第10話:結界解除のカウントダウン
東の地平線が、薄墨色の夜の帳をゆっくりと押し上げ、白藍色の朝の光が空を染め始めていた。
昨夜の暴風のような出来事――黒狼大公クラウスの深夜の急襲、そしてあの息が止まるほど熱く重い求婚の余韻は、未だエレオノーラの胸の奥で燻り続けていた。
だが、彼女の理性の天秤が狂うことはない。
卓上に残された『皇帝勅許・特別婚姻承認状』と、大公家の全権を委託された『逆・公正証書』。この二通の至高の羊皮紙は、すでにジゼルの手によって極秘裏に耐火性の革ケースへと収められ、エレオノーラのトランクの底深くへと封じ込められていた。
「お嬢様、朝の鐘が鳴りました。館内はまだ静まり返っております」
黒の質素なメイド服に着替えたジゼルが、扉の隙間から廊下の様子を窺い、静かな声で報告する。
本館南翼に陣取るユリウスとセレスティアは、昨夜も遅くまで高級ワインを開けて浮かれていた。使用人たちの朝の清掃時間になっても起きてくる気配はなく、早くとも昼前までは泥のように眠りこけているはずだ。
「ええ。最も人の目が少ない時間帯ね。……行きましょう」
エレオノーラは髪を後ろで一つに束ね、装飾のない濃紺の作業用ローブを羽織った。
手には、真鍮の古いカンテラと、ヘスブルク家の家紋が刻まれた銀の魔導針。
二人は足音を忍ばせ、本館の奥深く、普段は使用人たちすら立ち入ることを禁じられている北回廊の最果てへと向かった。
突き当たりにあるのは、黒ずんだ鉄の頑丈な扉。
三つの魔導鍵が幾重にも施錠されたその扉に、エレオノーラが自らの指先から微量の魔力を流し込むと、カチ、カチ、カチ……と重厚な解除音が響き、扉が軋みながら内側へと開いた。
扉の向こうに広がっていたのは、地下へと果てしなく続く湿り気を含んだ螺旋階段だった。
外気温とは明らかに異なる、ひんやりとした冷気と、肌をチクチクと刺すような高濃度の魔力圧が吹き上がってくる。
一段、また一段と、エレオノーラは石段を降りていく。
カンテラの淡い光が、何百年もの歴史を刻んだ湿った壁面を照らし出す。
ここは、アルトハイム侯爵邸の最深部――『ヘスブルクの結界大霊廟』。
結婚五年目、エレオノーラがこの地に嫁いできた際、荒廃しきっていたアルトハイム領を再生させるために、実家の援助を受けて自ら敷設した古代魔導の中枢施設である。
領地の地下を走る大地の霊脈――その結節点の上に築かれたこの霊廟こそが、アルトハイム全土を覆い、魔獣の侵入を防ぎ、不浄な瘴気を浄化して農作物の収穫量を三倍に跳ね上げている奇跡の心臓部だった。
階段を降りきると、視界が一気に開けた。
直径三十メートルはあろうかという、広大な地下ドーム。
その空間の中央に、巨大な祭壇が聳え立っていた。
――美しく、そして神聖な光景だった。
ドームの床一面には、幾何学的な古代魔導文字が金色の燐光を放ちながら縦横無尽に走り、脈動している。
そして祭壇の中央で浮遊しているのは、大人の胴回りほどもある巨大な菱形の水晶――『ヘスブルクの要石結晶』。
昨夜、エレオノーラが私室から搬出させたのは、実家に代々伝わる未加工の魔導核や予備キー結晶だったが、この祭壇で浮遊しているのは、現在進行形でアルトハイム領全土に加護を放射し続けている『稼働中の心臓』そのものだった。
トクン……トクン……。
まるで生き物の心臓のように、要石が黄金の魔力を脈打たせ、大地を通じて領地全域へと光を送り届けている。
「……いつ見ても、息を呑む光景でございますね」
背後でカンテラを掲げるジゼルが、崇高な光に目を細め、静かに呟いた。
「お嬢様がこの五年間、毎朝欠かさずここに降り立ち、ご自身の魔力と祈りを注ぎ込み続けてこられた結晶……。これこそが、アルトハイム侯爵領の繁栄の正体だというのに」
