第7話:黒狼大公への手紙
夜が明け、アルトハイム侯爵邸には新たな一日が訪れていた。
だが、その空気は昨日までとは決定的に異なっていた。
本館の中庭に面したテラスでは、朝寝坊を決め込んだセレスティアが、派手なガウンを羽織り、ユリウスに甘えた声を響かせている。
「まあ、ユリウス様! 今朝のオムレツ、トリュフの香りが足りなくてよ! シェフに焼き直させますわ!」
「ははは、セレスティアの舌は肥えているな。おい、料理長を呼んで作り直させろ!」
昨夜の狂乱のワインの残り香を漂わせながら、傲慢に召使いを怒鳴りつけるユリウス。
しかし、命じられた若い給仕は青ざめた顔で立ち尽くし、料理長カテリーナがすでに朝の厨房で「契約外の無駄な贅沢は拒否する」と頑として首を縦に振らなかったことなど、彼らの耳には届いていなかった。
昨日手渡された五キログラムを超える真鍮の鍵束は、本館サロンの絨毯の上に、置き去りにされたまま埃を被り始めている。
屋敷の金庫から主要な資産が消え去り、口座が凍結され、月末には破滅的な額の請求書の山が押し寄せるという現実に、愛欲と見栄に溺れた二人はまだ何一つ気づいていない。
一方、本館北翼――。
すでに私財のすべてを搬出させ、完全に身軽となった執務室で、エレオノーラは冷徹な眼差しで白紙の羊皮紙と向かい合っていた。
朝の凛とした光が、磨き抜かれた机の上に落ちる。
ペンの先をインク壺に浸しながら、エレオノーラは静かに思考を研ぎ澄ませていた。
(不良債権の損切りと、手持ち資産の回収は終わったわ。……けれど、これだけでは不完全よ)
ユリウスにサインさせた公正証書は完璧だ。帝国法務尚書の公印もあり、法的にはエレオノーラの完全勝利が約束されている。
だが、現実は法律の条文だけで動くものではない。
いざアルトハイム領の破綻が現実のものとなり、魔獣が押し寄せ、借金取りが門を叩いた時――追い詰められたユリウスが、逆上して何を仕掛けてくるか分からない。逆恨みによる実力行使、私兵を使った拉致、あるいは前世のように裏ギルドを通じた暗殺。
身一つで実家ヘスブルク家に戻ったところで、老齢の父や一族に火の粉が降りかかるだけだ。
ゆえに、エレオノーラには必要だった。
アルトハイム侯爵ごときが逆立ちしても手出しできない、圧倒的な武力と権力を兼ね備えた、絶対不可侵の『後ろ盾』が。
「……帝国法第十五条。上位貴族の庇護下に入りたる配偶者、ならびに信託契約者に対し、下位貴族からの私的提訴および実力行使は反逆罪とみなす」
エレオノーラは呟き、薄い唇を吊り上げた。
侯爵の上位に君臨する存在。公爵、そしてその頂点に立つ――『皇弟大公』。
クラウス・フォン・ヴァルハイト。
現皇帝の異母弟にして、帝国全軍の総司令官を務める男。
北方の極寒地帯「ヴァルハイト領」を治め、国境に跋扈する凶悪な魔獣や異民族をことごとく薙ぎ払ってきたことから、社交界では畏怖を込めて『黒狼大公』『生ける氷壁』と呼ばれている。
冷酷無比で、感情を持たず、他者との馴れ合いを一切拒むと噂される男。
だが、エレオノーラは知っていた。
その噂の裏にある、男の『真の横顔』を。
(……前世の、あの地獄のような冬のことよ)
エレオノーラはペンを握る手に微かに力を込め、遠い記憶の糸を手繰り寄せた。
帝国暦343年の冬。
北部山脈で大規模な魔獣のスタンピードが発生し、国境を守るクラウス率いるヴァルハイト軍は、万丈の雪と瘴気の中に孤立した。
補給路は寸断され、帝都の無能な輜重官たちは保身のために救援を遅らせ、前線は全滅の危機に瀕していた。
その時、帝都の夜会で酒を飲んでいたユリウスは、救援物資の拠出要請書を鼻で笑ってゴミ箱に捨てたのだ。
『北の野蛮人どもが飢え死にしようと、我が侯爵領の知ったことか。穀物を送る金があるなら、今宵の劇場の貸切代に回せ』と。
