第6話:秘密裏の資産凍結
本館南翼に位置する絢爛豪華な大サロンからは、夜が更けてなお、耳障りな笑い声と浮かれた乾杯の音が絶え間なく漏れ聞こえていた。
「まあ、ユリウス様! このワイン、なんて芳醇で甘美な香りがいたしますの! 私、このような素晴らしいヴィンテージ、生まれて初めて口にいたしましたわ!」
「ははは、当然だよ、セレスティア。それはアルトハイム侯爵家の地下セラーで最も古く、一本で平民の家が一軒建つと言われる極上の年代物だからね。君のような美しい女性の唇を湿らせるためにこそ、今日まで眠っていたのだ」
「嬉しい……! ふふ、あの地味なエレオノーラ様ったら、あんなに重たい鍵の束をあっさり私に差し出すなんて、よほどご自分の無力さを思い知ったのでしょうね。女主人の座を奪われて、今頃悔し涙で枕を濡らしているのかしら?」
「あの女のことなど忘れるがいい。言っただろう、あれはただの帳簿係だ。明日からは君が、名実ともにこの屋敷の頂点に君臨するのだからね!」
グラスが触れ合う澄んだ高音と、下品なまでに高笑いする男女の声。
昼間、車寄せでエレオノーラから押し付けられた真鍮の鍵束は、サロンの大理石テーブルの中央に、まるで戦利品のように無造作に転がされていた。セレスティアはその重みが意味する「維持管理の責任」など一ミリも理解せず、ただ「正妻の権力を奪い取った象徴」として眺め、うっとりとワインに酔いしれている。
――だが、その狂乱のサロンから遠く離れた、本館北翼。
エレオノーラの私室は、まるで別の世界のように、冷徹な静寂と研ぎ澄まされた緊張感に支配されていた。
「……あの方たちの耳は、本当に飾りでついていらっしゃるようですわね」
部屋の扉を固く閉ざし、厚手の遮光カーテンを引き終えたジゼルが、軽蔑の滲む冷淡な声で吐き捨てた。
サロンの馬鹿騒ぎは、この北翼の奥深くまで微かに届いている。だが、エレオノーラの手は一切止まることなく、執務机の上に置かれた書類や私物を手際よく仕分けしていた。
「いいのよ、ジゼル。存分に浮かれさせておきなさい。愚か者が自らの勝利を確信して油断している時こそ、最も安全に、かつ迅速に作業を進められる絶好の機会なのだから」
エレオノーラの声には、苛立ちも焦燥もなかった。
ただ、冷たい氷水のように澄み渡った事務的な響き。
彼女は手にした黒革の帳簿に羽ペンで一本のチェック線を引くと、部屋の隅の暗がりへ向けて視線を投げた。
「クライン商会の方々。お待たせいたしましたわね」
エレオノーラが声をかけると、私室の隠し扉――かつて先々代が非常用の脱出路として設けていた壁の羽目板が音もなくスライドした。
現れたのは、足音を完全に殺した三名の屈強な男女だった。
身に纏っているのは、目立たない濃紺の作業着。しかしその身のこなしは俊敏極まりなく、視線は鋭利に研ぎ澄まされている。帝国全土の商流を牛耳る辣腕商人、マレーネ・クライン直属の「特務運搬班」の者たちだった。
「滅相もございません、エレオノーラ様」
先頭に立つ小柄な女性運搬人が、音を立てずに深々と一礼した。
「クライン会頭より厳命を受けております。『エレオノーラ様の財産は、針の一本、羊皮紙の一片たりともアルトハイムの豚どもに触れさせるな』と。護衛用の魔導馬車はすでに裏門の外、樹林の影に待機させてございます」
「頼もしいことですわ。マレーネ会頭には、後ほど十分な礼を尽くすと伝えてちょうだい」
エレオノーラは微笑み、部屋の中央に整然と並べられた四つの特大トランクを示した。
外見は頑丈な革張りの旅行鞄にしか見えないが、内側には魔力を完全に遮蔽する古代鉛のプレートが二重に張り巡らされた特注品である。
「運び出していただくのは、このトランクよ」
運搬人たちが手早くトランクの蓋を開け、最終点検に入る。
その中身を目にした瞬間、百戦錬磨の商人である運搬人たちですら、息を呑んだ。
