第11話:最後の晩餐と置き手紙
豪奢な大食堂のシャンデリアが、煌々と眩い光を投げかけていた。
アルトハイム侯爵邸本館の中心に位置するこの大食堂は、本来ならば帝国の高官や近隣の有力諸侯を迎えるための格式ある空間だ。壁面を飾る重厚なタペストリー、磨き上げられた黒檀の長大な晩餐テーブル。
だが、今宵その空間を満たしていたのは、貴族の品格とは程遠い、悪趣味極まりない成金の悪臭だった。
テーブルの中央には、毒々しいほど鮮やかな濃密な真紅の薔薇と、香りの強すぎる百合がこれ見よがしに山盛りに活けられている。食事の場において、料理の繊細な香りを殺すような強香の花を飾るなど、礼法を学んだ令嬢であれば絶対に犯さない初歩的なタブーだ。
さらに、銀の燭台には安物の香油が混ぜられた蝋燭が灯され、甘ったるいバニラのような油煙が、天井近くに澱んだ紫の靄を作っていた。
「ふふ、いかがですの、ユリウス様? 私の見立てたテーブルコーディネートは! これまでの地味で陰気だったこのお部屋が、まるで帝都の最新サロンのように華やかになりましたでしょう?」
テーブルの上座、当主のすぐ隣――本来であれば正妻が腰掛けるべき席に、我が物顔で座っているのはセレスティア・ランベルトだった。
昼間よりもさらに露出度の高い、オフショルダーの真っ赤なサテンのドレス。胸元を露骨に強調し、首元には昼間ユリウスに強請って買わせたばかりの、大ぶりな模造ルビーの首飾りが安っぽく光っている。
「ああ、素晴らしいよ、セレスティア! 我がアルトハイム侯爵邸に、ようやく真の美と華やぎが訪れたようだ!」
ユリウスは上機嫌で顔を赤らめ、セレスティアの腰に手を回していた。
すっかり出来上がっている男の鼻先には、すでに空になったワインボトルが何本も転がっている。
「あのエレオノーラという女は、食事といえば栄養バランスだの、領内の収穫高に合わせた旬の食材だのと、説教臭いことばかり並べ立てていたからな。あんな味気ない食卓では、私の高貴な胃袋が萎縮してしまうというものだ。それに比べて、君の選んだこのメニューの素晴らしさといったら……!」
ユリウスがフォークで突き刺したのは、大皿に盛られた料理だった。
だが、その皿の上に乗っているものを目にした瞬間、エレオノーラは内心で冷え切った計算を完了させていた。
(……季節外れの南嶺産白アスパラガスに、帝都の闇市場から魔導冷凍便で無理やり取り寄せた冬イチゴの肉巻きソテー。それに、旬を三ヶ月も過ぎて生臭さの残る深海カレイのパイ包み……)
一見すれば、どれも法外な値段のつく超高級食材ばかりだ。
しかし、料理としての調和は完全に崩壊していた。保存状態の悪い冷凍便で運ばれたため、食材の細胞は破壊されて水分が抜け、生臭さと過剰な香辛料の匂いが混ざり合って鼻をつく。
料理長カテリーナが、エレオノーラから渡された退職金と指示を受け、「言われた通りの高額食材を使って、注文通りに調理してやっただけさ」と、一切の工夫も施さずに機械的に仕上げたことが手にとるように分かった。
そして何より、銀のワインクーラーに突き刺さっている埃まみれのボトル。
ラベルには、帝都の一流シャトーの紋章が印刷されているが――エレオノーラの鑑識眼は誤魔化せない。
