第5話:泥棒猫のお出まし
正午を告げる大鐘の重厚な余韻が、アルトハイム侯爵邸の広大な敷地へと染み渡るように消えていった。
抜けるような青空の下、本館正面の白亜の車寄せには、ピンと張り詰めた異様な空気が漂っていた。
車寄せの大階段の前には、アルトハイム家に仕える執事、従僕、メイド、料理人など、屋敷の主要な使用人たちが二列に整列させられている。彼らの表情は一様に硬く、困惑と不安の色を隠しきれずにいた。
先代侯爵の時代から忠義を尽くしてきた使用人たちにとって、正妻であるエレオノーラ様がいかにこの荒廃した領地を立て直し、彼らの生活を支えてくれたかは身に染みて分かっている。それだけに、当主ユリウスが夜会で見初めた素性の知れぬ男爵令嬢を本館の貴賓室に迎え入れるという暴挙に、誰もが胸の内で反発とやり切れなさを募らせていたのだ。
列の先頭、大階段の中央に佇むエレオノーラは、微動だにせず正面の並木道を見据えていた。
深い群青色のデイドレスの裾は、春のそよ風にすら揺らめかない。背筋は定規を当てたように真っ直ぐに伸び、その表情には怒りも悲しみも、焦燥の欠片すら浮かんでいなかった。ただ、春の日差しを浴びて淡く輝く白磁の肌と、澄み渡る藍色の瞳だけが、静かな湖面のように凪いでいる。
「……奥様」
エレオノーラの斜め後ろに控えていた老執事ルートヴィヒが、耐えかねたように掠れた声で囁いた。
白髪を完璧に撫で付けた老躯を震わせ、苦渋に満ちた表情で視線を落とす。
「本当に、このような出迎えをなされるのですか……? いかに当主閣下のご命令とはいえ、正妻であられる奥様が、一介の男爵令嬢のために使用人総出でお出迎えするなど、前代未聞の侮辱でございます。社交界の秩序を顧みぬ閣下の行いは、私が命を賭してでもお諌めするべきでしたのに……」
ルートヴィヒの声には、主家を守れぬ己の無力さへの悔恨が滲んでいた。
前世では、この忠臣もまたユリウスとセレスティアによって徐々に権限を奪われ、最後は体調を崩して失意のまま屋敷を去っていったのだ。
エレオノーラは顔を向けず、唇の端に微かな、しかし温もりのある弧を結んだ。
「いいえ、これで良いのです、ルートヴィヒ。我が家の礼法に則り、最上級の敬意を持ってお迎えしなければなりませんわ。今日からこの屋敷に君臨なさる、尊い『大切なお客様』なのですから」
「奥様……」
「貴方が心を痛める必要はありません。ただ、命じられた通りに背筋を伸ばし、事の成り行きをその目に焼き付けておきなさい。……後悔なさるのは、私ではなく、あちらの方々なのですから」
エレオノーラの静かな、だが底知れぬ確信に満ちた言葉に、ルートヴィヒは息を呑んだ。
これまで見たことのない、冷徹にして峻厳な主人の横顔。老執事はそれ以上言葉を挟めず、ただ深く頭を垂れるしかなかった。
その時。
砂利を踏みしめる甲高い蹄の音と、車輪の軋む音が、並木道の向こうから近づいてきた。
「お見えになりました!」
見張りの従僕が声を張り上げる。
現れたのは、アルトハイム侯爵家の家紋が刻まれた二頭立ての豪奢な馬車だった。しかし、本来の格調高い黒塗りの車体には、悪趣味なほど過剰な生花のリースや桃色のリボンが飾り付けられており、まるで街の移動劇団の馬車のような軽薄さを醸し出している。
馬車が車寄せの前に滑り込み、ピタリと止まった。
御者が飛び降りて恭しく扉を開けると、まず降りてきたのは、誇らしげに胸を反らせたユリウスだった。
彼は集まった使用人たちの列を一瞥し、妻が整然と出迎えの陣を敷いているのを見て、満足そうに鼻孔を膨らませた。己の威光が完全に妻を屈服させたと、微塵も疑っていない顔だ。
「さあ、おいで、セレスティア。ここが今日から君の新しい家だ」
ユリウスが甘く蕩けたような声を出し、車内へ向けて恭しく右手を差し伸べる。
その手に重ねられたのは、細く、白粉で入念に白く塗り固められた華奢な指先だった。
馬車からゆっくりと降り立ってきたのは、貧乏男爵令嬢セレスティア・ランベルトその人であった。
ふわふわと波打つミルクティー色の髪をハーフアップにし、小柄で折れそうな肢体を包んでいるのは、目がチカチカするほど鮮やかなサーモンピンクのドレスだった。胸元からスカートの裾に至るまで、幾重にも重ねられた過剰なフリルと安っぽい模造レース、そして造花の薔薇が散りばめられている。
