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第13話:皇帝の勅許

帝都ガルツブルクの中心に聳え立つ、白亜と青銅の巨城――インペリアル・カイザー宮殿。

その最深部に位置する「白金(はくきん)の大朝堂」は、今まさに帝国全土から集った数百名に及ぶ高位貴族、軍部高官、国務尚書たちの発する重苦しいざわめきに包まれていた。


床には一面、磨き抜かれた純白の大理石が敷き詰められ、数十本の大理石円柱が天を突くように立ち並んでいる。天井には歴代皇帝の戴冠を描いた壮大なフレスコ画と、数百個の魔導ランタンが眩いばかりの光を投げかけていた。

豪奢な絨毯の敷かれた階段の頂点。

一段高い玉座に腰掛けているのは、神聖ガルツブルク帝国の最高権力者――皇帝ヴィルヘルム四世である。

黄金の鷲を模した宝冠を戴き、白毛皮をあしらった真紅の皇衣を纏った四十代半ばの君主は、鋭い鷲鼻と深い知性を宿した青灰色の瞳で、眼下に整列する群臣たちを冷然と見下ろしていた。


毎月一度開かれる定例の帝国最高朝議。

本来であれば、各州の徴税報告や国境警備の定例審議が淡々と進行するはずの厳粛な儀式だった。

しかし、その進行は、唐突に鳴り響いた重厚な号砲によって完全に中断されていた。


ドォォォン……!


宮殿の外苑から響き渡る、皇族の緊急入場を告げる儀礼砲の地鳴り。

次いで、大朝堂の正面に位置する、樹齢千年の巨木から削り出された青銅張りの大扉が、左右へ向けて重々しく押し開かれた。


「――皇弟殿下、ヴァルハイト大公クラウス閣下、御入来ッ!!」


近衛長槍兵のけたたましい奏上が堂内に木霊した瞬間、並み居る諸侯たちの息が止まった。

ざわり、と水面に小石を投じたような動揺が、前列の公爵・侯爵たちから後列の官僚たちへと一気に波及していく。


「な……黒狼大公閣下だと……!?」

「北境の防衛線を司る総司令官が、なぜ帝都の朝議におられるのだ!」

「召喚の勅命など出ていなかったはず……まさか、北方で大規模な反乱でも起きたのか!?」


動揺と戦慄の視線が集中する中央通路。

そこを、軍靴の硬質な足音を大理石に響かせながら、一人の偉丈夫が大股に進み出てきた。


クラウス・フォン・ヴァルハイト。

漆黒の軍服に、銀の飾緒と最高位の戦功勲章。肩には、万年雪の吹雪をそのまま纏ってきたかのような、巨大な黒狼の毛皮付き軍外套を翻している。

短く刈り込まれた夜色の髪、彫刻のように無駄のない精悍な美貌。

そして何より、見る者を物理的に射竦めるような、爛々と光を放つ猛獣の『黄金の瞳』。


クラウスが一歩を踏みしめるごとに、周囲の貴族たちが無意識のうちに半歩、後ずさる。

戦場で数万の魔獣を屠り、敵国の軍勢を灰塵に帰してきた「帝国の牙」。その全身から滲み出る濃密な覇気と、北方の極寒の冷気配は、温室育ちの帝都貴族たちにとっては呼吸困難に陥るほどの威圧だった。


クラウスは左右のざわめきを一瞥もせず、玉座へ続く中央通路を真っ直ぐに突き進んだ。

階段の最下段、皇帝の御前わずか十歩の距離まで達すると、翻した外套の裾を床に沈め、音もなく片膝を突いた。


ドスッ、と重厚な軍靴の音が止まる。

胸に右拳を当てる、帝室最高の臣従の礼。


「北境総督ヴァルハイト大公クラウス。兄上――皇帝陛下に、拝謁仕る」


低く、深く響き渡るバリトン。

玉座の皇帝ヴィルヘルム四世は、頬杖をついていた右手を解き、わずかに眉を持ち上げた。その表情には、突然現れた異母弟に対する警戒と、同時に、幼少期よりその卓越した才覚と苛烈な性格を知る者としての、深い興味が混ざり合っていた。


