第2話:愛憎の「愛」の完全損切り
ガチャリ、と金属が噛み合う耳障りな音を立てて、執務室の重厚なオーク材の扉が乱暴に押し開けられた。
入ってきたのは、金糸の刺繍が過剰に施された深紅のガウンを羽織った男――アルトハイム侯爵家現当主、ユリウス・フォン・アルトハイムである。
波打つ金髪に、彫りの深い甘い顔立ち。貴族令嬢たちが一目見れば色めき立つような華やかな美貌の持ち主だが、その青い瞳の奥には、生まれながらの高貴さに胡坐をかいた特有の傲慢さと、薄っぺらな自信が透けて見えていた。
ユリウスは部屋に入るなり、眉間に深い皺を刻んでわざとらしく鼻を鳴らした。
「まだ起きていたのか。灯油の無駄遣いだな。まったく、いつ見ても色気のない女だ。夜更けに夫を迎えるというのに、化粧の気配もなければ、香水一つ纏っていない。帳簿の埃の匂いしかしない部屋で、よく息ができるものだ」
吐き捨てられる侮蔑の言葉。
前世の記憶が鮮明に蘇る。あの頃のエレオノーラなら、この言葉に胸を抉られ、申し訳なさに項垂れていただろう。少しでも夫に愛されたくて、翌日には慣れない香油を買いに走ったり、似合わないレースを身につけたりして、さらに嘲笑を買ったのだ。
だが、今のエレオノーラの内面にあるのは、怒りですらなかった。
ただ、淡々と――冷え切った意識の底で、事務処理の優先順位を組み立てているだけだった。
(……この男の顔を見るだけで吐き気がするはずなのに。不思議ね。今はただ、貸借対照表の数字が十万ゴルト単位で合わない時と同じ程度の不快感しかないわ)
エレオノーラは顔を上げず、机の右奥にある引き出しの縁に、右手の指先をそっと添えた。
引き出しの裏側には、ヘスブルク家に伝わる親指大の古代魔導具――『音響記憶石』が貼り付けてある。
本来は商人との重要な商談や、不正を働く代官の証拠を押さえるために父から授けられたものだ。前世では「夫婦の間に盗聴器を仕掛けるなど不誠実だ」と自ら封印していたが、もはやそんな甘っちょろい倫理観など犬に食わせればいい。
微かな魔力を指先から流し込む。
カチ、と衣服の擦れる音に紛れるほどの極小の作動音が、引き出しの奥で響いた。
準備完了。帝国法務省において、魔導録音具による記録は、公証人の証言に次ぐ強力な物的証拠能力を持つ。
「何かご用件でしょうか、閣下。今月の領地支出の最終精査をしておりますので、手短にお願いできますと幸いです」
エレオノーラは帳簿から視線を外さず、手元の万年筆をサラサラと滑らせながら応じた。
その声には、怒りも、怯えも、媚びも、何の抑揚も含まれていない。まるで街の公証役場で書類を受け取る書記官のような、完全な無機質。
その反応は、ユリウスが期待していたものとは致命的に異なっていた。
ユリウスは苛立ちを露わにし、ペタペタと室内履きを鳴らして机の前まで大股で歩み寄ると、卓上に置かれていた一枚の羊皮紙を人差し指でバン、と強く叩いた。
「手短に、だと? 誰の屋敷で、誰の許可を得て仕事をしていると思っている! これを見ろ、これをお前が承認していないと執事から聞いたぞ!」
叩かれた紙は、先ほどエレオノーラが検分していた『本館貴賓室の改装認可、および男爵令嬢セレスティア・ランベルトの滞在に関する承諾書』である。
「ああ、その件ですか」
「その件ですか、ではない! セレスティアは身寄りがなく、可憐で、守ってやらねば散ってしまう繊細な花のような女性だ。父親を亡くして路頭に迷いかけていたところを、我がアルトハイム侯爵家の慈悲深さをもって保護してやったのだ。それをお前は、改装の予算がどうだの、正妻の承諾が必要だのと……なんと心の狭い女だ!」
ユリウスは胸を張り、自分がまるで高潔な騎士であるかのように語り立てる。
しかし実態は、昨今の夜会で知り合った貧乏男爵令嬢のあざとい涙と上目遣いに鼻の下を伸ばし、自らの愛人として屋敷に囲い込もうとしているだけにすぎない。
