第3話:仕組まれた公正証書
深夜二時。
アルトハイム侯爵邸本館は、深い静寂の底に沈んでいた。
豪奢なガウンを揺らして去っていったユリウスは、今頃、愛人の甘い幻影でも見ながら泥のように眠りこけていることだろう。あの男にとって、自らの傲慢な要求を突きつけ、妻が頭を下げたという事実は、極上の美酒にも勝る睡眠薬となったに違いない。
だが、エレオノーラがいる本館北翼の執務室だけは、煌々と灯る魔導ランプの光が闇を切り裂いていた。
「ジゼル」
「はっ」
部屋の隅に控えていたジゼルが、気配を殺した足取りで静かに机の前へと進み出る。
夜会服を着飾ることもなく、装飾を削ぎ落とした灰色の侍女服。手入れの行き届いた黒髪を後ろで一つに束ねたその横顔は、刃物のように研ぎ澄まされていた。
エレオノーラは、ペンを持つ手を止め、目の前に立つ忠実な侍女の姿をじっと見つめた。
――胸の奥が、ぎゅっと締め付けられる。
前世の凄惨な記憶が、網膜の裏に鮮烈に蘇っていた。
セレスティアが屋敷の全権を握り、エレオノーラが離宮へと軟禁された時。
他の使用人たちが手のひらを返して愛人に擦り寄り、あるいは職を辞して去っていく中で、ジゼルだけは最後までエレオノーラの傍を離れなかった。
泥水を啜るような生活の中でも、主人の尊厳を守るために頭を下げ続け、最後はエレオノーラを屋敷から逃がそうとして――ユリウスの放った私兵に捕らえられたのだ。
『お嬢様には、指一本触れさせません!』
そう叫んで立ちはだかったジゼルは、あらぬ横領の罪を着せられ、帝都の地下牢へと投獄された。冷たい石畳の上で、満足な治療も食事も与えられず、非業の死を遂げたのだと、後に嘲笑うセレスティアの口から聞かされた。
(もう二度と、貴女をあんな目に遭わせはしない)
エレオノーラは喉元まで出かかった感傷を、強い理性でぐっと飲み下した。
今、必要なのは涙ではない。二度と理不尽に踏み躙られないための、冷徹で完璧な『力』だ。
「ジゼル。これより貴女に、我が命運を賭けた極秘の任務を託します」
「何なりとお命じください、お嬢様。……たとえこの命を捨てることになろうとも、成し遂げてみせます」
「いいえ、命を捨てては駄目よ。貴女には、私がこれから勝ち取る輝かしい未来の隣で、永遠に笑っていてくださらなくては困るわ」
エレオノーラの凛とした声に、ジゼルは目を見張り、次いで深く頭を垂れた。
「帝都中央区、官庁街の帝国法務省へ向かいなさい。深夜の当直室に、この封書を届けるのです」
エレオノーラは机の上に置かれていた、ヘスブルク伯爵家の家紋が蝋で刻印された親書を差し出した。
「宛名は、帝国法務尚書兼最高法務官――ヴォルフラム・ライヒ卿」
「法務尚書閣下に……? しかしお嬢様、ライヒ閣下といえば、貴族特権を最も毛嫌いし、皇族の不当な圧力にすら屈しない『歩く法典』と恐れられる御方です。このような夜更けに、侯爵家の私的な揉め事で呼び出せば、門前払いを食らうのでは……」
ジゼルの懸念はもっともだった。
ヴォルフラム・ライヒ。平民出身でありながら、卓越した法理論と冷徹な実務能力のみで帝国司法の頂点へと上り詰めた傑物だ。情に流されず、袖の下も一切受け取らない。貴族同士の泥沼の痴情沙汰など、彼が最も軽蔑する俗事の極みである。
「ええ。単なる泣き言や、愛人の追い出し相談なら、唾を吐きかけられて終わりでしょうね」
エレオノーラは、氷のように冷ややかに微笑んだ。
「けれど、この書状に記されているのは、帝国夫婦財産管理法第42条の解釈の限界を突いた、前代未聞の『大型信託債務分離契約』の骨子よ。あのお方は、法秩序を冒涜する者を憎むと同時に、既存の悪法を逆手に取った完璧な論理の構築物を、狂おしいほど愛する学究肌の狂人でもあるわ。……これを見れば、彼は寝台から飛び起き、歓喜して馬車へ乗り込むはずよ」
エレオノーラは執務机の奥から、自らが署名した通行手形と、金貨が詰まった革袋をジゼルに渡した。
「本館の裏木戸から出なさい。御者は使わず、貴女自身が手綱を取り、裏通りを抜けていくのよ。一時間で戻ってこられるかしら?」
「四十分で連れてまいります」
ジゼルは迷いのない瞳で一礼すると、影のように音もなく部屋を出て行った。
***
一人残された執務室で、エレオノーラは作業を再開した。
休んでいる暇など一分たりともない。
明日の朝食の席で、ユリウスにサインさせるための『契約書本体』を、一言一句の隙もなく組み上げなければならないのだ。
カリカリ、と静まり返った部屋に万年筆の音だけが響く。