昼の外出着としてのTPOなど完全に無視した、夜会の舞台衣装のような成金趣味。だが、守ってやりたくなるような大きな垂れ目と、今にも泣き出しそうな薄い桜色の唇が、男の庇護欲を猛烈に刺激する造形をしていた。
セレスティアは馬車を降りるなり、まるで周囲の視線に怯える小鹿のように、きゅっとユリウスの二の腕にしがみついた。
「まあ……! なんて立派なお屋敷なのでしょう、ユリウス様……! 私、このような素晴らしい場所に足を踏み入れるなんて、夢を見ているようですわ……」
「ははは、遠慮することはないよ、セレスティア。これからは君もこの屋敷の主同然なのだからね。さあ、紹介しよう。我が妻のエレオノーラだ」
ユリウスに促され、セレスティアは視線を大階段の上へと向けた。
そこに立つエレオノーラと視線が交錯する。
その瞬間、セレスティアの瞳の奥に、獲物を奪い取った女特有のどす黒い優越感と嘲笑の光が、チロリと走ったのをエレオノーラは見逃さなかった。
(……ええ、知っているわ。その目よ)
前世の記憶が蘇る。
あの時もそうだった。人前ではか弱く震える被害者を演じながら、二人きりになった瞬間、あるいは視線の死角で、セレスティアは常にエレオノーラを値踏みし、冷酷に嘲笑っていたのだ。
『奥様は本当に地味でいらっしゃいますね』
『そんなに眉間に皺を寄せて帳簿ばかり見ていては、ユリウス様に愛想を尽かされるのも無理はありませんわ』
そう囁いてエレオノーラを精神的に追い詰め、取り乱した姿をユリウスに見せつけて「嫉妬深い悪妻」へと仕立て上げていったのだ。
セレスティアはわざとらしくドレスの裾を踏みそうになりながら、おぼつかない足取りで大階段を数歩登り、エレオノーラの目の前まで来ると――ハラリと涙を零しながら、その場に深々と膝をついた。
「奥様……! お初にお目にかかります、セレスティア・ランベルトと申します……!」
震える両手を胸の前で握りしめ、上目遣いでエレオノーラを見上げる。完璧な悲劇のヒロインのポーズ。
「私のような卑しい男爵家の娘が、このような立派なお屋敷に滞在することをお許しくださり、何とお礼を申し上げてよいか分かりません……! ですが、誓って申し上げます! 私、決して奥様のお立場を脅かすつもりなど毛頭ございませんの! ユリウス様におすがりしなければ生きていけない哀れな身の上ゆえ、どうか……どうかお慈悲をいただき、屋敷の片隅に置かせていただけないでしょうか……!」
ポロポロと頬を伝う真珠のような涙。
一見すれば、正妻の威圧に怯え、慈悲を乞う可憐な乙女。
だが、その言葉の端々には、『私はユリウス様にここまで深く愛され、求められてここに来た』という強烈なマウントと毒が仕込まれていた。正妻に向かって「お立場を脅かすつもりはない」と口にすること自体が、すでに相手の立場が脅かされていると認めているに等しい無礼極まる挑発なのだ。
背後で見ていたユリウスが、待ってましたとばかりに駆け寄ってくる。
「おい、セレスティアを怯えさせるな、エレオノーラ! 見ろ、こんなに震えているではないか! お前が無愛想な能面のような顔で立っているから、セレスティアが萎縮してしまっている! もっと優しく迎え入れられないのか!」
まだエレオノーラは一言も発していないというのに、早くも悪者扱いで怒鳴りつけるユリウス。
前世のエレオノーラなら、この理不尽な茶番劇に血の涙を流し、激昂してセレスティアをなじっただろう。そして「なんて心の狭い嫉妬狂いだ!」とユリウスから罵倒され、使用人たちの前で屈辱を味わわされたのだ。
だが。
現在のエレオノーラの心には、さざ波一つ立っていなかった。
(ふふ……相変わらず、安っぽいお芝居ですこと)
可哀想な自分を演じて男の正義感を刺激し、本妻を攻撃させる。寄生虫が宿主を操るための、使い古された手口。
ならば、その手口ごと、丸呑みにして差し上げよう。
「――まあ」
エレオノーラはふわりと両手を広げ、慈愛に満ちた聖母のような微笑みを浮かべた。
そして、自ら歩み寄ると、膝をついていたセレスティアの華奢な肩に、優しく両手を添えて立ち上がらせたのだ。
「何を仰いますの、セレスティア様。床に膝などおつきになっては、その見事な桃色のドレスが汚れてしまいますわ」
「え……?」
セレスティアが呆気に取られたように目を丸くした。