第一のトランクに収められていたのは、淡い燐光を放つ青白い球体――ヘスブルク伯爵家にのみ継承される古代魔導核の本体と、その予備キー結晶だった。
これこそが、アルトハイム領全土を覆い、魔獣の侵入を防ぎ、土地の収穫量を三倍に引き上げている『純潔なる浄化結界』の心臓部そのもの。現在、地下霊廟で稼働している結晶は、エレオノーラが魔力を注ぎ足さなければ三十日で自動的に枯渇する設定にしてある。そして、その再起動や魔力充填を行うための「核」そのものを、今ここで物理的に回収するのだ。
第二のトランクには、分厚い羊皮紙の束。
エレオノーラが自らの頭脳と実家の資金で開発した、香料工房の精製特許証書、新農法の土壌改良魔導ライセンス、そして帝都の有力商人たちとの間で結ばれた独占販売契約書の「原本」一式。
これらはすべて、帝国特許庁において「エレオノーラ・フォン・ヘスブルク個人」の名義で登録されており、アルトハイム侯爵家の共有財産ではない。
そして第三、第四のトランクには、ヘスブルク家から持ち込まれた持参金のうち、金貨に換算して数千万ゴルトに相当する、未加工の高純度魔導ダイヤモンドや魔晶石の山。
「……これだけの至宝が、この屋敷から完全に消え去るのですね」
運搬人の頭領が、感嘆混じりの溜息を漏らした。
「これらを失ったアルトハイム領がどうなるか……想像するだけで背筋が凍りますよ」
「どうにもなりませんわ。ただ、私が嫁いでくる前の『本来の姿』――借金に塗れ、魔獣に怯えるだけの痩せた土地に戻るだけのことです」
エレオノーラは冷然と言い放った。
「あの方々は、これらすべてが『アルトハイム侯爵家の血統と威光のおかげ』で天から降ってきたものだと信じ込んでおられますもの。ならば、ご自慢の血統だけで、明日からの領地運営をなさってみせればよろしいのです」
「御意に。――者ども、積み込みを開始せよ。音を立てるな」
特務運搬人たちは手際よくトランクの鍵を施錠し、魔導による重量軽減の術式をかけると、軽々と持ち上げて隠し通路の闇の中へと消えていった。
ものの十分足らず。
エレオノーラが五年間にわたって心血を注ぎ、アルトハイム領を帝国屈指の富裕領へと押し上げた「真の心臓部」が、完全に屋敷から運び出された。
***
作業を終えたジゼルが、私室の金庫の扉を開けたまま、静かにエレオノーラの元へ歩み寄ってきた。
「お嬢様。地下の大金庫、ならびに執務室の金庫の残高確認が完了いたしました」
「ええ。どうなっていて?」
「はい。今朝、帝国中央銀行の総裁宛てに、ヴォルフラム尚書閣下の公印が打たれた公正証書の謄本を提出いたしました。それに基づき、中央銀行は直ちに『エレオノーラ名義の個人信託口座』と『侯爵家公金口座』の完全分離・凍結措置を執行しております」
ジゼルが差し出した一枚の残高照会書。
そこに記されていた数字を見て、エレオノーラは満足そうに口元を綻ばせた。
「現在、アルトハイム侯爵家の金庫、ならびにユリウス閣下個人の名義口座に残されている流動資産は……銀貨換算でわずか三千四百ゴルト(金貨約三十四枚分)。そして、その隣に積み上がっているのは――今月末に支払い期日を迎える、堤防工事費、騎士団の糧食費、使用人給与の前借り分など、総額金貨三千枚を超える請求書の束でございます」
「三千四百ゴルト……ふふ、貴族の夜会のチップ数回分しかありませんわね」
エレオノーラは冷ややかに微笑んだ。
前世では、これらの請求書はすべて、エレオノーラが個人口座から得られる工房の利益や特許使用料から、自腹で先回りして支払っていたものだ。ユリウスには「領地が潤っているから勝手に回っている」ように見えていただけにすぎない。
その蛇口を、今、完全に閉めたのだ。
「明日以降、あの泥棒猫様が女主人の鍵を使って金庫を開けた時の顔が、今から楽しみですわね」
「ええ、本当におめでたい方々ですこと」