「ええ。けれど、あの方々にとっては『あって当たり前』の空気のようなものだったのよ」
エレオノーラは祭壇の階段を上がり、黄金に輝く要石の前へと歩み寄った。
放たれる温かな魔力光が、彼女の白い頬を優しく照らし出す。
この光が、森の凶暴な魔獣たちを領地の境界線で押し留めていた。
この光が、土壌に染み付いた冷えと瘴気を洗い流し、痩せた大地に豊かな麦の穂を実らせていた。
すべては、エレオノーラという術者が、自らの生命力の一部を切り分け、土地への慈しみとともに注ぎ込み続けてきたからこそ維持されていた奇跡。
だが――ユリウスは言ったのだ。
『領地が栄えたのは、アルトハイム侯爵家たる俺の血統と器量のおかげだ』
『お前はただ、我が家の威光の元で書類仕事をしていただけの道具にすぎん』と。
そして、前世の記憶が、エレオノーラの脳裏を冷酷に過る。
毒殺される半年前。
セレスティアが屋敷に入り込み、ユリウスに甘えて贅沢三昧を繰り返す中、エレオノーラは逼迫する財政を立て直すため、やむを得ず領民たちに新たな備蓄穀物の拠出と、堤防工事のための勤労奉仕を要請したことがあった。
領地の安全を守るためには、どうしても必要な措置だった。
だが、その時、セレスティアは何をしたか。
『皆様、お可哀想に! 正妻様は冷酷ですわ! こんなに貧しい皆様から作物を奪うなんて! ユリウス様、侯爵家の金庫から皆様にお金を配ってあげてくださいませ!』
愛人の可憐な涙に鼻の下を伸ばしたユリウスは、エレオノーラが必死に工面していた結界維持のための準備金を勝手に引き出し、領民たちへ無差別にばら撒いたのだ。
その時、領民たちはどう反応したか。
『セレスティア様こそ慈悲深き真の天使だ!』
『それに比べて、あの本妻のケチ女はどうだ!』
『毎日帳簿ばかり見て、俺たちの血税を吸い上げることしか考えていない! 早くあの女を追い出して、セレスティア様を正妻にしろ!』
口々にセレスティアを称え、エレオノーラを罵倒した領民たちの醜い笑顔。
誰が彼らの命を守り、誰が飢えから救ってきたのかも知らず、目の前にぶら下げられた目先の金貨と甘い言葉に飛びつき、恩人を泥棒猫とともに石で撃った者たち。
(……ええ。同情の余地など、一欠片も残っていないわ)
エレオノーラの瞳から、最後の迷いが完全に消え去った。
自分の行いが、理不尽に踏みにじられるのはもう終わりだ。
私が守るべき価値のある者など、この領地にはただの一人も存在しない。
「ジゼル。祭壇の結界制御盤を開きなさい」
「かしこまりました」
ジゼルが祭壇の台座に刻まれた隠し窪みへ、銀の魔導針を差し込む。
カチリ、と精巧な歯車が噛み合う音が響き、石造りの台座が左右にスライドした。
現れたのは、淡く光る魔導水晶で組まれた『術式制御盤』。
ここにある術式核を、力任せに破壊することは容易い。
魔力の一撃を叩き込めば、要石は砕け散り、アルトハイム領の結界はその瞬間に爆散するだろう。
だが――エレオノーラは絶対にそんな下品な手段は選ばない。
(力任せに破壊すれば、術者である私に器物損壊や、領地に対する反逆罪の容疑をかけられる隙を与えてしまう)
法務尚書ヴォルフラムとともに構築したロジックは、完全無欠でなければならない。
何者にも咎められず、いかなる法廷においても胸を張って『私は一切の違法行為をしていない』と言い切れる、完璧な合法性。
「ヘスブルクの結界術は、術者の無償の愛と献身によって維持される『個人契約の魔導』……。契約者が婚姻関係を解消し、現場を去る以上、そこにあるのは悪意ある破壊ではないわ」
エレオノーラは袖を捲り、白く滑らかな右手を制御盤の上へと翳した。
指先から、青紫色の精緻な魔力光が幾何学模様となって紡ぎ出される。
