石はすでに残存魔力だけで回っているわ。……明日の朝には、第一段階の供給終了シークエンスへ移行させなければならないの」


エレオノーラは冷徹な頭脳で、領地破滅へのタイムスケジュールを淡々と刻んでいた。

すべては合法的に。

すべては自然な契約満了の形をとって。

自分がこの屋敷を出た後に、誰からも「正妻が結界を破壊して逃げた」などという言いがかりをつけさせないための、寸分の狂いもない手順。


――その時だった。


ヒュオッ……と、奇妙な風切り音が夜の静寂を切り裂いた。

冬の名残を宿した春の夜風とは、明らかに異質な風。

大気そのものが巨大な質量によって押し潰され、急激に圧縮されたかのような、重苦しい気圧の変動。


(……何かしら?)


エレオノーラが眉をひそめた刹那。

部屋の空気が、ビリビリと肌を刺すような高濃度の魔力で満たされた。

机の上の魔導ランプの炎が、青から鋭利な白へと跳ね上がる。

屋敷の分厚い石壁を通じて、ズシン……と、地鳴りのような極微小な振動が床板から伝わってきた。何か、城壁ほどの巨大な怪物が、敷地内の森の裏手に音もなく着地したかのような振動。


「お嬢様、伏せて――!」


ジゼルが反射的に叫び、腰のホルダーから護身用の魔導短剣を引き抜いた。

それとほぼ同時だった。


ガガッ!

施錠されていたはずの二重ガラスの窓が、外側からの凄まじい風圧によって弾け飛ぶように内側へ開かれた。

夜の冷気が怒涛の如く雪崩れ込み、部屋のカーテンを激しく吹き煽る。

漆黒の闇が凝縮したかのような暴風とともに、窓枠を音もなく飛び越え、一筋の影が床の上へと滑り込んできた。


フワリ、と布擦れの音すら立てない、完璧な着地。

侵入者は、床に片膝をついた姿勢から、ゆっくりと立ち上がった。

部屋の天井に頭が届かんばかりの、圧倒的な巨躯。

夜の闇よりも深い漆黒の軍用毛皮外套を纏い、その広い肩や襟元には、帝都では決して見ることのない万年雪の白い霜がびっしりとこびりついている。


「曲者ッ……!」


ジゼルが一切の躊躇なく地を蹴り、短剣の切っ先を侵入者の頸動脈めがけて突き出した。

平民出身でありながら、ヘスブルク家で高度な護衛術を叩き込まれたジゼルの刺突は、歴戦の騎士すら一撃で仕留める速度と鋭さを誇っていた。


だが。

侵入者は身じろぎ一つしなかった。

短剣が喉笛に達する直前――黒革の分厚い手袋に包まれた男の左手が、電光石火の速度で閃いた。

刃の腹を指先でわずかに弾かれただけで、ジゼルの短剣は甲高い金属音を立てて弾き飛ばされ、床の大理石へと突き刺さる。


「くっ……!?」


反動で体勢を崩したジゼルが、即座に懐から予備の暗器を抜こうとした。

その瞬間、侵入者の全身から、地を這うような凄まじい『覇気』が解き放たれた。

戦場で数千の首を刎ね、無数の魔獣の血煙を浴びてきた者だけが纏う、本物の死の気配。

肌が粟立ち、呼吸が止まり、歴戦の兵ですらその場に縫い付けられるような絶対強者の威圧。


「やめなさい、ジゼル!」


張り詰めた部屋の空気を切り裂いたのは、エレオノーラの澄み渡る凛とした声だった。


「お、お嬢様……! しかしこの男は――」

「下がっていなさい。……その方に刃を向けて生き残れる人間は、この帝国には一人も存在しないわ」


エレオノーラは椅子から立ち上がり、乱れた髪を一筋耳の後ろへ流すと、侵入者の前に真っ直ぐに歩み出た。

その歩みには、恐怖も動揺も微塵もない。


侵入者の男が、ゆっくりと両手を上げ、敵意がないことを示すように首を振った。

そして、顔を覆っていた毛皮のフードを、無骨な手で払いのけた。


バサリ、と落ちたフードの下から現れたその姿に、ジゼルが息を呑んだ。


夜の闇をそのまま溶かし込んだかのような、短く切り揃えられた漆黒の髪。

氷の彫刻のように研ぎ澄まされ、無駄な贅肉を削ぎ落とした、峻厳にして息を呑むような美貌。頬には歴戦の証である浅い刀傷が一つ刻まれているが、それがかえって男の野性的な色気を際立たせている。