「……何の騒ぎかと思えば、我が帝国の黒狼か。北方の守りを副官に任せ、竜を飛ばして帝都へ乗り込んでくるとは、尋常の用件ではあるまいな。国境線が破られたわけでもなさそうだが?」


「畏れながら、兄上」

クラウスは顔を上げ、黄金の瞳を真っ直ぐに玉座へと据えた。

「軍事の急報ではございません。……我がヴァルハイト大公家の存亡、ならびに我が生涯の命運に関わる、至極私的、かつ国家の法秩序に関わる重大な裁断を仰ぎにまいりました」


「私的な命運、だと?」

皇帝が怪訝そうに目を細めた。

女色に一切興味を示さず、権力争いにも加わらず、ただ北の防壁として剣を振るうことだけに生涯を捧げてきたあのクラウスが、「私的な用件」で朝議に現れること自体、天変地異に等しい異常事態だった。


クラウスは軍服の懐から、恭しく二通の羊皮紙を取り出した。

近衛兵が銀の盆を持って駆け寄り、それを受け取って玉座の皇帝へと捧げ持つ。


「兄上。アルトハイム侯爵ユリウスの正妻――エレオノーラ・フォン・アルトハイムは、昨夜、侯爵ユリウスによる度重なる不義および契約違反、ならびに双方の合意に基づく事前公正証書の発効により、婚姻関係が法的に完全に消滅いたしました」


クラウスの宣告が朝堂に響いた瞬間、周囲の貴族たちから「な……っ!?」と息を呑む声が上がった。

アルトハイム侯爵夫人。

帝都の貴族であれば、その名を知らぬ者はいなかった。没落寸前だったアルトハイム領を驚異的な手腕で立て直し、富裕領へと押し上げた稀代の内助の功。

その正妻が、離縁したというのか。


だが、クラウスの次の言葉は、朝堂に集った者たちの度肝を完全に叩き割った。


「よって――我がヴァルハイト大公家は、エレオノーラ・フォン・ヘスブルク殿を、我が唯一無二の正妻、ヴァルハイト大公妃として迎え入れることを正式に申請いたします。……皇帝陛下におかれましては、この婚姻に対し、速やかなる『勅許』を賜りたく存じます」


「な、何だとォォッ!?」

「大公妃だと!? あの離縁されたばかりの侯爵夫人を!?」

「正気か!? 人妻を奪うなど、いくら大公閣下といえども前代未聞の不祥事ではないか!」


朝堂が蜂の巣をつついたような騒乱に包まれた。

保守派の老貴族たちが色めき立ち、口々にクラウスの暴挙を非難しようと声を張り上げる。

皇帝ヴィルヘルム四世もまた、手元の羊皮紙を見つめながら、険しい眼光で弟を睨みつけた。


「クラウス。貴様、他家の妻に横恋慕し、力尽くで略奪したというのか? アルトハイム侯爵は我が帝国のれっきとした門閥貴族ぞ。いかに貴様が大公であろうと、法を蔑ろにした横暴は許されんぞ」


「横恋慕でも、略奪でもございません」

クラウスは眉一つ動かさず、平然と言い放った。

「すべては帝国基本法に則り、寸分の瑕疵もなく執行された正規の法的手続きでございます。――その証人は、すでにそこに控えております」


クラウスが背後へ視線を送ると、大朝堂の列の最前列、文官たちの筆頭に立っていた男が、静かに一歩前に進み出た。


黒の厳格な法服に身を包み、銀縁の眼鏡の奥に剃刀のような冷光を宿した男。

帝国法務尚書兼最高法務官――ヴォルフラム・ライヒ卿である。


「……ライヒ尚書」

皇帝が視線を向けると、ヴォルフラムは眼鏡の位置を人差し指で押し上げ、感情の籠もらない冷徹な声で一礼した。


「陛下。法務省を代表し、臣ヴォルフラムが証言申し上げます。……大公閣下の仰る通り、此度の婚姻解消、ならびに再婚申請に際し、現行帝国法における違反および瑕疵は、ただの一条、一文字たりとも存在いたしません」