ジゼルもまた、普段の生真面目な表情を崩し、痛快そうに目を細めた。
その時、エレオノーラの視線が、部屋の飾り棚の片隅に置かれていた、手のひらサイズの小箱に留まった。
埃を被りかけたその小箱を開けると、中に入っていたのは、真鍮の土台に濁ったガラス玉を嵌め込んだだけの、安っぽい花の形のブローチだった。
結婚一周年の記念日。
ユリウスが「妻への贈り物だ」と言って、適当に寄った露店で買い与えてきた安物。
前世のエレオノーラは、たとえ露店の安物であろうと、夫から初めて贈られた記念品だからと涙を流して喜び、宝石箱の一番上の特等席に大切に飾り、毎晩磨いていたものだ。
(……なんて、浅ましくて惨めな愛だったのかしら)
エレオノーラはブローチを指先でつまみ上げた。
かつて胸を締め付けた淡い思い出も、切ない恋心も、今はもう塵芥ほどの重みすら持たない。
心にあるのは、ただ冷徹な事実――「この金属片には、資産価値がゼロである」という客観的な査定結果のみ。
エレオノーラは躊躇うことなく歩みを進めると、赤々と薪が爆ぜている暖炉の前へと立った。
そして、手首を軽く返し――ポイと、そのブローチを炎の渦の真ん中へ投げ入れた。
パチッ、と火の粉が跳ねる。
安物の真鍮は熱に耐えかねて瞬く間に黒ずみ、模造のガラス玉はパキンと無様な音を立てて砕け散り、灰の底へと呑まれていった。
一滴の涙も、ためらいの吐息すら零れない。
その見事なまでの未練の切り捨てぶりに、背後で見守っていたジゼルが、感嘆と頼もしさを瞳に宿して深々と頭を下げた。
「お見事でございます、お嬢様」
「未練など、一秒前に燃え尽きましたわ。……ゴミは、しかるべき場所で処分しなくてはね」
エレオノーラが手を払った、その時だった。
トントン、と私室の扉が控えめにノックされた。
ジゼルが瞬時に身構え、隠し扉が完全に閉じていることを確認してから、警戒を込めた声で応じる。
「どなたですか?」
「……夜分に申し訳ありません。厨房のカテリーナです。奥様に、温かいカモミールティーと焼き菓子をお持ちいたしました」
扉の向こうから聞こえてきたのは、聞き慣れた、太く落ち着いた年配の女性の声だった。
アルトハイム邸の厨房を三十年にわたって取り仕切ってきた古参の料理長、カテリーナ・バウアーだ。
エレオノーラはジゼルに頷き、扉を開けさせた。
入ってきたのは、大柄な体躯に白いエプロンをきっちりと締めた、いかにも職人気質の初老の女性だった。盆の上には湯気を立てる銀のティーポットと、エレオノーラの好物である香ばしいオートミールクッキーが載せられている。
カテリーナは部屋に入ると、すぐに周囲の異様な殺風景さに気づいたようだった。
机の上の書類は綺麗に片付けられ、棚の私物は消え、床には旅立ちを思わせる埃一つない清潔な空間。
カテリーナは盆をテーブルに置くと、太い腕を組み、深いため息をついた。
「……やはり、お発ちになる準備をなさっておいででしたか、奥様」
「カテリーナ……」
「昼間のサロンの様子を見ていれば、馬鹿にでも分かりますよ。あの泥棒猫に女主人の鍵を渡した時の、奥様のあの澄み切った目……あれは、すべてを諦めた目じゃない。すべてを切り捨てる覚悟を決めた、戦場に立つ将軍の目でした」
カテリーナは憤懣やるかたないといった様子で、ぎゅっと分厚い拳を握りしめた。
「厨房の若い連中も、みんな怒り狂っておりますよ! あんな素性の知れぬ男爵令嬢が偉そうに使用人を呼びつけ、夜中に『最高級の仔羊の肉を焼け』だの『デザートのクリームがぬるい』だのと喚き散らして……! 先代の残した大事なワインを泥水のように呷り散らかしている閣下も閣下です! この屋敷を誰が支えてきたと思っているんだ、恩知らずどもが!」
厨房の女傑の怒りの籠もった言葉に、エレオノーラは胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