そして――何よりも見る者を射竦めるのは、暗がりの中で爛々と光を放つ、猛獣の如き『黄金の瞳』。


クラウス・フォン・ヴァルハイト。

現皇帝の異母弟にして、帝国全軍を統括する「黒狼大公」その人だった。


「……」


クラウスは無言のまま、金色の視線をエレオノーラへと注ぎ落としていた。

その肩からは、いまだ北方の冷気が白い湯気となって立ち上っている。

額には汗の滲んだ前髪が張り付き、唇は極寒の風に晒されてわずかに色を失っていた。

呼吸こそ乱していないが、その全身からは、限界を超えた強行軍を強いた者特有の、張り詰めた熱量が放たれていた。


エレオノーラは瞬きを一つし、信じがたい現実を頭の中で高速で検算した。


(……二十四時間よ?)


手紙を放ったのは昨日の朝。

帝都から北方の黒狼城までは、早馬を乗り継いでも片道四日、往復で八日はかかる途方もない距離だ。

それが、手紙が届いてから返書が戻ってくるのではなく――大公本人が、丸一日で帝都のこの私室へ現れた?

物理的にあり得ない。常識的な軍事行動の範疇を完全に逸脱している。


だが、エレオノーラは動揺を表に出さず、完璧な貴婦人のポーカーフェイスを保ったまま、優雅にスカートの裾を引いてカーテシーを捧げた。


「……夜分恐れ入ります、ヴァルハイト大公閣下。返書を心待ちにしておりましたが、まさか使者ではなく、閣下ご自身が窓からお越しになるとは思いもよりませんでしたわ」


皮肉を微かに混ぜたエレオノーラの挨拶。

クラウスの眉がピクリと動き、その薄い唇から低くハスキーな声が零れ落ちた。


「手紙を寄越したのは貴様の方だ、エレオノーラ・フォン・ヘスブルク」


その声は、重厚な鐘の音のように部屋の空気を震わせた。

クラウスは軍靴を軋ませて一歩前へ進み出ると、懐から一枚の羊皮紙を取り出し、机の上へと放り投げた。

バサリと落ちたのは、エレオノーラが昨日認めた事業提案書――その原本だった。


「昨日の昼、お前の手紙を受け取った。……読んだ瞬間、返書など書いている時間の猶予はないと判断したまでのこと」


「時間の猶予、でございますか? 私は半年以内の事業着工と申し上げましたはずですが。それに……帝都までの距離を、一体どうやって一日で?」


エレオノーラの問いに、クラウスはまるで取るに足らないことのように短く答えた。


「軍用竜を駆った。黒狼竜騎兵団の最速個体を二頭、乗り継ぎながら不眠不休で飛ばせば、北境から帝都まで半日強だ」


「ぐ、軍用竜を……!? 乗り継ぎで……!?」


背後でジゼルが素っ頓狂な声を上げた。

無理もない。軍用竜とは、国家間の総力戦においてのみ出撃が許可される戦略級の魔獣だ。その飛行速度は音を置き去りにするほどだが、騎乗者に生じる風圧と魔力負荷は凄まじく、歴戦の竜騎士であっても数時間の飛行で内臓を痛める。それを北の果てから帝都まで、乗り継ぎながら不眠不休で直行するなど、正気の沙汰ではない。人間の肉体が耐えられる限界を疾うに超えている。


