第4話:愚か者の署名捺印
東向きの大きなアーチ窓から、春の柔らかな朝陽が惜しみなく差し込んでいた。
アルトハイム侯爵邸の私的な朝食の間。磨き上げられた白大理石の床には陽光が反射し、銀製のカトラリーやマイセン調の磁器が眩いばかりの輝きを放っている。
エレオノーラは背筋を寸分の狂いもなく伸ばし、純白のテーブルクロスの前に座っていた。
身に纏うのは、落ち着いたネイビーブルーのデイドレス。襟元までしっかりと留められた真珠のボタン、乱れ一つなく結い上げられた豊かな髪。一睡もせず、深夜に帝国法務尚書と対峙して契約書を仕上げたとは思えないほど、その佇まいは完璧であり、肌には疲労の欠片すら浮かんでいなかった。
カチャリ、と繊細な音を立てて、エレオノーラはダージリンの満ちたティーカップをソーサーへと戻す。
ふわりと立ち上る芳醇な湯気の向こうから、重厚な扉が開く音が響いた。
「ふあ……ああ、清々しい朝だな!」
大きなあくびとともに、いかにも上機嫌といった足取りで入ってきたのは、当主ユリウスだった。
昨夜の深紅のガウンから一転、仕立ての良いアイボリーのフロックコートに身を包んでいる。胸元にはセレスティアの瞳の色に合わせたのであろう、悪趣味なほど鮮やかなピンクのクラバット。鏡の前で入念にセットしたことが一目でわかる金髪をかき上げながら、ユリウスはエレオノーラの向かい側の席へと滑り込んだ。
「おい、従僕。早く珈琲を淹れろ。今朝は格別に気分が良い。……なにせ、我がアルトハイム侯爵邸に、真に愛らしく可憐な薔薇を迎え入れる記念すべき日だからな」
給仕が注ぐ珈琲の香りを吸い込みながら、ユリウスはテーブル越しにエレオノーラを見下ろすように視線を投げた。
その青い瞳には、昨夜の妻の冷淡な服従を「己の男としての力に屈服した証拠」と解釈した、安っぽい優越感が満ち満ちている。
「昨夜はどうなることかと思ったが、お前もようやく己の器量を悟ったようだな、エレオノーラ。女は素直が一番だ。身の程を弁え、私に従っていれば、侯爵夫人の名分だけは守ってやる。セレスティアも心が広いからな、お前が裏方として真面目に働く限り、邪険にはしないはずだ」
トーストにたっぷりと蜂蜜を塗りながら、ペラペラと語られる無神経極まりない言葉。
前世のエレオノーラなら、喉に小骨が刺さったような苦痛を覚え、目の前の食事に一切手をつけられなくなっていただろう。夫が別の女を迎え入れる日の朝に、その女の美徳を聞かされる正妻の屈辱。
だが、今の彼女にとって、ユリウスの言葉はただの「無意味な背景音」にすぎなかった。
エレオノーラは優雅にナプキンで口元を拭うと、静かな所作で視線を上げた。
「ええ、昨夜のお話の件でございます、閣下」
「ん? ああ、改装費の決裁か? 早くサインして工事業者を入れさせろよ。セレスティアは埃っぽい部屋など一日たりとも耐えられないのだからな」
「もちろん、手配はすべて滞りなく進めておりますわ。――ですがその前に、昨夜申し上げました通り、セレスティア様を正式にお迎えするにあたり、作成いたしました書類をご確認いただきたく存じます」
エレオノーラが背後に控えるジゼルに微かに目配せをすると、ジゼルは恭しく一礼し、黒い革張りの見開きフォルダーをユリウスの前へと差し出した。
トン、とテーブルの上に置かれたのは、親指の第一関節ほどの厚みがある、見事な装丁の羊皮紙の束だった。
表紙には、金箔押しの豪奢な飾り文字で、麗々しくこう刻まれている。
『愛妾受け入れに関する正妻合意条項、ならびに家門内秩序保全規約』
ユリウスは珈琲カップを持ったまま、露骨に眉をひそめた。
「……なんだ、この分厚い紙の束は。文字を見るだけで頭痛がしてくる。お前は本当に、何をするにも書類、書類だな。堅苦しい女だ」
「申し訳ございません、閣下。ですが、これは他ならぬ閣下と、セレスティア様の名誉を守るための防壁なのです」
エレオノーラは伏し目がちに、しかし声音にはこの上なく真摯で謙虚な響きを滲ませてみせた。
「アルトハイム家は帝国屈指の格式ある侯爵家。そこに身寄りのない男爵令嬢を同居させるとなれば、社交界の口さがない貴族たちから『不義の密通』『正妻を不当に貶める暴挙』と、あることないこと囁かれかねません。特に、私の実家であるヘスブルク家が異議を申し立てれば、帝国貴族院での審問にまで発展する恐れがございます」
「ぐっ……そ、それは……」