冷たい拒絶か、激しい怒りを予想していたのだろう。あまりにも温かく、非の打ち所がない歓迎の態度に、用意していた次の台詞が喉に引っかかったようだ。
「身寄りのない身の上で、さぞ心細い思いをなさってきたのでしょう。閣下から貴女の可憐さと美徳について伺い、私、胸を打たれましたの。私のような至らぬ仕事女にはない、男方のお心を慰める素晴らしい天賦の才をお持ちなのだと」
「お、奥様……? それは……」
「ええ、謝罪など微塵も必要ありませんわ。私のお立場を脅かすなどと、ご謙遜なさらないで。――むしろ、これからは貴女こそが、このアルトハイム侯爵邸を背負って立たれるべきですもの」
エレオノーラは後ろを振り返り、厳かに通告した。
「ルートヴィヒ」
「……はっ」
呼ばれた老執事が、恭しく前に進み出た。
その両手の上には、紫色のビロードのクッションが捧げ持たれていた。
そして、そのクッションの上に鎮座していたのは――。
ジャラリ。
重厚な金属音が響く。
大人の腕の太さほどもある、巨大な真鍮の環。そこにジャラジャラと何十本、何百本と束ねられた、夥しい数の鍵の束だった。
本館の全客室、地下食糧庫、ワインセラー、銀食器室、リネン室、馬厩舎、そして領地全域の出納帳を保管する大金庫の鍵――代々、アルトハイム侯爵家の「女主人」のみが帯同を許され、屋敷の全管理権と全責任を象徴する、呪いのように重い鍵束である。
ユリウスが目を見張り、声を上擦らせた。
「な……おい、エレオノーラ! それは女主人の鍵束ではないか! 何をする気だ!」
「何を、とは心外ですわ、閣下」
エレオノーラはクッションの上から、自らの両手でずっしりと重い真鍮の鍵束を持ち上げた。
そして、目を白黒させているセレスティアの目前へと、その鍵束を差し出したのだ。
「今朝、閣下自らがサインなさった公正証書をもうお忘れですか? 『正妻エレオノーラは、セレスティア嬢の本館滞在を認め、家内秩序の管理権を委譲する』。――そう取り決めましたはずです」
「な……っ!?」
ユリウスが息を詰まらせた。
契約書の中身を一行も読まずにサインした彼には、反論のしようがない。
エレオノーラはセレスティアの白く頼りない両手を強引に取り、その細い掌の上へ――ドサリと、容赦のない重量の鍵束を落とし込んだ。
「ひゃっ……!?」
冷たい金属の塊が、ずしりと両腕にのしかかる。
純真鍮製の巨大な鍵束は、優に五キログラムを超える重さがあった。日頃、扇子より重いものを持ったことのないセレスティアの華奢な手首が悲鳴を上げ、思わずよろめいて膝が折れそうになる。
「お、重い……! あ、あの、奥様、これは……!?」
鍵束の重みに顔を引きつらせ、すがりつくようにエレオノーラを見上げるセレスティア。
その姿を見下ろすエレオノーラの瞳には、一片の慈悲も存在しなかった。
彼女の唇が、ゆっくりと、極上の笑みとともに開かれる。
「どうぞ。この屋敷の『すべて』を、貴女にお譲りいたしますわ」
「え……?」
「本館百二十室の維持管理、五十名を超える使用人たちの労務と給与の査定、近隣諸侯への贈答品の手配、そして毎日の食卓の差配……。これらすべてを差配することこそが、閣下に愛される真の女主人の役目でございます。私のような味気ない仕事女が持っているよりも、閣下に深く愛されている貴女が握るべきですものね」
エレオノーラは一歩後退り、両手を前で揃えて、完璧なカーテシーを披露した。
「さあ、泥棒猫……あら失礼、可憐なるセレスティア様。――念願叶って手に入れた侯爵家の栄華ですわ。どうぞ、存分に女主人の責務を果たしてくださいませ」
静まり返る車寄せ。
両手に抱え込まされた重たい鍵束の冷たさに、セレスティアの顔から急速に血の気が引いていく。
何か得体の知れない巨大な罠の底へ、自ら飛び込んでしまったのではないかという本能的な悪寒。
だが、隣に立つユリウスだけは、妻の言葉の裏にある地獄に気づきもせず、得意満面に胸を張っていた。
「ははは! 見直したぞ、エレオノーラ! セレスティア、良かったな! 今日から君がこの屋敷の真の女主人だ!」
無能な夫の高らかな笑い声が、春の空へと虚しく響き渡る。
手渡された鍵が、やがて自らの手首をへし折り、息の根を止める鉄の枷になるとも知らずに――。
エレオノーラは伏せた睫毛の奥で、冷酷な笑みを深めていた。




