第12話:残された山積みの請求書
遮光カーテンの隙間から差し込む陽光が、すでに中天近くまで昇っていることを無言で告げていた。
午前十時。
本館二階、最も日当たりが良く、手入れの行き届いた中庭を一望できる貴賓室――セレスティアがエレオノーラから強奪したその広大な寝室で、シルクのシーツがもぞりと蠢いた。
「ん……んん……もう、眩しいですわ……」
ミルクティー色の髪を乱し、あくびを噛み殺しながら上体を起こしたのはセレスティア・ランベルトだった。
薄手のネグリジェから覗く肌には、昨夜の狂乱の晩餐会で浴びるように呷った酒精の残り香が微かに漂っている。頭の奥がズキズキと重たく痛んだが、目蓋を開けた瞬間に飛び込んできた豪奢な光景が、その不快感を瞬く間に甘美な陶酔へと塗り替えた。
天井を見上げれば、見事な漆喰彫刻と金箔で彩られた天使のレリーフ。
背中を預けているのは、帝都の一流職人が仕立てた羽毛の特注ベッド。
床には毛足の長い羊毛の絨毯が敷き詰められ、部屋の隅には昨夜ユリウスに強請って運び込ませたばかりの最高級マホガニーの化粧台が誇らしげに鎮座している。
(ああ……夢じゃないわ! 私、本当にアルトハイム侯爵家の女主人になったのよ!)
セレスティアは口元にだらしのない笑みを浮かべ、胸の前で両手を組んだ。
昨日までの貧乏男爵邸での惨めな暮らしが、まるで遠い前世の悪夢のように思える。
あの狭苦しく隙間風の吹く部屋、擦り切れた木綿のドレス、小うるさい父親の小言。それらすべてから解放され、今や自分は帝国屈指の富裕領を統べる侯爵夫人の座を手に入れたのだ。
昨夜の晩餐会の光景を思い出し、セレスティアの喉からくすくすと意地悪な嗤いが零れる。
あの地味で陰気な正妻――エレオノーラ。
せっかく用意してやった最高級の料理に一口もつけられず、胃が痛いだの何だのと見苦しい言い訳を並べ立て、逃げるように食堂から去っていったあの哀れな背中。
自分とユリウス様の愛の深さを見せつけられ、正妻としての誇りを完全にへし折られたに違いない。
「ふふっ、ざまあみろですわ。いくら小利口に帳簿が読めたって、殿方の心を掴めない女なんてただの召使いと同然ですもの。今日からは、この可憐な私が贅沢の限りを尽くして、ユリウス様を存分に癒やして差し上げますわ!」
セレスティアはベッドサイドテーブルの上に置かれていた、純銀製の呼び鈴を手にとった。
貴族の奥方が、朝の身支度を命じるための合図。
チリン、チリリン――と、甲高く澄んだ銀の音が静寂な寝室に響き渡る。
「おいでおいで、私の侍女たち。早く最高級の温かい朝湯を用意して、ハチミツをたっぷり入れたミルクティーをお持ちなさい。今日のドレスは、あの桃色のフリルをふんだんに使った特注品を着てあげますわ」
セレスティアは足を組み、顎をツンと反らせて扉を見つめた。
数人のメイドたちが青ざめた顔で駆け込んできて、自分の足元に傅き、靴を履かせ、髪を梳かす――そんな絵画のような優越の光景を待ち受けていた。
だが。
一分が過ぎ、二分が過ぎても、誰も入ってこない。
いつもならベルの音が一つ鳴るだけで、廊下を小走りに駆ける足音が聞こえてくるはずだった。それなのに、重厚な扉の向こうからは、不気味なほどの完全な静寂しか返ってこない。
「……なんなの? 耳が腐っているのかしら、あの下賤な使用人どもは!」
苛立ちを募らせたセレスティアは、ベルを親の仇のように激しく振り回した。
ジャラン! ジャララン! ガランガラン!
静かな朝の廊下に、耳障りな金属音が狂ったように乱打される。
「ちょっと! 誰か来なさいよ! 新しい女主人がお呼びですわよ! 早く来ないと全員クビにして――」
セレスティアが金切声を張り上げた、その瞬間だった。
ドタドタドタッ! と、普段の侯爵邸では決して許されないような、無作法で取り乱した足音が廊下を疾走してきた。
そして次の瞬間――。
バァァァンッ!!