貴族院での審問、という単語に、ユリウスが分かりやすく狼狽した。
彼のようなナルシストにとって、社交界での面目を失うことや、公的な場で糾弾されることは死ぬよりも恐ろしい事態だ。
「ですが、この合意書があれば全て解決いたします」
エレオノーラは滑らかに言葉を重ねる。
「表紙を開いて第一条をご覧くださいませ。『正妻エレオノーラは、セレスティア嬢の本館滞在および閣下との懇意なる交際を全面的に承認し、これに対する一切の異議・提訴・不服申し立ての権利を永久に放棄する』。――そう明記してございます」
「ほう……!」
ユリウスが身を乗り出し、フォルダーの表紙をめくった。
確かにそこには、格調高い美しい筆跡で、ユリウスにとって都合の良い文言がこれでもかと並べられていた。
正妻が自ら愛人の存在を公認し、自らの権利を放棄すると宣言しているのだ。
「これさえあれば、実家のヘスブルク伯爵家も口出しはできません。社交界に対しても『妻公認の清らかな保護関係である』と胸を張って宣言していただけます。すべては、閣下とセレスティア様が誰からも後ろ指を刺されることなく、堂々と幸福を享受していただくためでございます」
「おお……! そうか、そういうことか!」
ユリウスの顔に、見る見るうちに下卑た笑みが広がっていった。
胸を撫で下ろし、我が意を得たりとばかりに顎を撫でる。
「なるほど、お前にしては上出来の気遣いではないか! 素晴らしいぞエレオノーラ! やはりお前は裏方の事務作業だけはやらせておけば役に立つな!」
ユリウスはパラパラと、適当にページをめくった。
一枚、二枚。
二ページ目までは、正妻としての寛大な配慮や、セレスティアに支給される手当の項目など、表向きの耳障りの良い条文が大きな文字で並んでいる。
しかし。
彼がそこで読むのをやめることを、エレオノーラは完全に確信していた。
ユリウス・フォン・アルトハイムという男は、幼少期から家庭教師の授業をサボり、数字や法律といった論理的思考を「事務屋のやること」と見下して育った典型的な無能貴族だ。長文の契約書を三ページ以上読み進める集中力など、最初から持ち合わせていない。
案の定、三ページ目以降――極小の法務専門用語でびっしりと敷き詰められた後半部分に目を落とすと、ユリウスは露骨に退屈そうな顔をしてページをめくる手を止めた。
(……ええ、読まなくて結構ですわ)
エレオノーラは胸の奥で、氷のように冷たい嗤いを漏らした。
その三ページ目以降にこそ、昨夜ヴォルフラム・ライヒとともに仕掛けた、この世で最も冷酷な処刑台の図面が刻まれているのだから。
第八条:妻エレオノーラが実家より持ち込みたる持参金三億ゴルト、ならびに過去三年間にわたる領地開発への個人投資分は、すべて『独立信託財産』として侯爵家の家門財産より完全分離・凍結する。
第十条:領地全域を保護する『純潔なる浄化結界』は、エレオノーラ個人に帰属する魔導技術であり、無償の義務ではなく『有償信託役務』とする。
第十二条:婚姻関係の破綻時における、全個人資産の即時無条件返還義務。
第十五条:上記に伴い発生する領地運営および事業上の全負債は、現当主ユリウス・フォン・アルトハイムが単独で連帯保証の責を負うものとする――。
「ふむ……後半は色々と細々とした数字や事務手続きの取り決めが書いてあるようだが、要するにセレスティアを愛妾として認め、お前が余計な口出しをしないという契約だな?」
「ええ、大枠はその通りでございます」
嘘は言っていない。
ただ、その「大枠」を維持するために、彼が支払わねばならない代償の詳細を、彼自身が読もうとしないだけだ。
「ふん、女の細かいプライドと嫌がらせが混ざっているようだが、まあいいだろう。お前としても、私に捨てられないための必死の自己防衛というわけだな。可哀想に、そこまでしてこの屋敷にしがみつきたいのか」
ユリウスは哀れむような、侮蔑に満ちた目をエレオノーラに向けた。
自分が圧倒的な強者であり、エレオノーラが縋り付いてきているのだと、どこまでも都合よく脳内変換している。
「おい、ペンを持ってこい」
「かしこまりました、閣下」
ジゼルが恭しく、金無垢の羽ペンと、インク壺を差し出した。
エレオノーラは静かにフォルダーの最終ページを開く。
そこには、昨夜ヴォルフラムが押した、深紅の帝国法務尚書公印が鮮やかに鎮座していた。