夫の浅ましさに戦慄した前世のエレオノーラは、自らの権限を限界まで行使した。
実家ヘスブルク家の名義で帝都の倉庫から極秘裏に小麦三万石を買い付け、アルトハイム領の備蓄倉庫から高純度の結界石を削り出し、独断で軍用輜重隊を組織して猛吹雪の北境へと送り届けたのだ。
名義上は「アルトハイム侯爵家からの公的支援」として処理したが、添付した詳細な配分指示書、凍傷を防ぐための生薬の配合表、そして結界石の効率的な配置図は、すべてエレオノーラ自身の手による直筆だった。
その物資によって息を吹き返したクラウス軍は、奇跡的な大逆転を果たし、魔獣の群れを殲滅した。
戦後、アルトハイム侯爵邸にはクラウス本人から破格の礼状と莫大な軍功報奨金が届いたが、ユリウスはそれをすべて自分の手柄として着服し、セレスティアとの遊興費に消えた。
そして――何より忘れられないのは、前世の最期。
エレオノーラが毒杯をあおらされ、離宮で孤独に息絶えた後。
ユリウスが「病死」として片付けようとしたエレオノーラの遺体に対し、唯一、帝都の司法省へ不審死の公式再調査を要求し、憲兵隊を動かそうとしたのが、遠く北境にいたはずのクラウス大公だったのだ。
結局、ユリウスが裏で手を回して証拠を隠滅したため調査は打ち切られたが、あの冷徹な黒狼が、なぜ会ったこともない他家の妻の死を追及しようとしたのか――。
(あの方は、気づいていたのよ)
前線に届いたあの緻密な指示書の筆跡が、無能なユリウスのものではなく、裏で身を粉にして領地を支えていた正妻のものだったということに。
そして、己の命と全軍の危機を救った真の恩人が誰であったのかを。
「……ならば、話は早いわ」
エレオノーラの瞳に、怜悧な光が宿る。
これは憐れみを乞う嘆願ではない。
互いの利害が極めて高度に一致する、帝国史上最大の『対等な事業提携』の提案なのだ。
エレオノーラは背筋を伸ばし、万年筆を滑らかに走らせ始めた。
書き記されるのは、愛の言葉でも泣き言でもない。数字と魔導力学の論理で埋め尽くされた、極めて簡潔にして刺激的な事業提案書。
『拝啓、ヴァルハイト大公クラウス閣下。
不躾な書状をお許しください。アルトハイム侯爵夫人、エレオノーラ・フォン・ヘスブルクより、貴領の統治に関する重大な提議を申し上げます。
現在、貴領ヴァルハイト領は、帝国屈指の軍事拠点でありながら、過酷な万年雪と地下から湧き出る古代兵器の残滓たる瘴気により、農作物の自給率が帝国最低の十二パーセントに留まっております。貴軍の兵站は、常に帝都からの輸入穀物に依存し、莫大な軍事予算が食糧の輸送費へと浪費されている現状は、安全保障上、極めて脆弱な弱点と言わざるを得ません』
一切の追従を排し、相手の喉元に突きつけるような的確な現状分析。
エレオノーラは淀みなくペンを進める。
『我がヘスブルク家に相伝される『純潔なる浄化結界術』は、単なる魔獣除けの壁ではございません。大地の乱れた地脈を整流し、瘴気を高純度の魔力へと昇華させ、万年氷土を融解させる古代の環境再生術式でございます。
確約いたします。
私が貴領へ赴き、術式陣を敷設した場合――着工よりわずか半年以内に、ヴァルハイト領南部の瘴気地帯を完全浄化し、帝国全土の需要を賄い得る寒冷地特化型の穀倉地帯へと転換させてみせます。食糧自給率は百五十パーセントを超え、貴軍の兵站費は年間で金貨八万枚以上圧縮されることでしょう』
具体的で、嘘偽りのない数値の提示。
大公領の領主として、軍の最高責任者として、これ以上魅力的な提案はこの世に存在しない。
そして、エレオノーラは最後に、自らが求める対価を、容赦のない明確さで書き殴った。
『――つきましては、上記役務の提供に対する対価として、以下二点を要求いたします。
第一に、帝国法第十五条に基づく、私の身柄ならびに全信託財産の完全なる武力庇護。