「セレスティアは、君のような無骨な仕事女とは違うのだよ、エレオノーラ」
ユリウスは軽蔑を隠そうともせず、嘲笑を浮かべながらエレオノーラを見下ろした。
「彼女は男を立てることを知っている。優しく、柔らかく、私の話に瞳を輝かせて聞き入ってくれる。お前のように、顔を合わせれば数字だの麦の収穫高だのと、小賢しい理屈を捏ね回す女と一緒にいては、私の高貴な心が休まらんのだ。だからこそ、彼女を本館の貴賓室――一番日当たりが良く、庭園が見渡せる部屋に住まわせる。当然、部屋の家具や調度品はすべて最高級のもので新調する。そのための改装費を即刻決済しろ」
ペラペラと回る舌。
前世では、この台詞の一つ一つが刃となってエレオノーラの胸を突き刺した。
『無骨な仕事女』。誰のために、誰の散財の穴埋めのために、泥にまみれて領地を走り回っていたと思っているのか。貴族令嬢としてのプライドも、女性としての自尊心も、すべてを投げ打ってこの領地を支えてきたというのに。
あの時は、涙が溢れて止まらなかった。「私を侮辱するのはやめてください」「なぜその方を貴賓室になど」と必死に抗議した。
だが、今の心境は驚くほど静謐だった。
エレオノーラはペンを走らせる手を止めず、淡々と数字の横にチェックマークを入れながら口を開いた。
「本館の貴賓室は、帝国高官や他家の当主クラスをお迎えするための公的な空間です。そこに一介の男爵令嬢を長期滞在させ、さらに侯爵家の公金から家具の新調費用を支出するとなれば、実家のヘスブルク家をはじめとする各方面への説明責任が生じます。また、現在の領地会計において、使途不明な私的改装費に充当できる予算枠は存在いたしません」
「黙れ! 言い訳は聞き飽きた!」
ユリウスが怒声を上げ、机を拳で激しく叩いた。
魔導ランプのガラスが微かにカタカタと揺れる。
「誰の金でこの屋敷が維持されていると思っているんだ! 我がアルトハイム侯爵家の金だぞ! お前のような地味な女を侯爵夫人の座に据えてやっている恩を忘れ、当主たる私の決定に口を挟むなど言語道断だ!」
「……」
「いいか、エレオノーラ。お前の価値は、我が家の庇護のもとで、その小賢しい計算能力を使って裏方の実務をこなすこと、それだけだ。妻としての魅力など、最初からお前には期待していない。お前はただ黙って、私の言う通りに金を工面し、書類に判を押し、実務だけをやっていればいいのだ!」
(――取れたわ)
エレオノーラの胸の中で、冷ややかな鐘が澄んだ音を立てて鳴り響いた。
『妻としての義務を放棄させ、実務のみを強制する夫の言動』。
『妻個人の持参金および管理財産を、侯爵家の私有財産であると誤認・強奪しようとする意図の自白』。
『公金と私金の混同による、領主としての適格性の欠如』。
これらすべてが、今、机の奥の音響記憶石に克明に刻まれた。
帝国法廷において、これ以上の決定的な言質はない。
ユリウスは肩で息をしながら、エレオノーラの反応を待っていた。
彼の中の筋書きでは、ここでエレオノーラが悔しさに顔を歪め、嫉妬に狂って喚き散らし、あるいは泣き崩れるはずだった。そして自分が「妻としての立場を弁えろ」と冷たく見下し、優越感に浸る――それが彼の描いていた結末だった。
しかし。
一秒、二秒、三秒。
静寂だけが執務室を支配していた。
「……おい。聞いているのか、エレオノーラ」
ユリウスの声から、先ほどの勢いが微かに失せ、当惑の色が混じり始める。
あまりにも手応えがない。まるで、頑丈な大理石の壁に向かって全力で拳を叩きつけたかのような、不気味な虚無感。
カチリ。
エレオノーラは右手に持っていた万年筆に、静かにキャップを嵌めた。
そして、机の上に広げられていた分厚い会計帳簿の縁に指を添えると――。
――パタン。