(あれは、帝都の悪徳商人が貴族の無知につけ込んで売りつける、典型的な『熱劣化ボトル』ね)
運搬中の温度管理に失敗し、煮え立って酸敗したワインに、無理やり大量の砂糖とリキュールを添加して誤魔化した、甘ったるいだけの毒水。
一本で平民の一家が半年は暮らせる金貨三十枚の値がついているが、中身は胃を荒らすだけの粗悪品だ。
「さあ、ユリウス様、あーんとなさってくださいませ」
「おお、セレスティアの手から食べさせてもらえるなら、極上の甘露だな!」
人目を憚らずイチャつく二人。
給仕に立つ若い従僕たちは、羞恥と軽蔑で視線を床に落とし、耳を赤くして耐えている。
その光景を、テーブルの最も下座――入り口に近い末席から、エレオノーラは背筋を寸分の狂いもなく伸ばし、静かに見つめていた。
身に纏うのは、装飾を削ぎ落とした濃紺のデイドレス。
彼女の前の皿には、運ばれてきた料理がそのままの形で残されており、手つかずの銀のフォークとナイフが整然と並んでいる。
グラスに注がれた毒々しい赤ワインにも、唇を湿らせた気配すらない。
「あら?」
ユリウスにワインを飲ませていたセレスティアが、わざとらしく小首を傾げ、勝ち誇ったような侮蔑の笑みを浮かべてエレオノーラを見下ろしてきた。
「奥様、どうかなさいましたの? せっかく私が、女主人の務めとして厨房に指示を出し、帝都中から最高級の食材を集めさせてご用意したディナーですのに。一口も召し上がらないなんて、失礼ではございません?」
セレスティアは扇子で口元を隠し、くすくすと喉を鳴らす。
「まあ……もしかして、お口に合いませんのかしら? エレオノーラ様は、ずっと実務ばかりで、泥臭い農村の麦粥ばかり召し上がってきたとお聞きしましたものね。このような洗練された本物の貴族の贅沢は、庶民的な奥様の舌には、少々刺激が強すぎましたでしょうか?」
これ見よがしに放たれる、安っぽい挑発。
『私は貴女よりも贅沢を知り、貴女よりもユリウス様に愛されている』という、泥棒猫特有の浅薄なマウント。
ユリウスもまた、ワインのグラスを揺らしながら下卑た笑いを漏らした。
「全くだな、セレスティア。エレオノーラには本物の贅沢というものが分からんのだ。普段から『予算が』だの『節約が』だのと、しみったれた平民のようなことばかり言っているから、味覚まで貧相になる。おい、エレオノーラ。セレスティアの好意を無駄にする気か? 少しはそのワインを飲んで、素直に感謝の言葉でも口にしたらどうだ」
二人の視線が、嘲笑とともにエレオノーラへと突き刺さる。
前世の記憶が、一瞬、エレオノーラの網膜の裏をチリリと焼いた。
あの日。
喉を掻きむしり、内臓を焼き爛れさせられた、あの冷めきった紅茶のカップ。
あの時も、目の前でこの二人はこうして嘲笑い、乾杯を交わしていたのだ。
だが――。
エレオノーラの心臓は、もはや恐怖でも怒りでも跳ね上がらなかった。
胸中を満たしているのは、ただ氷のように冷たく澄み切った、絶対的な安全への確信。
(ええ、存分に嘲笑いなさいな。……私が、何の対策もなしにこの席に座っているとでも思っているのかしら?)