「何だと? 説明せよ、ヴォルフラム」


「はっ」

ヴォルフラムは携えていた分厚い法務省の記録台帳を開き、朝堂全体に響き渡る明瞭な声で読み上げ始めた。


「第一に、帝国夫婦財産管理法第42条。貴族令嬢が実家より持ち込みたる持参金および特許技術は、妻個人の信託財産として保全されます。アルトハイム侯爵は、愛妾たる男爵令嬢セレスティア・ランベルトを本館へ迎え入れるにあたり、正妻エレオノーラ様との間で『婚姻関係の維持および財産分離に関する事前合意公正証書』に、自らの自由意志により直筆署名・捺印を行いました」


ヴォルフラムは、ユリウスの署名が記された公正証書の謄本を掲げた。


「当該契約第十二条には、明確に記されております。『当主ユリウスが正妻以外の女性を家内秩序の頂点に据えた場合、正妻はその役務および婚姻関係を即座に破棄する権利を有し、侯爵家は妻個人の全資産・技術を即時無条件で返還・免責しなければならない』と。……侯爵ユリウスは、正妻に女主人の鍵束を強制的に手放させ、愛妾に引き継がせました。これにより、契約の解除条件が完全に成立。昨日正午をもちまして、両名の婚姻関係は法的に自然消滅しております」


「ぐ……っ」

騒ぎ立てていた貴族たちが、一斉に言葉を失った。

法務尚書の公印が押された公正証書。そこに当主ユリウス本人の直筆署名がある以上、どれほど外野が騒ごうと、法律上は「夫が自ら妻を放逐し、契約を終了させた」としか解釈できないのだ。


「さらに」

ヴォルフラムは眼鏡を光らせ、追撃の一手を放った。

「夫人は昨日付で正式な辞任届を提出し、ヘスブルク伯爵家の籍へと復籍されております。法的に完全なる独身女性であり、大公閣下との婚姻を阻む障害は何一つ存在いたしません」


静まり返る朝堂。

法を何よりも重んじるヴォルフラムがここまで完璧に墨付きを与えている以上、いかなる法学者も異議を唱えることは不可能だった。


玉座の皇帝ヴィルヘルム四世は、手元の二通の書類――クラウスの婚姻申請書と、エレオノーラが作成した公正証書の写しを、じっくりと検分した。

その瞳の奥で、帝国を統べる冷徹な統治者としての計算が、目まぐるしく回転していた。


(……アルトハイム侯爵ユリウスか)


皇帝の胸中に、苦々しい記憶が去来する。

先代の残した莫大な負債に喘いでいた侯爵家。それがここ数年、目覚ましい復興を遂げ、帝国屈指の納税額を誇るようになったため、当主が改心したのかと思っていた。

だが、実情はまるで違っていた。

昨冬、北境守備隊が飢餓に瀕した際、アルトハイム領からの救援物資に添付されていたあの完璧な輜重配分計画書。あれを見た時、皇帝自身も「ユリウスのような愚鈍な男に、これほどの軍略眼があるはずがない」と強い疑念を抱いていたのだ。

すべては――正妻であるエレオノーラの手腕だったのか。


(その至宝を手放し、一介の男爵令嬢の甘言に溺れて正妻を追い出した挙句、法的な罠に自ら首を突っ込んで破滅の引き金を引いたか……。どこまでも救いようのない無能め)


皇帝は内心で、ユリウスに対する底知れぬ失望と怒りを噛み締めていた。

門閥貴族の血統にあぐらをかき、国家の屋台骨たる有能な人材を使い潰すような愚物に、くれてやる慈悲など一滴もない。


視線を、床に膝をつく弟クラウスへと戻す。


(対して、このクラウスだ)

北方の過酷な大地。万年雪と瘴気に覆われ、歴代の皇帝たちがどれほど予算を注ぎ込んでも解決できなかった、帝国最大の国防上のアキレス腱――北境の兵站危機。

もし、ヘスブルク家の古代浄化結界と、エレオノーラの類稀なる経営頭脳がヴァルハイト領に注ぎ込まれればどうなるか。

不毛の地が穀倉地帯へと変貌し、北境守備軍の食糧自給が達成されれば、帝国の軍事力と国家財政は飛躍的な安定を得る。

そして何より――生涯、女を寄せ付けず、後継者を作る気すらなかったこの冷徹な皇弟が、一人の女性のためにここまで必死になり、頭を下げて勅許を乞うているのだ。


(国家にとっても、帝室にとっても、これ以上の利益があるか? ……否、断じて否だ)


