第1話:冷めた紅茶と最後の夜
焼けた鉄を無理やり喉奥へ流し込まれたような、おぞましい灼熱感だった。
「――が、っ……、けほっ……!」
肺腑を掻きむしる激痛に、エレオノーラは執務机から絨毯の上へと転がり落ちた。
指先が痙攣し、喉元を掻きむしる。皮膚が裂け、爪の間に生々しい血が滲むのも気にならない。気道が焼き爛れ、呼吸をするたびに肺が針の山を吸い込んでいるかのようだった。
卓上には、半分ほど残された磁器のティーカップ。
冷え切ったアッサムティーの表面には、澱んだ油膜のような紫色の光沢が浮いていた。
――月影草。
帝国南部で産出される、無味無臭の遅効性猛毒だ。数ヶ月にわたって微量を摂取させれば、内臓を徐々に壊死させ、医師には「過労による心不全」としか診断させない暗殺の秘薬。
視界が急速に狭窄していく。
薄暗い離宮の密閉された部屋。その頑丈な扉のすぐ向こう側から、聞き慣れた二つの声が、遮るものもなく流れ込んできていた。
「ふふ、ユリウス様。ずいぶんと静かになりましたわね」
「ああ。長かったな、セレスティア。ようやくあの目障りな帳簿女の息の根が止まる」
愛人であるセレスティア・ランベルトの鈴を転がすような笑い声と、夫であるユリウス・フォン・アルトハイム侯爵の、傲慢に満ちた安堵の吐息。
「本当に、気味の悪い女だった。顔を合わせれば領地の収支だの、堤防の補修だの、魔導結界の維持費だのと……。女のくせに小利口に数字を並べ立て、俺を立てることも知らん。お前のような可憐さの欠片もありはしなかった」
「まあ、ユリウス様ったら。でも、あの女の持参金と事業特許のおかげで、この領地が帝国屈指の富を得たのは事実ですわ。感謝くらいはしてあげてもよろしくてよ?」
「馬鹿を言え。領地が栄えたのは、アルトハイム侯爵家たる俺の血統と器量のおかげだ。あの女はただ、我が家の威光の元で書類仕事をしていただけの道具にすぎん。財産分与と名義変更の書類にサインさせた時点で、あの女の役目は終わっていたのだ」
カチャリ、と二人のシャンパングラスが触れ合う軽快な音が響く。
「これでアルトハイム侯爵家のすべては、俺とお前のものだ」
「嬉しい……愛していますわ、ユリウス様。これからは私が、真の侯爵夫人として贅沢を極めて差し上げますわね」
――すべてが、私のもの?
――道具に、すぎない……?
エレオノーラは血反吐を吐きながら、冷たい床の上で震えた。
没落寸前だったアルトハイム家。先代の放蕩によって莫大な負債を抱え、荒廃した土地に嫁いできたのは五年前のことだ。
彼女は実家であるヘスブルク伯爵家から持ち込んだ巨額の持参金を惜しみなく領地へ注ぎ込み、香料工房を立ち上げ、新農法を導入した。何より、ヘスブルク家にのみ伝わる古代魔導――土地を浄化し、作物の収穫量を跳ね上げ、魔獣の侵入を完璧に阻む『純潔なる浄化結界』を、自らの血と魔力を削って領地全域へ張り巡らせたのだ。
朝から晩まで帳簿と格闘し、泥にまみれて農村を回り、夫の浮気や冷遇にも「領民のため」「いつか夫も理解してくれるはず」と耐え忍んできた。
その結末が、これだった。
都合よく資産を奪われ、名義を書き換えられ、用済みになれば毒入りの紅茶で病死に見せかけて処分される。
「あ……、が……っ」
声にならない呪詛が、口元から泡となって零れ落ちる。
悔しい。悲しい。憎い。
だが、それ以上に――自らの愚かさに、果てしない侮蔑が込み上げた。
なぜ、もっと早くに見限らなかったのか。
なぜ、「妻の義務」などという空虚な言葉に縛られ、破綻した不良債権のような男に己の人生を投資し続けてしまったのか。
(もし……もしも、やり直せるのなら……)