乱暴に押し開かれた両開きの扉が、壁に激突して凄まじい轟音を立てた。
「ひゃっ……!?」
セレスティアは悲鳴を上げてシーツを胸元まで引き上げた。
入ってきたのは、従順な若いメイドたちではなかった。
息を乱し、肩を激しく上下させ、顔面を土気色――いや、まるで今しがた処刑場から逃げ戻ってきた死人のように蒼白にした男。アルトハイム侯爵家の老執事、ルートヴィヒ・ホルストその人だった。
「な、何なのよルートヴィヒ! ノックもなしに女主人の部屋に踏み込むなんて、無礼にも程がありますわ! ユリウス様に言いつけて、その場でお暇を出して――」
「お、奥様ァァァッ!!」
セレスティアのヒステリックな怒声を、老執事の絶望に満ちた叫びが完全に圧殺した。
ルートヴィヒは普段の完璧な礼法など完全にかなぐり捨て、血走った目を剥き出しにしてベッドの脇へと駆け寄ってきた。
そして、その両腕の中には――。
抱えきれないほどの、凄まじい量の書類の山が存在していた。
厚手の羊皮紙、赤い紐で縛られた台帳、封蝋が乱暴に破られた督促状の束。その高さは優に一メートルを超え、老執事の視界を完全に遮るほどの異様な威容を誇っていた。
ドサァァァッッ!!
ルートヴィヒが腕の力を失い、ベッドの足元にある豪奢なペルシャ絨毯の上に、その紙の巨塔をぶちまけた。
バサバサと乾いた音を立てて散らばる、おびただしい数の請求書と明細書。舞い上がった埃が、セレスティアの鼻をツンと刺激する。
「な、何よこれ……! このゴミの山は一体何の真似ですの!?」
「ゴミなどではございませんッ! お、奥様……! 前奥様――エレオノーラ様が、昨夜のうちに屋敷から姿を消されましたッ!!」
「……は?」
セレスティアは間の抜けた声を漏らした。
頭が状況を処理しきれない。
「姿を、消した……? あの地味女が?」
「はい! 北翼の執務室も私室も完全にもぬけの殻! 私物の一切が運び出されており、机の上にはサイン済みの『辞任届』が残されているのみでございます!」
「ふ、ふん……な、何よそれ!」
セレスティアは一瞬狼狽えたものの、すぐに鼻を鳴らして嘲笑を浮かべた。
「ただの夜逃げじゃないの! 私に女主人の座を奪われ、ユリウス様に見捨てられたショックで、実家に泣き寝入りして逃げ帰ったのね! 結構なことじゃありませんこと! 目障りな前妻が勝手に消えてくれたんだから、お祝いのパーティーを開かなくては――」
「お祝いなどしている場合ではございませんッ!!」
ルートヴィヒが床に膝をつき、絨毯を爪が剥がれんばかりに掻きむしりながら絶叫した。
その瞳から、大粒の脂汗と涙がボロボロと零れ落ちる。
「消えたのはエレオノーラ様だけではないのです! これをご覧ください! 今朝、帝都の各大商会、魔導ギルド、果ては帝国中央銀行から、我が侯爵邸の鉄門へ雪崩のように叩きつけられた……本日正午までに決済が必須となる『至急支払請求書』の山でございます!!」
「せ、請求書……?」
セレスティアは眉をひそめ、絨毯の上に散らばった書類の一番上にあった、豪奢な金縁の羊皮紙をおずおずと拾い上げた。
文字を読むこと自体が億劫だったが、そこにデカデカと刻まれていた『数字』が、彼女の視覚へダイレクトに飛び込んできた。
『アルトハイム東部河川・新式堤防補修工事費(第一期完工分)
至急請求額:金貨一、二〇〇枚(一億二、〇〇〇万ゴルト)』
「……へ?」
セレスティアの喉から、間の抜けた乾いた音が漏れた。
一瞬、自分の目が狂ったのかと思った。何かの冗談か、平民の使う小銭の単位の見間違いではないかと。
だが、震える指で慌てて二枚目の書類をめくる。
『北方防衛線・領地自警団および雇用騎士団糧食費(先月分一括)
至急請求額:金貨八〇〇枚(八、〇〇〇万ゴルト)』
三枚目。
『昨夜開催・公式晩餐会用特急冷凍食材ならびに年代物古酒仕入れ代金
至急請求額:金貨一五〇枚(一、五〇〇万ゴルト)』
四枚目、五枚目、六枚目――。
『香料工房・古代蒸留器用高純度魔晶石燃料代:金貨六〇〇枚』
『領民用備蓄穀物倉庫・定期防腐結界維持費:金貨四五〇枚』
『帝都高級洋服店・セレスティア嬢発注ドレス特急仕立て代:金貨二〇〇枚』――。
めくっても、めくっても、終わらない。