「単なる――『定期魔力供給プロトコルの終了』。契約期間の満了に伴う、正規のサービス停止よ」
エレオノーラが紡ぐ術式は、要石を傷つけるものではなかった。
術式の内容は、極めて事務的かつ機械的なシステム変更。
現在、この要石に蓄えられている魔力の残滓を計算する。
エレオノーラが日々の魔力補充を完全に停止した今、結晶内に残されている魔力総量は、通常稼働でおよそ三十日分。
エレオノーラはその残存魔力を、一気に放出させるのではなく、『一日あたり三・三パーセントずつ、均等に出力を減衰させる』という緩やかな停止プログラムを組み込んでいく。
「一日で三・三パーセント……。最初の十日間は、出力が約七割まで落ちる程度ね。領内の気温がわずかに下がり、森の浅瀬で下級魔獣の目撃例がちらほら出る程度で、鈍感なユリウス様や無知なセレスティア様には異変とすら認識できないはずだわ」
「二十日目で、出力は三分の一以下。防護壁に本格的な綻びが生じ始め……そして、ちょうど三十日目の夜――」
ジゼルが冷徹な声で後を引き取った。
「ええ。三十日目の夜に、残存魔力は完全にゼロとなり、アルトハイム領全土を覆う結界は、何の前触れもなく、音もなく霧散する」
完璧な時限装置。
この設定により、エレオノーラが屋敷を出奔した直後には、何一つ事件は起きない。
彼女が大公領ヴァルハイトへ無事に移籍し、皇帝の勅許を得て、新天地での基盤を固めるまでの十分な時間的猶予が生まれるのだ。
そして、彼女が去ってから一ヶ月後――人々が彼女の不在に慣れ、セレスティアが「あの女がいなくても領地は回っている」と勝ち誇ったまさにその絶頂の瞬間に、防衛線は突然として崩壊する。
後からユリウスが「エレオノーラが結界を壊して逃げたのだ」と騒ぎ立てたところで、法務省も魔導ギルドも一笑に付すだろう。
『一ヶ月間も正常に動いていた結界が突然切れたのは、貴殿らが日々の魔力供給を怠った過失によるものであり、前妻の責任ではない』と。
自業自得。因果応報。
彼ら自身の怠慢と無知によって、自分たちの首を絞めさせるための、完璧なロジック。
「……術式変更、完了いたしました」
エレオノーラが指先を引いた瞬間。
キィィィン……と、耳鳴りのような澄んだ高周波が地下霊廟のドーム全体に響き渡った。
床一面に広がっていた金色の幾何学模様が、波紋のように揺らめく。
そして、祭壇の中央で眩いばかりの黄金色に輝いていた要石結晶が――。
スーッ……と、その光度を落とし始めた。
眩暈を覚えるほど温かかった黄金の輝きが、徐々に、徐々に薄れていく。
やがて結晶は、深海の底の氷のような、冷たく、静かな、青白い『休眠色』へと減光した。
ドーム内を満たしていた温かな熱気は引いていき、代わりに、万年氷土の地下のような冷徹な静寂が空間を支配する。
秒針が、動き出した。
一日、また一日と、アルトハイム領の命の砂時計が、音もなく零れ落ちていくカウントダウン。
「……終わりましたわね」
エレオノーラは制御盤の蓋を閉じ、銀の魔導針を抜いた。
青白く冷え切った要石を見上げるその瞳には、かつてこの場所で祈りを捧げていた頃の情愛は、一片たりとも残っていなかった。
あるのは、不良債権の清算を完了させた冷徹な投資家の、底知れぬ静謐。
エレオノーラはカンテラを受け取り、躊躇なく背を向けた。
螺旋階段へ向けて、一歩を踏み出す。
「さようなら、アルトハイム領」
冷たい石壁に反響する彼女の靴音。
エレオノーラは振り返ることなく、その薄い唇に、怜悧で美しい冷笑を浮かべた。
「――私の加護のない世界で、精々お幸せに」
地下の暗闇の中、静かに刻まれ始めた破滅への鼓動を残し、エレオノーラは地上へと続く光の中へ消えていった。