ユリウスはふと、その公印に目を留めた。
「ん? なんだこの赤い印は。随分と仰々しいな」
「公正証書としての公的効力を持たせるため、事前に法務省の夜間窓口にて、定型の書式認証印を打たせておきましたの。これがあることで、実家ヘスブルク家への完全な牽制となります」
「なるほど! 法務省のお墨付きか! ますます結構だな!」
事前の書式認証などという生易しいものではなく、最高法務官が直接執行力を認めた『国家承認の絶対契約』であることすら、この男は理解していない。
ユリウスは壁の時計をチラリと見た。
午前八時四十分。
「そろそろセレスティアを迎えに行く馬車の準備ができる時間だ。こんな紙切れに付き合っている暇はないからな」
彼は羽ペンの先をインクに浸すと、契約書の末尾、当主署名欄へと迷いなくペン先を走らせた。
サリ、サリ、サリ……。
静かな朝食の間に、金属のペン先が上質な羊皮紙を削る音だけが心地よく響き渡る。
ユリウス・フォン・アルトハイム。
流麗な飾り文字で、彼自身の直筆の署名が記されていく。
自ら首に縄をかけ、その結び目をきつく締め上げているとも知らずに。
「よし、これでいいな!」
署名を終えたユリウスは、満足げにペンを置くと、右手の小指にはめていたアルトハイム侯爵家の家紋が刻まれた重厚なシグネットリングを外した。
給仕が差し出した赤い封蝋の上に、リングを力強く押し当てる。
ジュッ、と微かな煙が立ち上り、羊皮紙の上にアルトハイム家の鷲の紋章が刻印された。
その瞬間――。
フォルダー全体が、肉眼では捉えられないほどの極微小な魔導の光を放った。
帝国法務尚書の公印と、侯爵家の当主印、そして直筆の署名が共鳴し、契約が成立したことを告げる魔導認証の火花。
不可逆の法的手続きが、完全に完了した瞬間だった。
「……確かに、受領いたしました」
エレオノーラは両手で恭しくフォルダーを閉じ、自らの胸元へと引き寄せた。
その動きの滑らかさは、まるで長年待ち望んでいた至宝を回収するかのような、静謐な歓喜に満ちていた。
「ふん、これで文句はあるまい。約束通り、セレスティアの部屋の改装と、屋敷の全権引き継ぎの準備を進めておけ。いいな?」
ユリウスは椅子から立ち上がり、フロックコートの裾を払った。
もはや目の前の妻には一ミリの関心も残っていない。彼の頭の中は、これから迎えに行く可憐な愛人の笑顔と、彼女から向けられるであろう賛辞でいっぱいだった。
「では、私はセレスティアを迎えに行ってくる。昼前には屋敷に着く。……お前も、出迎えの準備を怠るなよ。セレスティアに不快な思いをさせたら、承知せんからな」
言い捨てると、ユリウスは長い脚を大股に動かし、一度も振り返ることなく朝食の間を出て行った。
バタン、と景気の良い音を立てて扉が閉まる。
再び訪れた、完全な静寂。
窓の外では、春の風に揺れる庭園の木々が、サワサワと葉を鳴らしていた。
エレオノーラは席を立ち上がった。
手にしたフォルダーを開き、そこに刻まれたユリウスの署名と家紋の刻印を、じっと見つめる。
「ジゼル」
「ここに」
背後に控えていたジゼルが、息を呑みながら進み出てきた。
その顔には、主人が成し遂げた完璧な罠に対する、畏怖と熱狂の色が隠しきれずに浮かんでいる。
「直ちにこの原本の謄本を作成し、帝都の法務省大金庫へ搬送させなさい。ヴォルフラム卿へ伝言を。『鳥は自ら鳥籠の鍵を飲み込みました』と」
「かしこまりました、お嬢様。……直ちに手配いたします」
ジゼルがフォルダーを丁重に受け取り、胸に抱えて一礼する。
「お嬢様……本当に、これで後戻りはできなくなりましたね」
「後戻り?」
エレオノーラは窓辺へと歩み寄り、庭園の車寄せを見下ろした。
そこでは、華やかに飾り立てられた侯爵家の馬車に乗り込み、上機嫌で御者に鞭を当てさせているユリウスの姿があった。
春の陽光を浴びて走り去っていく馬車。
その行き先が、底なしの破滅の断崖絶壁であるとも知らずに。
エレオノーラは窓ガラスに右手を添えた。
その唇が、ゆっくりと、この上なく冷酷に、美しく吊り上がる。
「ええ、戻る必要などどこにもないわ。進むべき道は、最初から決まっているもの」
風に揺れるレースのカーテンの隙間から差し込む光が、エレオノーラの藍色の瞳を鋭く照らし出した。
「――契約成立ですわ、ユリウス様。……どうぞ、泥棒猫様と、地獄の果てまでお幸せに」