エレオノーラは膝の上に置いた白手袋の手を微かに動かした。
彼女のドレスの隠しポケットには、今朝、領地公認の筆頭医師を私室に呼び出して作成させた、一枚の公的な診断書が収められていた。
『アルトハイム侯爵夫人エレオノーラ殿。過労に伴う急性胃痙攣、ならびに消化器系の機能低下が認められる。今後三日間にわたり、固形物および酒類の摂取を厳禁とし、白湯のみによる絶対安静の絶食療法を処方する』
帝国医師ギルドの正式な魔導認証印が打たれた、完璧なカルテ。
これにより、エレオノーラが今宵の晩餐に一切手をつけない正当な医学的理由が、公的に確立されている。
もし後になってセレスティアが「前妻は私の料理を不当に侮辱した」と騒ぎ立てようと、あるいは万が一、この料理の中に前世のような毒物が混入されていて「妻を毒殺しようとした」と後から証拠をでっち上げようと――『最初から医師の指示で絶食していた』という事実の前に、あらゆる策動は無力化される。
エレオノーラは優雅にナプキンを膝から取り上げると、指先一つ汚すことなく、テーブルの端へと静かに置いた。
そして、慈愛に満ちた聖母のような、だが底知れぬ静謐を湛えた完璧な微笑みを浮かべた。
「お気遣い、心より感謝申し上げますわ、セレスティア様」
「え……?」
嘲笑に歪んでいたセレスティアの表情が、わずかに固まる。
悔しがるとか、憤慨するとか、そういった人間らしい反応が一切返ってこない。まるで、感情の通わない精巧な磁器の人形を見つめているかのような不気味さ。
「あいにく、今朝方より少々胃の腑が優れず、医師より一切の食事と美酒を禁じられておりますの。せっかくセレスティア様が、アルトハイム侯爵家の資金を湯水のように投じてご用意くださった素晴らしいご馳走ですのに……誠に残念でなりませんわ」
「な……資金を、湯水のようにだなんて……!」
セレスティアが眉尻を吊り上げる。
「あら、ご謙遜なさらないで。そのテーブルに並ぶお料理、食材の調達費と特急便の魔導魔石代だけで、金貨四百枚は下らないはずですわ。それに、そのワイン……帝都の裏市場で一本金貨三十枚の値がついている幻の銘酒でしょう? 私のような味気ない仕事女には、とても思いつかない大胆で華麗なご采配ですこと」
エレオノーラは鈴を転がすような滑らかな声で、皿の上の料理の原価と輸送費を、淀みなくスラスラと暴き立てていく。
セレスティアの顔が、微かに引きつった。
彼女自身は「一番高いものを頼めば一番素晴らしい」としか考えておらず、正確な金額など計算すらしていなかったのだ。
「ふ、ふん! 侯爵家の晩餐なのだから、そのくらいの金をかけるのは当然だろう!」
ユリウスが横から割り込み、空威張りを響かせる。
「セレスティアは我が家の品格を考えてくれたのだ! お前のように金勘定ばかりして客をもてなすことすら忘れた女に、セレスティアを批判する資格などない!」
「ええ、批判など毛頭ございませんわ」
エレオノーラは小さく頷き、静かに席から立ち上がった。
椅子の脚が床を擦る音すら立てない、完璧な所作。
「セレスティア様のおかげで、この屋敷がどれほど華やかになったか、骨身に染みて理解いたしました。……これ以上、私の陰気な姿で皆様の楽しい宴を汚しては申し訳ございません。お食事の途中ではございますが、私はこれにて自室へ引き取らせていただきます」
「おい、エレオノーラ! まだ私が話している最中だぞ!」
ユリウスの怒声が背中に浴びせられる。
だが、エレオノーラは立ち止まらなかった。
彼女は大理石の床の上で、優雅にスカートの裾を広げ、非の打ち所がない完璧な角度でカーテシーを捧げた。
そして、顔を上げ、二人を真っ直ぐに見据える。
その藍色の瞳の奥に広がるのは、満天の星空よりも深く、冷たい絶対零度の闇。
「――どうぞ、泥棒猫様と、末永くお幸せに」
ふわりと、唇が美しい弧を描く。
それは祝福の言葉でありながら、同時に、自業自得の地獄へと落ちていく者たちへの、慈悲なき宣告だった。
「な……っ!?」
セレスティアが言葉を失って息を呑み、ユリウスが立ち上がろうとして酒のせいで千鳥足になり、テーブルのグラスを倒して赤いワインをぶちまけた。