エレオノーラが走らせているペン先は、まるで熟練の職人が精巧な時計の歯車を噛み合わせていくかのように、冷徹な法文を羊皮紙の上に紡ぎ出していた。
第一条:正妻エレオノーラ・フォン・アルトハイムは、侯爵ユリウスの私的生活における交友関係、ならびに男爵令嬢セレスティア・ランベルトの本館滞在に対し、一切の異議申し立ておよび干渉を行わない。
――これは、ユリウスを安心させるための『極上の毒餌』だ。これを目にした瞬間、愚かな夫は「妻が完全に屈服した」と信じ込み、その後に続く条文への警戒を解く。
第八条:前条の代償措置として、エレオノーラが実家ヘスブルク伯爵家より持ち込みたる持参金三億ゴルト、ならびに過去三年間にわたり領地基盤整備、香料工房、新農法導入に充当された個人投資総額は、すべて『独立信託財産』として侯爵家の家門財産より即時分離されるものとする。
第十二条:婚姻関係の破綻、ならびに正妻の身分に関する重大な瑕疵が発生した場合、侯爵家は妻個人の信託財産、および一族相伝の魔導技術(純潔なる浄化結界術)に係る一切の権利を、何らの異議なく無条件で即時返還しなければならない。また、当該契約に伴い生じた領地運営の債務は、すべて現領主ユリウス・フォン・アルトハイムの一身に帰属し、単独で連帯保証の責を負うものとする。
「……ふふ」
書き連ねた条文を見つめ、エレオノーラの喉から小さな嗤いが漏れた。
完璧だ。
感情的な恨み言など一行も書かれていない。すべては「夫の自由な私生活を認める代わりに、妻の個人的な権利を法的に整理する」という、極めて近代的で公正な契約の体裁を取っている。
だがその実態は――エレオノーラがこの屋敷から一歩でも足を踏み出した瞬間、アルトハイム侯爵家の財政の息の根を物理的にへし折る、逃げ場のない鉄の処刑台だった。
引き出しから取り出した『音響記憶石』を机の上に置く。
先ほど録音したユリウスの傲慢な声――『お前は実務だけをやっていればいい』『我が侯爵家の金だ』という暴言を、羊皮紙の余白に埋め込まれた記録用魔導インクへ同期させ、法的な付帯証拠として封印を施す。
コツ、コツ、コツ。
廊下の絨毯を踏みしめる、硬質な足音が聞こえてきた。
約束の四十分。一分の狂いもない。
執務室の扉が控えめにノックされ、ジゼルが姿を現した。その背後には、夜の帳をそのまま纏ったかのような、漆黒の外套に身を包んだ長身の男が立っていた。
「お連れいたしました、お嬢様」
「ご苦労様、ジゼル」
男が外套のフードを払う。
現れたのは、銀縁の眼鏡の奥に剃刀のように鋭利な灰色の瞳を光らせた、三十代半ばの男――帝国法務尚書、ヴォルフラム・ライヒその人だった。
冷気を纏った彼の表情は、深夜に呼び出された不快感など微塵も感じさせず、むしろ獲物を見定めた捕食者のような冷たい緊張感を湛えている。
「夜分恐れ入ります、ライヒ尚書閣下。不躾な呼び出しをお許しください」
エレオノーラが立ち上がり、礼を執る。
ヴォルフラムは眼鏡のブリッジを人差し指で押し上げ、感情の読めない声で応じた。
「挨拶は不要です、アルトハイム侯爵夫人。……貴女の侍女から受け取った親書、拝見いたしました。帝国夫婦財産管理法第42条を盾に、夫の不義を逆手に取って全領地資産を信託分離する法スキーム。……あれを本当に、貴女お一人でお書きになったのですか?」
「ええ。私の血と涙で築き上げた財産を、泥棒猫と無能な夫から守るための自衛策ですわ」
エレオノーラは淀みなく答え、机の上に整然と並べられた書類の束を手で示した。
「こちらが、本契約の公正証書原案です。すでに対象となる資産の目録、過去三年の領地決算書の写し、ならびに当事者たる侯爵の言質を記録した魔導音声記録を添付してございます。閣下の目で、法の瑕疵がないかご確認いただきたく存じます」
ヴォルフラムは無言で歩み寄り、手袋を外すと、白く細い指先で羊皮紙を取り上げた。
部屋の中に、紙をめくる微かな音だけが響く。
一分、五分、十分。
ヴォルフラムは微動だにせず、極小の文字で埋め尽くされた条文を精読していく。
最初は冷徹だったその灰色の瞳が、読み進めるにつれて微かに見開かれ、やがて異様な光を帯び始めた。
「……信じ難いな」
ヴォルフラムの口から、掠れたような呟きが漏れた。
「表面上は、夫の愛妾囲いを全面的に容認し、正妻が身を引くかのような寛大な合意書に見せかけている。だが、第八条と第十二条の連動……これは悪魔の所業だ。貴女が婚姻を解消した瞬間、アルトハイム領の全流動資産が妻の個人口座へ強制回収され、領地経営のすべての負債が侯爵個人の一身に降りかかる構造になっている」