並んでいる数字の桁が、すべて「金貨数百枚」「数千枚」という、貧乏男爵令嬢の常識を遥かに超越した天文学的な暴力となって、セレスティアの脳髄を激しく殴打する。
「な、ななな……何よこれぇぇっ!? いち、千二百枚!? 八百枚!? 昨日のご飯だけで金貨百五十枚ですってぇぇ!? ば、馬鹿じゃないの!? どうしてこんな紙切れが私のところに回ってくるのよ!!」
セレスティアは悲鳴を上げて書類を宙に放り投げた。
ヒラヒラと舞い落ちる高額請求書の群れ。
「こんなの、あのエレオノーラが勝手にやったことに決まってますわ! あいつが自分で払えばいいじゃないの! あいつが領地の仕事をしていたんでしょう!?」
「払えるわけがございませんッ!!」
ルートヴィヒが血を吐くような声で叫ぶ。
「これらはすべて! これまで前奥様が、ご自身の実家ヘスブルク家から持ち込まれた持参金、ならびに前奥様個人が経営されていた香料工房の莫大な売上金から、『自腹で立て替え払い』をされていたものなのです!!」
「じ、自腹……!? 立て替え……!?」
「左様にございます! 我が侯爵家の公金口座は、先代の放蕩の負債により、最初から火の車だったのです! それを前奥様が、ご自身の類稀なる商才と財産を注ぎ込み、すべて先回りして決済されていたからこそ、屋敷の食事も、騎士団の給与も、領地のインフラも、何不自由なく維持されていたのでございます!」
ルートヴィヒは床に散らばる書類の中から、ひときわ分厚い、深紅の帝国公印が打たれた羊皮紙を掲げた。
それは、第4話でユリウスが中身を一行も読まずにサインした、あの『公正証書』の正本写しだった。
「ですが昨夜、前奥様が姿を消されたと同時に、帝国法務尚書閣下より『信託財産分離命令』が帝国中央銀行へ通達されました! 前奥様の個人口座は完全に凍結・分離! そしてこの公正証書第十二条に基づき――『正妻が立て替えていた全立替金の求償権は、直ちに現領主ユリウス・フォン・アルトハイム個人の一身に請求されるものとする』!! 銀行も商会も、前奥様の口座から金が引き落とせないと知るや否や、一斉に我が侯爵家の金庫へ直接取り立てに押し寄せてまいったのでございますッ!!」
ルートヴィヒの絶叫が、寝室の壁をビリビリと震わせる。
セレスティアの視界が、ぐにゃりと歪んだ。
血の気が一気に引き、指先が氷のように冷たくなっていく。
嘘よ。
そんなはずはない。
だって、ユリウス様は言っていたじゃないか。
『領地が栄えたのは、アルトハイム侯爵たる俺の血統と器量のおかげだ』と。
『あの女はただ、我が家の威光の元で書類仕事をしていただけの道具にすぎん』と。
道具だったんじゃないの?
ただの地味な帳簿係だったんじゃないの?
なぜ、その女がいなくなった途端に、世界中の借金が自分の頭上に降ってくるというの――!?
「う、嘘よ……! だ、大丈夫よ、だってアルトハイム家は大貴族ですもの! 金庫! 地下の金庫に行けば、山のような金貨が眠っているはずですわ! 昨日ユリウス様も、いくらでも使っていいと仰ったもの!」
セレスティアはベッドから転がり落ちるように這い出すと、素足のまま、昨夜サロンの大理石テーブルから引っ掴んできた真鍮の巨大な鍵束を床から抱え上げた。
重たい。冷たい。五キログラムを超える真鍮の塊が、まるで罪人を繋ぐ鉄枷のように腕に食い込む。
「金庫よ! 金庫を開ければいいのよ! ついてらっしゃい、ルートヴィヒ!!」
ネグリジェの裾を踏みそうになりながら、セレスティアは髪を振り乱して本館の廊下を疾走した。
老執事が青ざめた顔で後ろを追う。
大階段を駆け下り、地下への重厚な鉄扉を抜け、冷気漂う大金庫室の前へ。
アルトハイム侯爵家が代々、莫大な富を蓄えてきたとされる、厚さ三十センチの鋼鉄の扉。
「どれよ、どの鍵なのよッ!?」
セレスティアは震える手で鍵束を弄り、手当たり次第に鍵穴へ突き刺した。
ガチリ、と重厚な手応えとともにシリンダーが回る。
セレスティアは息を呑み、全体重をかけて巨大な鋼鉄のハンドルを回し、扉を押し開けた。
「開きなさい! 私の……私の黄金の山――!!」
ギギギ……と、錆びた蝶番が耳障りな悲鳴を上げて、鉄扉が開け放たれた。
そして。
その扉の向こうに広がっていた光景を目にした瞬間――。
「………………え?」
セレスティアの喉から、空気の抜けるような細い音が零れ落ちた。