阿鼻叫喚の騒ぎが背後で広がる中、エレオノーラは一度も振り返ることなく、静かに大食堂の扉を押し開けて出て行った。
***
深夜二時。
大食堂での騒ぎが嘘のように、本館北翼の執務室は、凛とした静寂に包まれていた。
部屋の明かりは落とされ、カーテンの隙間から差し込む月の光だけが、磨き上げられた黒檀の執務机を青白く照らしている。
すでに私物はすべて運び出され、宝石箱も金庫も空っぽ。
この部屋に、エレオノーラ・フォン・ヘスブルクが五年間存在していたことを示す痕跡は、机の上に整然と並べられた『三通の書類』だけだった。
エレオノーラは漆黒の毛皮付き外套をしっかりと羽織り、革の手袋を引き締めながら、その三通の書類を見下ろした。
一通目。
『アルトハイム侯爵家・正妻身分ならびに領地管理権辞任届』。
当主ユリウスが愛人を引き入れ、正妻の権限を強制剥奪したことに伴う、合法的かつ完全な職務放棄の宣告書。エレオノーラの直筆署名と、実家ヘスブルク家の血統魔印が刻まれている。
二通目。
『婚姻生活維持および財産分離に関する事前合意公正証書』の正本写し。
帝国法務尚書ヴォルフラム・ライヒの公印と、ユリウス本人が第4話で読まずに署名捺印した、逃れようのない鉄の罠。エレオノーラが去った瞬間、領内の全信託財産が凍結され、全負債がユリウス個人の一身に降りかかる契約書。
そして、三通目――。
分厚い束となって置かれているのは、クライン商会、帝国中央銀行、近隣の資材業者、そして今宵の晩餐会のためにセレスティアが発注したツケ払いの明細に至るまでを網羅した、『今月末日・至急支払請求書一覧』。
その総額は、金貨四千五百枚。
金庫に残された「三千四百ゴルト(金貨三十四枚分)」では、利息の一割すら払えない天文学的な破滅の数字。
「……準備はすべて整いました、お嬢様」
背後から、旅装を整えたジゼルが、気配を殺した足取りで歩み寄ってきた。
その手には、必要最低限の荷物が入った小さなトランクが一つ。
「裏門の外、樹林の影に、クライン商会手配の漆黒の馬車が待機しております。御者は大公領の密偵。街道の見張りや関所の衛兵は、すでに大公閣下の『軍用通行証』によって完全に掌握されております。帝都を抜けるまで、何者の妨害も入りません」
「ありがとう、ジゼル。……本当に、長い五年だったわね」
エレオノーラは執務机の上に、三通の書類を文鎮代わりに銀のペンで押さえ、静かに部屋の扉へと向かった。
未練も、感傷も、一欠片すら湧き上がらない。
ただ、不良債権の処理をすべて終え、新しい優良企業へと転職する時のような、爽快なまでの身軽さだけがそこにあった。
二人は音もなく本館の裏階段を降り、勝手口から夜の庭園へと滑り出た。
冷たい夜風が、エレオノーラの頬を撫でる。
見上げる本館の南翼は、泥酔したユリウスとセレスティアが眠りこけているのか、灯り一つなく真っ暗だった。
自分たちが手に入れた城が、明日から音を立てて崩壊する砂の楼閣であることすら知らずに、泥棒猫は今頃、甘い夢を見ていることだろう。
裏門の鉄柵を抜けると、闇の中に溶け込むように、紋章を消した漆黒の大型馬車が佇んでいた。
馬車の前に立っていた黒づくめの御者が、エレオノーラの姿を認めるなり、音を立てずに深々と片膝をついた。
「大公妃殿下。……閣下より命を受け、お迎えに上がりました」
「ご苦労様。……出しましょう」
ジゼルに促され、エレオノーラは馬車のステップへと足をかけた。
車内に乗り込む直前、彼女はふと立ち止まり、冷たい夜空の下で、一度だけアルトハイム侯爵邸を振り返った。
月の光を浴びて、静まり返る巨大な屋敷。
地下霊廟で刻まれ始めた、結界解除のカウントダウン。
そして机の上で、主の目覚めを待つ山積みの請求書。
エレオノーラの薄い唇が、静かに、そしてこの上なく美しく弧を描いた。
「さようなら、アルトハイム。――明日から始まる地獄を、存分に味わいなさい」
バタン、と静かに馬車の扉が閉ざされた。
闇を裂いて車輪が回転を始め、漆黒の馬車は音もなく、北の果て――黒狼大公の待つ新天地へと向けて、夜の街道を疾走していった。