愛など求めない。情など一欠片もくれてやらない。
私のものは、爪の先一つ、金貨一枚、結界の一筋たりとも、貴様らには渡さない――。
ドクン、と心臓がひときわ大きく跳ね上がり、そして永遠に止まった。
視界が真っ黒に反転し、エレオノーラの意識は冷たい泥濘の底へと沈んでいった。
***
「――っ、は……!」
息を吸い込んだ瞬間、肺を満たしたのは、焼き爛れるような激痛ではなかった。
微かに薫る、上質なペーパーミントのポプリの香り。そして、使い慣れた沈香のインクと、乾燥した羊皮紙の匂い。
エレオノーラは跳ね起きるようにして上体を起こした。
バサリと音を立てて、肘に当たった羽ペンが転がる。
「……え?」
そこは、薄暗い毒殺の離宮ではなかった。
柔らかな月光が差し込む、広々とした執務室。
マホガニーの重厚な執務机、壁一面を埋め尽くす領地経営の台帳、磨き上げられた魔導ランプの淡い光。
自分の両手を視界の前にかざす。
白く、滑らかで、毒に侵されて黒ずんだ斑点などどこにもない。喉元に手を当てても、爪で掻きむしった傷跡はなく、脈拍だけが早鐘のように激しく打っていた。
「夢……? いいえ、あの激痛と冷たさが夢であるはずがない……」
過呼吸になりかけた呼吸を整えるため、エレオノーラは自ら左手首の頸動脈を指先で強く押さえた。
深呼吸を三度。
卓上に置かれていた銀の水差しから、震える手でグラスへ水を注ぎ、一気に喉へと流し込む。冷たい液体が食道を通り、胃へと落ちていく感覚が、狂乱しかけた意識を強制的に現実へと繋ぎ止めた。
視線を卓上へ走らせる。
真鍮の日めくりカレンダー。
そこに刻まれていた数字を目にした瞬間、エレオノーラの全身の毛穴がキュッと収縮した。
『帝国暦342年 4月12日』
(……三年、前……?)
毒殺されたのは帝国暦345年の秋だった。
時計の針が、丸々三年間、過去へと巻き戻っている。
信じがたい超常現象。だが、肌を撫でる冷気の感触も、水の冷たさも、卓上の羊皮紙の質感も、すべてが紛れもない現実だと告げていた。
そして、執務机の中央。
先ほど転がったペンのすぐ脇に置かれていた、インクの乾ききっていない一枚の公文書に、エレオノーラの視線が吸い寄せられた。
『本館貴賓室の改装認可、および男爵令嬢セレスティア・ランベルトの滞在に関する承諾書』
「……ああ」
乾いた声が、エレオノーラの唇から漏れた。
覚えている。決して忘れもしない、屈辱の始まりの日だ。
結婚してわずか一年。夫ユリウスが、夜会で見初めた貧乏男爵令嬢セレスティアを「行き場のない哀れな恩人の娘」と偽り、本館の最も豪奢な客室へ住まわせると言い出した夜。
前世のエレオノーラは、この書類を突きつけられた時、泣いて取り乱した。
正妻としての誇りを傷つけられ、「なぜそのような方を屋敷に入れるのですか」「私という妻がありながら」と夫に縋り付いた。
その結果、ユリウスからは「嫉妬狂いの醜い女」となじられ、一週間にわたって無視され、最終的には領地運営の予算を人質に取られて、泣く泣く承諾のサインをさせられたのだ。
そしてセレスティアが屋敷に居座り、徐々にエレオノーラの立場を侵食し、最終的には毒殺へと至った――。
エレオノーラは椅子の背もたれに深く身を預け、天井を仰いだ。
ふつふつと煮え立つような激怒が湧き上がるかと自分でも思っていた。
あるいは、元夫への凄まじい愛憎が胸を掻き乱すのではないかと。
だが、奇妙なほどに胸中は静まり返っていた。
怒りも、悲しみも、未練も、裏切られた絶望すらも――急速に冷え固まり、絶対零度の氷となっていく。
カチリ、と頭の中で何かが音を立てて切り替わった。
(……損切りだわ)