皇帝の口元に、統治者特有の冷徹にして獰猛な笑みが浮かんだ。

ヴィルヘルム四世はゆっくりと玉座から立ち上がった。

威厳に満ちたその姿に、数百人の貴族たちが一斉に息を呑み、平伏する。


「……静粛に」


皇帝の重厚な声が、朝堂の隅々まで染み渡る。


「法務尚書の証言、ならびに提出された公正証書を検分した。アルトハイム侯爵ユリウスの不義、ならびに正妻に対する義務の放棄は明白である。法を犯し、自ら至宝を手放した愚者に、帝室が肩入れする理由は微塵もない」


皇帝は玉座の脇に控える侍従長へ右手を差し出した。

侍従長が恭しく差し出したのは、帝国の最高主権を象徴する、純金とオリハルコンで鋳造された巨大な印章――『帝国皇帝の玉璽』。


「エレオノーラ・フォン・ヘスブルクの才覚は、前大戦における北境支援の功績を含め、我が帝国にとって国家の宝たる価値を持つ。その類稀なる頭脳を正当に遇し、帝国の防壁たる北境の再建に役立てることは、国家安全保障上の至高の要請である」


皇帝はクラウスの婚姻申請書を机の上に広げると、躊躇なく、その重厚な玉璽を振り下ろした。


ドォォォンッ!!


鈍く、しかし大朝堂の床を揺るがすほどの重々しい重低音が響き渡る。

朱と黄金の魔導インクが弾け、羊皮紙の上に、絶対不可侵の帝室紋章が焼き付けられた。


皇帝ヴィルヘルム四世が高らかに宣告する。


「――勅許する! エレオノーラ・フォン・ヘスブルクを、正当なるヴァルハイト大公妃と認める! 我が帝国臣民のいかなる者も、この決定に異議を唱えることは叶わん。これに背く者は、帝室に対する反逆罪とみなし、直ちに処刑に処す!」


「「「ははぁぁぁッ!!」」」


朝堂を埋め尽くす全貴族が、一斉に額を床に擦り付け、皇帝の絶対意志に服従の礼を捧げた。

決まった。

国家の最高法規、そして皇帝の絶対権力による、不可逆の婚姻承認。

これで、後からユリウスがどれほど泣き喚こうと、セレスティアがどれほど被害者を気取ろうと、エレオノーラに指一本触れることはできない。彼女に手を伸ばした瞬間、帝国全軍の刃が彼らの首を撥ねるのだ。


「法務尚書ヴォルフラム」

玉座の皇帝が冷然と命じる。


「はっ」


「直ちにアルトハイム侯爵邸へ、帝室特使を派遣せよ。『皇帝勅許・婚姻解消通知書』、ならびに『エレオノーラ大公妃殿下に対する一切の接触・財産返還要求の禁止令』を突きつけて参れ。……もし侯爵が不穏な動きを見せた場合は、近衛兵を派遣し、その場で拘束することを許可する」


「御意にございます。直ちに執行官を向かわせます」

ヴォルフラムが深々と一礼し、眼鏡の奥で冷酷な笑みを浮かべた。


皇帝は再び視線を落とし、片膝をついたままの弟を見つめた。

その声音には、皇帝としてではなく、一人の兄としての微かな苦笑が混ざっていた。


「……満足か、クラウス」


「はっ。兄上の英断に、心より感謝申し上げます」


クラウスは頭を垂れた。

しかし、その伏せられた顔貌――男の唇は、獲物を完全に囲い込み、巣穴へと持ち帰る瞬間を迎えた野獣のように、獰猛かつ妖艶に吊り上がっていた。


(手に入れたぞ……エレオノーラ)


胸ポケットに収められた、皇帝の玉璽が押された承認状。

もはや誰にも邪魔はさせない。

あの愚かな侯爵の屋敷で泥を被り、擦り切れていた我が愛しき軍師を、世界で一番贅沢に、世界で一番甘やかに迎え入れるための、絶対の切符が今、手の中に落ちた。


立ち上がったクラウスの背後で、黒毛皮の軍外套が風を孕んで大きくはためく。

その黄金の瞳の奥で、アルトハイム侯爵領の自滅を嘲笑うかのような、冷酷無比な処刑の炎が静かに揺らめいていた。

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