静かな部屋に、乾いた、心地よいほどの重厚な音が響き渡った。
帳簿が、閉じられた。
それは単に作業の中断を意味するものではなかった。
エレオノーラ・フォン・アルトハイムという一人の人間が、この五年間にわたって背負い続けてきた「妻としての義務」「侯爵家への忠誠」「夫への情愛」――そのすべてを、完全に、永遠にシャットダウンした音だった。
エレオノーラは両手を机の上に重ね、ゆっくりと銀縁の眼鏡を外した。
露わになったその藍色の瞳には、一片の涙も、揺らぎも、憎悪の色すら存在しない。
ただ、底知れぬ深海のように冷たく、透き通った光だけが宿っていた。
そして。
彼女の薄い桜色の唇が、ふわりと、この上なく優雅な弧を描いた。
貴族の夜会で淑女が見せるような、非の打ち所がない、完璧で、美しい――感情温度ゼロの微笑み。
「ええ。承知いたしました、閣下」
「……は?」
ユリウスが間の抜けた声を漏らした。
「セレスティア様を本館の貴賓室へお迎えし、家具や調度品を最高級のもので新調する件。すべて、閣下のお望み通りにお引き受けいたします」
「な……っ」
「彼女がどれほど可憐で、繊細で、閣下のお心を癒す素晴らしい女性であるか、よく理解いたしましたわ。私のような味気ない仕事女には、到底真似のできない美徳をお持ちのようですものね」
エレオノーラは座ったまま、優雅に小首を傾げてみせる。
皮肉の棘すら感じさせない、純粋な賛同の響き。
だが、その声の冷徹さは、まるで真冬の氷河から吹き降ろす風のように、部屋の空気を一瞬で凍りつかせていた。
「あ、ああ……そうか。ようやく自分の立場を弁えたようだな」
ユリウスは動揺を隠すように、胸を張ろうとした。
思い通りの言葉を引き出したはずだった。妻を屈服させ、愛人を迎え入れる許可をもぎ取ったはずだった。
それなのに――なぜだ。
なぜ、目の前の女を見ていると、心臓の奥が冷え込み、背筋を氷の刃で撫でられたような悪寒が走るのか。
「ふ、ふん! 最初からそう素直に従っていればいいのだ。物分かりが良くなったではないか」
「はい。閣下のご期待に添えるよう、女主人の責務として、万全の準備を整えて差し上げますわ」
エレオノーラは微笑んだまま、視線を承諾書へと落とした。
「ただし、閣下。公私混同を避けるため、また対外的な体裁を整えるためにも、明日の朝食の席で、正式な合意書にいくつか署名捺印をいただきたく存じます。セレスティア様を迎え入れるにあたり、私の実家であるヘスブルク家への体面や、今後の領地運営の責任分担を明確にしておく必要がありますので」
「書類だと? そんな細かいことはどうでもいいと言っているだろう」
「いいえ、重要ですわ。閣下とセレスティア様が、今後誰からも後ろ指を刺されることなく、堂々と愛を育むための……法的な後ろ盾となる書類です。すべて私が今夜中に作成しておきますので、閣下はただ、明朝サインをなさるだけで結構です」
『誰からも後ろ指を刺されることなく、堂々と愛を育むための書類』。
その甘美な響きに、ユリウスの浅薄な警戒心はあっさりと霧散した。
ナルシストである彼は、自分が社交界から「不義を働く不実な夫」として非難されることを何よりも恐れていた。妻自らがそれを公認し、体面を取り繕ってくれるというのなら、これほど都合の良い話はない。
「……なるほど。お前も少しは気が利くようになったな。よかろう、明日の朝、書類に目を通してやる。サインしてやれば文句はないのだろう?」
「ええ、何一つございません。閣下の寛大なるご配慮に、心より感謝申し上げます」
エレオノーラは立ち上がり、完璧な角度でスカートの裾を引いてカーテシーを捧げた。
髪の一筋すら乱れない、完璧な貴婦人の礼。
ユリウスはどこか居心地の悪さを感じながら、ガウンを翻して扉へと向かった。
ノブに手をかけたところで、ふと足を止め、振り返る。