広大な地下大金庫室。
テニスコートほどもあるその石造りの空間は――異様なほどに、がらんどうだった。
金貨の山など、どこにもない。
眩い宝石箱も、輝く銀塊も、美術品の一片すらない。
埃の積もった冷たい石床の中央に、ポツンと、無造作に転がされていたのは――古びた木箱がたったの二つ。
「な……な……」
セレスティアは膝から崩れ落ちるように木箱へ駆け寄り、爪を割きながらその蓋を跳ね上げた。
カラン……。
乾いた、惨めな音が響いた。
木箱の底に転がっていたのは、わずかばかりの黒ずんだ銀貨と、数枚の銅貨。
そして――昨夜、セレスティアが「前祝い」と称して開けさせた高級ワインの空き瓶数本と、ツケ払いの受領伝票の切れ端。
ルートヴィヒが、死刑宣告を下す処刑人のような声で、背後から無慈悲な現実を告げた。
「……申し上げたはずです、奥様。我が侯爵家の口座は、昨夜の公正証書に基づき、前奥様名義の全資産が差し押さえ・信託分離されました。現在、この金庫に残されている流動資産の総額は……銀貨換算で、わずか三千四百ゴルト(金貨約三十四枚分)。……本日正午までに支払わねばならぬ額の、百分の一にも満たないのでございます」
「さ、さんぜん……よんひゃく……?」
セレスティアの瞳孔が、極限まで収縮した。
三千四百ゴルト。
昨夜自分が食べた料理の、わずか十分の一。
首に巻いている模造ルビーの首飾りの代金すら払えない、路地裏の平民のポケットマネーのような端金。
手元から、真鍮の鍵束がガシャンと音を立てて床に滑り落ちた。
冷たい。重い。
これは、富の象徴などではなかった。
最初から中身をすべて抜き取られ、莫大な借金の返済義務と、逃げ場のない破滅の責任だけがぎっしりと詰め込まれた――呪われた処刑台の鍵だったのだ。
「あ……あ、あ……」
セレスティアの喉が、引き攣った痙攣を起こした。
呼吸ができない。心臓が早鐘のように狂い打ち、視界が真っ白に明滅する。
頭の中で、エレオノーラが昨夜残していった最後の言葉が、恐ろしい鐘の音のようにリフレインしていた。
『どうぞ、泥棒猫様と、末永くお幸せに』
『念願叶って手に入れた侯爵家の栄華ですわ。どうぞ、存分に女主人の責務を果たしてくださいませ』
あの聖母のような微笑み。
あの冷徹で、寸分の狂いもない、絶対零度の嘲笑。
(嵌められた……! あの女、最初から全部わかっていて……! この空っぽの泥舟を、私に笑顔で丸投げして逃げ出したんだわ……ッ!!)
理解した瞬間、全身の毛穴から冷汗が噴き出した。
過呼吸になったセレスティアの口元から、タラリと白い泡が零れ落ちる。
美しく塗り固めていた化粧は涙と汗でドロドロに崩れ、剥き出しになった両目が、白目を剥いて天を仰いだ。
「あ、あばば……っ、お、金……金貨四千枚……堤防……自警団……ひ、ひぃぃぃっ!!」
ガタガタと歯の根が合わずに震える顎。
努力を嫌い、他人の汗の結晶に寄生して贅沢を貪ることしか能のなかった泥棒猫が、初めて直面した『現実』という名の巨大な鉄槌。
だが、絶望の時間は待ってはくれなかった。
地下金庫室の天井の上――地上の本館エントランスから、ドンドン! ドンドン! と、鉄門を叩き壊さんばかりの激しい怒号と、押し寄せる債権者たちの怒りの足音が、地鳴りのように響き渡り始めたのだ。
『金を出せ! アルトハイム侯爵を出せ!』
『堤防の工事代金を払え! 払えないなら領地を差し押さえるぞ!』
その怒号を耳にした瞬間、セレスティアの脳の回路が完全に焼き切れた。
「い、いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッッッ!!」
セレスティアは床の鍵束を蹴飛ばし、四つん這いになって地下室の階段を駆け上がった。
乱れたネグリジェの裾を泥と埃で汚し、血走った目で廊下を狂乱疾走する。
目指す場所はただ一つ。
本館最奥の寝室で、まだ呑気に高いびきをかいて眠りこけているはずの、あの男の元へ。
「ユリウス様ァァァッ!! 起きて! 起きてくださいましユリウス様ァァァッ!!」
静まり返っていたアルトハイム侯爵邸の全館を、泥棒猫のこの世の終わりを告げるような金切声が、木霊となって切り裂いていった。
「お金が! お金がどこにもありませんのーーーッッ!!」