エレオノーラは冷徹な仮面の下で、息を呑んだ。

この男は、自分の手紙を読んだその瞬間に竜の背に飛び乗り、嵐の吹き荒れる上空を、ただ私に会うためだけに不眠不休で飛んできたのだ。


「……大公閣下。軍用竜による帝都領空の無許可侵犯は、帝国軍刑法において反逆罪に問われる重大な軍紀違反のはずですが」


エレオノーラが冷静に指摘すると、クラウスは鼻で短く笑った。

そして、内ポケットからさらに二枚の重厚な羊皮紙を引き抜き、無造作に机の上に叩きつけた。


ペラリと開かれたその書類の末尾には、眩いばかりの金色の紋章――帝国皇帝の直筆署名と玉璽が押されていた。


「反逆罪など問われん。――これが一枚目だ」


クラウスが指先で叩いた書類。

そこには、達筆な皇帝の筆跡でこう記されていた。

『ヴァルハイト大公クラウスに対し、帝国全土における軍用竜の緊急機動および領空侵犯の全権を委任・追認する』。


「そして、これが二枚目だ」


エレオノーラの視線が、もう一枚の書類へと吸い寄せられた。

そこに刻まれていた表題を目にした瞬間、彼女の心臓が跳ね上がった。


『皇帝勅許・特別婚姻承認状』


夫の欄には『クラウス・フォン・ヴァルハイト』とすでに署名がなされている。

しかし、妻の欄は――空白。

そしてその下には、皇帝が事前に押印した、国家最高権威の承認印が燦然と輝いていた。


「……空白の、婚姻承認状……?」


「兄上――皇帝陛下を叩き起こし、玉璽を押させてから竜を飛ばした。帝都上空に入ったところで憲兵隊に通信石を投げつけ、追認させた。法的手続きに一切の瑕疵はない」


クラウスは事も無げに言ってのけた。

瑕疵がないどころの話ではない。皇帝に寝込みを襲って署名させ、国家の法を力尽くで自分の背中から追従させたのだ。

侯爵ごときがどれほど法律を捏ね回そうと、この男の前では紙屑同然。

圧倒的な軍事力と、帝室の血筋がもたらす、絶対的な権力の具現。


「……恐れ入りましたわ」

エレオノーラは嘆息を漏らし、静かにクラウスを見上げた。

「私の事業提案書を、それほど高く評価していただけたのですね。北方穀倉地帯の再生計画、必ずや閣下のご期待以上の成果をお見せいたします。これで、私たちの契約は成立――」


「待て」


エレオノーラが契約の成立を告げようとした瞬間。

クラウスが重く、遮るような声を放った。


ザッ、と黒革の軍靴が絨毯を踏みしめる。

クラウスが長い脚を動かし、エレオノーラとの距離を瞬く間にゼロにした。


影が落ちる。

見上げるほどの長身。逞しい胸板の厚み、男の放つ野性的な体温と、北方の吹雪の冷気が入り混じった独特の匂いが、エレオノーラの全感覚を支配する。

逃げ場のない圧迫感。


エレオノーラが微かに息を詰めた瞬間――。


スッ、と冷たい感触が顎先に触れた。

クラウスの大きな手が、黒革の手袋越しに、エレオノーラの白く華奢な顎をそっと持ち上げたのだ。


「な……っ」


強引ではあるが、痛みは微塵もない。まるで壊れやすい極上のガラス細工を扱うかのような、信じがたいほど繊細な力加減。

上を向かされたエレオノーラの視線の真正面に、クラウスの黄金の瞳が迫る。

その瞳の奥には、事業の成功を喜ぶ経営者の冷徹さなど欠片も存在しなかった。

そこにあるのは――息苦しいほどに濃密で、狂おしいまでに熱い、剥き出しの『執着』。


二人の吐息が触れ合うほどの至近距離で、クラウスの薄い唇が、低く獰猛に紡がれた。


「手紙の条件はすべて呑む。お前が望む庇護も、軍事力も、あの侯爵を破滅させるための後ろ盾も、すべてくれてやる」


「……っ」


「だが、一つだけ訂正しろ」


クラウスの指先が、エレオノーラの顎のラインを愛おしむように微かに撫でた。

男の熱い呼気が、エレオノーラの唇をかすめる。


「――『形だけ』の結婚など、私は絶対に許可しない」

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