第二に、アルトハイム侯爵との婚姻解消後、私を貴殿の正妻として迎え入れる、戸籍上の正式なる婚姻契約の締結。
貴殿が求めておられるのは、領地を潤す卓越した頭脳と技術。
私が求めているのは、理不尽な害虫を寄せ付けぬ絶対的な盾。
私と貴殿の婚姻は、互いにとって最も合理的かつ不可侵の契約となることを保証いたします。
良き返答を期待しております。
ヘスブルク伯爵令嬢 エレオノーラ』
カリッ、と最後のピリオドを打ち終え、エレオノーラはペンを置いた。
文字に滲み一つない、冷徹で美しい手紙。
「ジゼル」
「はい、お嬢様」
背後に控えていたジゼルが、息を呑んで進み出る。
机の上の書状に目を通したジゼルの切れ長の目が、驚愕に見開かれた。
「お嬢様……! ヴァルハイト大公閣下に、婚姻を申し込まれるのですか……!? あの『黒狼』と恐れられる御方に……!」
「ええ。アルトハイム侯爵の手が届かず、皇帝陛下すら軽々しく口出しできない存在となれば、あのお方しかいらっしゃらないわ」
「しかし、危険すぎます! 大公閣下は戦場育ちの苛烈な軍人。女性を寄せ付けず、無礼な貴族をその場で斬り捨てたという噂すらございます。もしこの書状を『不遜な取引』と受け取られ、怒りを買えば……」
「怒るはずがないわ」
エレオノーラは確信に満ちた瞳で首を横に振った。
「あの方は軍人よ。誰よりも合理性を尊び、兵站の重みを知り、そして――真の価値を見抜く目を持っておられる。感情で喚き散らすどこかの無能な侯爵とは、人間の器が違うのよ」
エレオノーラは手紙を上質な革紙で包み、実家ヘスブルク家の家紋が入った青い封蝋を垂らすと、机の引き出しから小さな銀の笛を取り出した。
窓辺へ歩み寄り、静かに笛を吹く。
人間の耳には聞こえない魔導の超音波が、朝の空へと放たれた。
バササッ……!
数秒後、風を切る鋭い羽音とともに、一羽の見事な猛禽が窓枠へと舞い降りた。
銀灰色の羽毛に覆われた、鋭い嘴と黄金の瞳を持つ大鷹。ヘスブルク家が極秘裏に育成している、防壁結界すら突破可能な高速軍用伝書鷹――『銀隼』である。
エレオノーラは鷹の足の筒に、封蝋を押した手紙をしっかりと括り付けた。
そして、その滑らかな頭をそっと撫でる。
「行きなさい。北の果て、黒狼城へ」
ピィッ、と甲高い鳴き声を上げ、鷹は力強く羽ばたいた。
春の柔らかな日差しを浴びながら、銀の影が一直線に北の空へと吸い込まれていく。
エレオノーラは窓辺に佇み、消え去る鷹の影を見つめながら、静かに息を吐いた。
賽は投げられた。
あとは、あの氷の巨獣が、この誘いにどう乗ってくるか――。
***
場面は一転する。
帝都から遥か数百里、帝国の北の果て。
春の訪れなど遠い夢であるかのように、天と地を白一色に染め上げる猛吹雪が吹き荒れる、万年氷土の山脈地帯。
切り立った漆黒の断崖絶壁の上に、まるで巨竜が蹲ったかのように聳え立つ巨城が存在していた。
――ヴァルハイト大公城。別名、『黒狼城』。
城の主塔最上階にある執務室は、外の極寒を遮断する重厚な黒石の壁と、煌々と燃える巨大な暖炉の炎に包まれていた。
壁には歴戦の傷跡が刻まれた巨大な戦斧や魔導剣が掛けられ、床には巨大な白熊の毛皮。豪奢な装飾など一切排された、武骨極まりない空間。
その部屋の中央。
黒檀の執務机の前に、一人の男が座っていた。
クラウス・フォン・ヴァルハイト。
夜の闇よりも深い漆黒の髪を短く刈り込み、彫刻のように研ぎ澄まされた冷徹な美貌。
無駄な贅肉を極限まで削ぎ落とした鋼のような肉体は、軍服の上からでもその圧倒的な質量と威圧感を放っている。
そして、何よりも見る者を射竦めるのは――幾多の死線を潜り抜け、数万の敵を屠ってきた猛獣だけが宿す、冷酷にして鋭利な『黄金の瞳』。
彼が部屋に存在するだけで、周囲の空気が張り詰め、護衛の兵士たちですら呼吸を躊躇うほどの重圧が満ちていた。
バササッ……!