前世では、セレスティアの浪費によって使用人たちの給与が真っ先に削られ、反発したカテリーナは不当に解雇され、屋敷を追い出されたのだ。この誠実な人々を、二度とあの連中の巻き添えにしてはならない。
「ありがとう、カテリーナ。貴女の温かい料理と気遣いに、私はこの五年間、どれほど救われてきたか分かりませんわ」
エレオノーラは机の引き出しから、ずっしりと重たい革袋を取り出した。
袋の口を開けると、中にはぎっしりと詰まった本物の帝国金貨が、ランプの光を浴びて黄金の輝きを放っている。金貨にして三百枚――平民の大家族が何年も贅沢に暮らせる大金だった。
エレオノーラはその革袋を、カテリーナのごつごつとした両手の上に、しっかりと握らせた。
「奥様……!? こ、これは一体……!?」
「私の個人資産から出す、貴女への正当な退職金です。厨房の信頼できる古参の者たちにも、適正に分け与えなさい」
エレオノーラは、カテリーナの瞳を真っ直ぐに見つめ、声を低めて告げた。
「カテリーナ。近いうちに、この屋敷は音を立てて沈みます。……泥舟から逃げ出す準備をなさい」
「……沈む、のでございますか」
「ええ。私が去れば、領地の結界は消え、金庫は空になり、山積みの負債だけが残ります。あの二人には、屋敷を維持する能力も、貴女たちに払う給料も、一銭たりとも残っていません。給与の遅配が一度でも発生したら、決して情けをかけず、全員でエプロンを叩きつけて即座に辞職なさい。このお金があれば、帝都で新しい店を構えることも、田舎で静かに暮らすこともできるはずです」
カテリーナは革袋の重みと、エレオノーラの揺るぎない覚悟を前に、大粒の涙をその節くれだった頬に溢れさせた。
彼女はエプロンの端で乱暴に目元を拭うと、床に膝をつき、エレオノーラの手甲に熱い忠誠の口づけを落とした。
「……奥様。このカテリーナ、生涯、貴女様こそが我が真の主であると胸に刻んで生きてまいります。あの愚か者どもが自業自得で地獄に落ちる様を、この目でしかと見届けてやりますよ」
「頼もしいわ、カテリーナ。どうか達者でいてね」
カテリーナは涙を拭い、誇らしげに立ち上がると、深く一礼して部屋を辞していった。
これで、屋敷に残すべき忠義ある者たちへの手当てと、脱出の手引きも完了した。
***
カテリーナが去り、再び静寂が戻った部屋。
エレオノーラは部屋の中をゆっくりと見渡した。
宝石箱は空っぽ。
壁の金庫は完全に空になり、クライン商会への資産移送も完了。
広々とした執務机の上には、書類の一片すら残っておらず、磨き上げられた木目が月の光を静かに反射しているだけだった。
五年間、エレオノーラ・フォン・アルトハイムという正妻が、この部屋で血の滲むような努力を重ねていた痕跡は、何一つとして残されていない。
「ジゼル、外套を」
「はい、お嬢様」
ジゼルが差し出したのは、夜の闇に完全に溶け込む、漆黒の上質な毛皮付き外套だった。
エレオノーラは華奢な両腕を袖に通し、前をしっかりと留めると、黒革の手袋を指先に隙間なく引き締めた。
キュッ、と革の軋む心地よい音が、冷たい部屋に響く。
南翼のサロンからは、未だに呑気な笑い声と、泥棒猫の嬌声が響いている。
自分が手に入れたものが、中身をすべて抜き取られた空っぽの貝殻であることすら気づかず、浮かれ狂う哀れな道化たち。
エレオノーラは窓辺に立ち、冷たく冴え渡る夜空を見上げた。
その視線が向かう先は、帝都を遥かに越えた北の果て――万年雪と険しい岩山に閉ざされた、帝国最強の軍神が治める極寒の地。
彼女の薄い唇が、静かに、そして獰猛な野心を秘めて弧を描いた。
「さて……。不良債権の清算は終わったわ。次は、我が手腕を最も高く買い取ってくれる、新たな契約先を探さなくてはね」
冷たい夜風がカーテンを揺らし、エレオノーラの黒髪をふわりと撫で上げた。
脱出の時が、刻一刻と近づいていた。