商人や投資家が、回復の見込みのない破綻案件に対し、これ以上の損失を防ぐために一切の感情を排して下す、至極まっとうな事務判断。
ユリウスという男は、投資する価値のない完全な不良債権だった。
そこに「夫婦の情」や「いつか改心してくれるかもしれない」という甘い希望を注ぎ込み続けた結果が、前世の毒杯だったのだ。
「神様。もし貴方が私を哀れんでこの奇跡をくださったのなら、感謝いたします。……復讐の機会としてではなく、不良債権を合法的に清算する機会をくださったことに」
エレオノーラは静かに眼鏡を掛け直し、卓上の書類を検分し始めた。
感情を殺した瞬間、冷徹な経営者としての頭脳が超高速で回転を始める。
状況を整理する。
時系列は帝国暦342年4月12日、深夜。
現在のアルトハイム侯爵領の財政は、エレオノーラが嫁いできてからの一年間で、ようやく破綻寸前の赤字から脱却し、単年度黒字化を達成したばかりの極めて脆弱な段階にある。
そして最も重要な法的状況――。
(まだ、あの書類には調印していない)
前世でエレオノーラが最大の過ちを犯したのは、結婚二年目の秋だった。
ユリウスから「侯爵家当主としての威厳を保つため、対外的な事業名義を一本化したい」と甘言を弄され、実家から持ち込んだ持参金や特許魔導、工房の所有権を侯爵家の共有財産とする書類に署名してしまったことだ。
だが、今は違う。
帝国夫婦財産管理法・第42条。
――『貴族令嬢が実家より持ち込みたる特許魔導、技術、ならびに持参金は、婚姻中といえども妻個人の信託財産として保全され、夫の家門の債務弁済に充当することは叶わず。これを流用せんと欲する時は、明確なる役務・出資契約を要す』。
法は、完全にエレオノーラの側にある。
現時点で、アルトハイム領を潤している資金も、新農法の特許も、香料工房の設備も、すべて100%「エレオノーラ・フォン・ヘスブルク個人」の私有財産だ。
さらに、領地全土を守る『純潔なる浄化結界』。
あれはヘスブルク家の血筋を持つエレオノーラが、日々の祈りと魔力を土地の要石へ注ぎ込むことで成立している「個人契約の魔導」。
侯爵家が雇った魔術師団が張っているわけでも、領地の施設が自動生成しているわけでもない。
つまり――。
エレオノーラが実務の手を止め、資産を引き揚げ、結界への魔力供給を停止した瞬間、アルトハイム侯爵家は一年前に逆戻りするどころか、莫大な維持費と負債に圧殺されて即死する。
「私を『味気ない仕事女』と見下し、『代わりはいくらでもいる』と思い込んでいるのなら……ええ、どうぞご自由に」
エレオノーラの薄い唇に、怜悧な、しかし底知れぬ凄みを孕んだ微笑みが浮かんだ。
復讐のために手を汚す必要など、どこにもない。
ただ、私が私の正当な権利をすべて回収し、本来あるべき姿に戻すだけ。
勝手に自滅していく様を、特等席から眺めて差し上げればいいのだ。
その時。
廊下の向こうから、ペタペタと床を踏み鳴らす、気取った足音が近づいてきた。
踵に真鍮の飾りをつけた、ユリウス好みの高価な室内履きの音だ。
前世では、あの足音が執務室に近づいてくるたびに、「今夜こそは優しく微笑んでくれるだろうか」と胸を痛め、期待し、そして裏切られて傷ついていた。
だが今は――。
「……騒々しい足音。床板の摩耗を早めるだけですわね」
不快感すら湧かない。
ただ、数字の合わない請求書を目にした時のような、無機質な事務的冷淡さだけがそこにあった。
カチリ。
エレオノーラは右手に持った黒檀のペンのキャップを嵌め、机の上に静かに置いた。
冷徹に研ぎ澄まされた彼女の藍色の瞳が、執務室の重厚な扉へと向けられる。
ドアノブが、尊大に回され始めた。