猛吹雪が打ち付ける強化ガラスの窓を、激しく叩く音があった。
控えていた副官のヨアヒムが即座に腰の剣に手をかけるが、クラウスは片手を上げて制した。
「待て。……魔導鷹だ」
クラウスが指を鳴らすと、窓の結界が一時的に解除され、銀灰色の鷹が滑り込んできた。
過酷な猛吹雪を突破してきた鷹は、雪を払いながら、真っ直ぐにクラウスの差し出した太い腕の上へと留まった。
「帝都方面からの極秘魔導通信ですな。……ヘスブルク家の封蝋印か」
ヨアヒムが眉をひそめる。
「ヘスブルクといえば、南部のアルトハイム侯爵家に嫁いだ令嬢の実家。なぜそのようなところから、閣下宛てに密書が?」
クラウスは無言のまま、手袋を外した素手で鷹の足から手紙を外した。
青い封蝋を親指で割り、革紙を開く。
そこに並んでいたのは――。
かつて、あの飢餓と極寒の戦場で、全滅寸前だった自分たちの元へ届いた、あの命の物資に添えられていた指示書と――寸分の狂いもない、凛として美しい直筆の文字だった。
クラウスの黄金の瞳孔が、カッと見開かれた。
数行を読み進めるごとに、男の呼吸が深くなる。
不毛の地の浄化、食糧自給率の向上、兵站費の削減。
そして――。
『私を貴殿の正妻として迎え入れる、戸籍上の正式なる婚姻契約の締結』
「閣下……? いかがなされましたか?」
普段、何千の敵に包囲されても眉一つ動かさない主君の異変に、ヨアヒムが怪訝そうに尋ねる。
だが、クラウスの耳には副官の声など届いていなかった。
手紙を持つ男の指先が、微かに震えていた。
恐怖ではない。怒りでもない。
それは、長年求め続け、二度と手に入らないと諦めかけていた至宝が、向こうから自らの懐へと飛び込んできたことに対する――狂おしいほどの歓喜と激熱。
「……アルトハイムの豚め」
クラウスの喉の奥から、地を這うような低く獰猛な声が漏れた。
「あのような至高の宝石を手元に置きながら、愛人狂いで冷遇した挙句、手放そうとしているのか」
ドサリ、と音を立てて、クラウスが椅子を蹴るように立ち上がった。
巨躯から放たれた凄まじい覇気に、執務室の窓ガラスがビシリと鳴動する。
「閣下!?」
「ヨアヒム。直ちに我が親衛黒狼竜騎兵団に緊急招集をかけろ」
クラウスは壁に掛けられた黒毛皮の重厚な軍外套を乱暴に引き抜くと、肩へと羽織った。
「皇帝陛下への領空侵犯許可の申請など後回しだ。私が直々に軍用竜を駆る」
「は、はあ!? 竜を飛ばすのですか!? 一体どちらへ――」
「決まっている」
クラウスは手紙を自らの胸元、心臓の真上にある内ポケットへと大切にしまい込むと、獰猛な肉食獣のように口元を歪めた。
その黄金の瞳の奥で、激しい熱情の炎が燃え盛っている。
「――迎えに行くのだ。我が愛しき軍師……我が唯一無二の、大公妃を」
吹き荒れる猛吹雪の咆哮を切り裂き、黒狼城の天守から、黒き巨竜の咆哮が轟き渡った。