「……おい、エレオノーラ」
「何でしょうか、閣下」
「本当に……嫉妬していないのか? セレスティアに私の愛を奪われることに」
最後の最後まで、自分の男としての魅力を確認せずにはいられない浅ましさ。
エレオノーラは、伏せていた瞳をゆっくりと持ち上げた。
その瞳の奥に広がるのは、満天の星空よりも深く、冷たい闇。
「嫉妬、でございますか?」
ふ、と彼女の口元から、可憐な吐息のような笑いが零れた。
「まさか。……どうぞ、泥棒猫様と末永くお幸せになさってくださいませ。私にとっては、これ以上なく喜ばしいことですわ」
「な……泥棒猫とは何だ!」
「あら、失言でしたわね。可憐な小猫様、とお呼びするべきでしたでしょうか。夜も更けてまいりました。明日のお仕事のためにも、どうぞお部屋でお休みくださいませ」
取りつく島もない。
ユリウスは舌打ちを一つ残し、逃げるように執務室から出て行った。
バタン、と乱暴に扉が閉まる。
再び訪れた、完全な静寂。
エレオノーラは扉を見つめたまま、数秒間、微動だにしなかった。
やがて、彼女の口元から作られていた社交用の笑みがスッと消え去り、元の冷徹な能面へと戻る。
「……愚かな人」
エレオノーラは引き出しを開け、熱を持った音響記憶石を取り出した。
掌の上で青く鈍い光を放つ魔石。ここには、ユリウスの傲慢な発言、妻の財産の強奪宣言、そして明朝の契約締結への言質が、寸分の狂いもなく記録されている。
「ジゼル」
静かに名を呼ぶと、執務室の壁際に控えていた影が、滑らかに前へと進み出た。
地味な灰色の侍女服に身を包んだ、切れ長の目を持つ理知的な女性――エレオノーラが実家から連れてきた筆頭侍女、ジゼル・マイアーである。
「ここに、お嬢様」
ジゼルの声には、主人の異変に対する動揺は微塵もなかった。
彼女は前世において、エレオノーラが軟禁された際、最後まで主を信じて脱出の手引きを試み、ユリウスの手によって無実の罪を着せられ獄中死した、唯一無二の忠臣である。
今世で再び彼女の無事な姿を間近で見られたことに、エレオノーラの胸が微かに痛んだ。だが、感傷に浸っている時間はない。
「今のやり取り、聞いていたわね?」
「はい。侯爵閣下の破廉恥極まりない暴言の数々、すべて耳に届いております。……お嬢様、本当によろしいのですか? あのような男のために、これ以上身を粉にして尽くす必要など……」
「勘違いしないで、ジゼル」
エレオノーラは首を横に振った。
彼女は机の上の万年筆を再び手に取り、白紙の羊皮紙を引き寄せた。
「尽くすつもりなど、微塵もないわ。あれはもう『家族』でも『夫』でもない。ただの、返済能力を喪失した破綻債務者よ」
「……破綻、債務者?」
「ええ。これより、ヘスブルク家が投じた全資産の強制回収フェーズへ移行します」
エレオノーラのペンの先が、滑らかに羊皮紙の上を走り始めた。
そこに書き殴られていくのは、愛の言葉でも、怨嗟の詩でもない。
極めて難解で、緻密で、抜け道のない――帝国法に基づく、完璧な『罠』の条文群。
「ジゼル。今すぐ着替えて、極秘裏に帝都の法務省当直室へ向かいなさい。そして、法務尚書ヴォルフラム・ライヒ卿を、この屋敷へ連れてくるのよ」
「法務尚書閣下を……!? しかし、このような深夜に、帝国の最高法務官が動いてくださるでしょうか?」
「動くわ。彼が何よりも愛しているのは、国家の法秩序と、完璧に構築された契約書よ。この書類を見せれば、彼は狂喜して馬車を走らせるはずだわ」
エレオノーラは書き終えた羊皮紙のインクを砂で乾かし、封筒へ滑り込ませた。
「夜明けまでに、すべてを終わらせるわ。ユリウス様が自ら首を括るための、美しく頑丈な縄を編み上げなくてはね」
窓の外を見つめるエレオノーラの瞳に、夜明け前の冷たい星明かりが、鋭利な刃のように反射していた。