ヴォルフラムは顔を上げ、眼鏡の奥から射抜くような視線をエレオノーラへ向けた。
「さらに恐ろしいのは、結界魔導の所有権に関する条項だ。貴女の実家の秘術を『無償の奉仕』から『有償の信託役務』へと定義を書き換えている。もし貴女がこの領地を去れば、領内の防衛結界は法的に即時停止。これを代替手段で維持しようとすれば、国家予算に匹敵する魔晶石費用が発生し、アルトハイム家は三ヶ月と持たずに確定破産する」
ヴォルフラムは書類を机に置き、薄い唇を歪めた。
それは、法を何よりも愛する男が、至高の芸術品を前にした時にしか見せない、陶酔に似た笑みだった。
「……侯爵夫人。率直に申し上げましょう。これは合意書などという生易しいものではない。貴方様がこの屋敷を去られた瞬間、侯爵閣下の首が物理的に締まる、完璧な処刑台の罠ですが?」
部屋の空気が張り詰める。
ジゼルが息を呑む中、エレオノーラは眉一つ動かさず、静かにヴォルフラムの視線を受け止めた。
そして、凛とした声で、はっきりと告げた。
「ええ。自ら縄を首にかけ、足元の踏み台を蹴り飛ばすのは、あの方自身ですわ」
「ほう……?」
「私は何も奪いません。ただ、私が持ち込んだ持参金を返し、私が開発した技術と特許を回収し、私が注いできた魔力を止めるだけ。夫は常々、領地が栄えたのは自分自身の器量とアルトハイム家の血統のおかげだと豪語しておられます。ならば――私のすべてを取り去った後でも、ご自慢の器量と血統で、立派に領地を治めてみせればよろしいのです」
エレオノーラの言葉には、一片の迷いも、哀願もなかった。
ただ、絶対的な因果応報の論理。
ヴォルフラムはしばらくの間、エレオノーラを値踏みするように見つめていたが、やがて満足そうに深く頷いた。
「見事です。私はこれまで、感情に流されて愚かな裁判を起こす貴族の男女を腐るほど見てきましたが……ここまで徹底して法を武器とし、私情を排して冷徹な論理を構築された御仁にお目にかかったのは初めてだ。――よろしい。帝国法務尚書の名において、この書類を正規の公正証書として受理いたしましょう」
ヴォルフラムは内ポケットから、帝室の紋章が刻まれた重厚な真鍮の公印を取り出した。
そして、エレオノーラが作成した羊皮紙の最下部、法務尚書認証欄へと、朱色の魔導インクをつけて迷いなく押し下ろした。
ドン、と鈍い重低音が響き、羊皮紙の上に帝国法務省の不可侵の刻印が浮かび上がる。
これで、この書類は単なる夫婦間の私的合意書から、国家司法が直接執行権を持つ『至高の公文書』へと昇華した。
あとは――ユリウスが、署名と捺印をするだけでいい。
「公印の事前押印は完了いたしました」
ヴォルフラムは立ち上がり、書類の原本を丁重に革張りのケースへと収めた。
「侯爵が署名捺印した瞬間、その写しを速やかに法務省へお送りください。原本照合の手続きを経て、直ちに帝国中央銀行および貴族院登記所へ資産分離の保全命令を通達いたします。……侯爵側から改ざんすることも、破棄することも、皇帝陛下であっても不可能です」
「感謝いたします、ライヒ尚書閣下」
「礼には及びません。法が正しく機能する瞬間を見るのは、私にとっても無上の喜びですから。……しかし、夫人」
ヴォルフラムは扉の前で足を止め、最後に振り返った。
「この縄を引いた後、貴方様ご自身はどうなさるおつもりですか? 侯爵家を破滅させても、帝国貴族社会において、離縁された令嬢の身の置き所は決して平坦なものではありませんぞ」
その問いに、エレオノーラは窓の外――遠く北の空を見つめ、静かに答えた。
「ご心配には及びませんわ。……私という資産の価値を、正当に評価し、対価を支払える買い手は、すでに目星をつけておりますから」
ヴォルフラムは驚いたように目を見張り、次いで今日一番の深い笑みを漏らした。
「……これは失礼いたしました。余計な世話でしたな。では、良き夜明けを、エレオノーラ様」
法務尚書は音もなく部屋を辞し、ジゼルに伴われて闇の中へと消えていった。
一人残されたエレオノーラは、机の上の公正証書の写しをそっと指先で撫でた。
東の空が、微かに白み始めている。
長かった夜が明け、運命の朝がやってくる。
「さて……」
エレオノーラは冷徹な光を湛えた瞳で、朝日が差し込み始めた庭園を見下ろした。
「間抜けな署名人のために、極上の朝食をご用意いたしましょうか」




