第14話:激昂する無能
ガン、ガン、ガン、と頭蓋骨の芯に直接響くような鈍い衝撃音が、執務室の窓を揺らし続けていた。
「金を出せ! アルトハイム侯爵を出せ!」
「堤防の工事代金、今日が期日のはずだぞ!」
「穀物の先払い代金を返せ! 払えないなら屋敷の家財を差し押さえるぞ!」
本館正門の頑丈な鉄柵の向こうから、何十人もの債権者、商人、下請けの親方たちが吐き散らす怒号が、風に乗って容赦なく執務室へと吹き込んできていた。
普段であれば、門番や自警団が槍を構えて追い払っていたはずの平民どもだ。しかし、先ほどから門番の姿はなく、自警団の詰め所も不気味な静寂に包まれていた。昨日セレスティアが「無駄な出費」として給与の半額カットを言い渡し、武器の修繕費すら拒絶した結果、自警団員たちの士気は完全に崩壊し、屋敷の警備をボイコットしていたのだ。
本館一階の執務室。
かつてエレオノーラが座り、寸分の狂いもなく領地全土の帳簿を管理していたその机の上は、いまや見るも無残な有様と化していた。
床一面にぶちまけられた、数百枚におよぶ支払請求書と督促状。
『至急決済』『本日正午限度』『差押予告』といった、鮮血のような赤インクで印字された警告の文字が、白い紙面を埋め尽くしている。
そして、その紙屑の海の中心――執務机の奥に沈み込んでいたのは、アルトハイム侯爵家現当主、ユリウス・フォン・アルトハイムだった。
「くそっ……! 何なんだ、あの下賤な豚どもは……! 当主であるこの私に向かって、門前で怒鳴り散らすなど……不敬にも程があるぞ!」
ユリウスの顔は、怒りと恐怖で赤黒く鬱血していた。
仕立ての良いフロックコートの胸元は乱雑にはだけ、金髪は手ぐしで掻きむしられてボサボサに逆立っている。
机の上には、すでに空になった高級ブランデーの角瓶が二本転がり、手元のクリスタルグラスからは琥珀色の酒精がテーブルクロスへとこぼれ落ちていた。
朝十時、セレスティアが金切声を上げて寝室に飛び込んできてから、ユリウスはこの部屋に引きこもり、押し寄せる現実から逃げるように酒をあおり続けていたのだ。
「ユ、ユリウス様ぁ……っ!」
執務机の足元、絨毯の上にペタリとへたり込んでいたセレスティアが、涙でドロドロになった顔をすり寄せてきた。
派手なピンクのドレスの裾は埃まみれになり、自慢のミルクティー色の巻き髪は乱れ放題。朝方、地下金庫の「三千四百ゴルト」という惨状を目の当たりにして白目を剥いて以来、彼女の神経は完全に限界を迎えていた。
「どうなさるおつもりですの!? 外の商人たちが、今にも門を破って押し入ってきそうですわ! それに、あの金貨四千枚の請求書……! 早く、早くどこかからお金を工面してくださいまし! 私、平民の借金取りになんて捕まりたくありませんわ!」
「うるさい! 喚くなセレスティア! 私の頭に響くだろうが!」
ユリウスは苛立ちまぎれに怒鳴り散らし、手元のグラスを一気に呷った。
喉を焼くアルコールの熱さ。だが、どれほど酒を流し込んでも、胃の底にへばりついた冷たい恐怖は一ミリも消え去らなかった。
――金庫に、金がない。
そんな馬鹿な話があるはずがないのだ。
アルトハイム侯爵家は、帝国屈指の名門だ。毎年、数千万ゴルトもの莫大な利益を上げていたはずなのだ。
それなのに、老執事ルートヴィヒはぬけぬけと言い放った。
『その利益はすべて、前奥様が経営する工房や特許から生み出されていた個人資産でございます』と。
『侯爵家本来の財政は、先代からの負債により、最初から破綻していたのでございます』と。
「嘘だ……あいつが、あの地味な女が、すべてを握っていたなど……! 領地が潤っていたのは、アルトハイム家の威光のおかげだ! 私の高貴な血統のおかげだったはずだ!!」
ユリウスは激しい認知の歪みの中で、自らのプライドを守るために怒号を上げた。
認められるはずがなかった。自分が無能で、女一人の手腕と財産に寄生していただけの空っぽな道化だったなどと、このナルシストの精神が受け入れられるはずがない。
「全部あいつのせいだ……! エレオノーラが、私への当てつけのために、屋敷の金を勝手に隠して逃げ出したに決まっている! 恩知らずな女め! あんな地味で色気のない女を、侯爵夫人の座に据えて養ってやっていたこの私の大恩を忘れ、このような卑劣な嫌がらせを仕掛けてくるとは……!」
「そ、そうですわ、ユリウス様!」
セレスティアが藁にもすがる思いで同調した。
「あの女の仕業ですわ! 私に嫉妬して、屋敷をめちゃくちゃにするために罠を仕掛けたんですのよ! 早く憲兵隊を呼んで、あの女を捕まえさせてくださいまし! そして盗んだ金を全部吐き出させれば――」
「ああ、そうだ! すぐに実家のヘスブルク伯爵家へ使者を送る! 娘を連れ戻せと怒鳴りつけてやる! 私の前に膝をつかせて、全額弁済の誓約書を書かせて――」
ユリウスが机を叩いて立ち上がろうとした、まさにその時だった。
ズシィィィン……!
執務室の重厚な扉の向こうから、統制の取れた重い軍靴の地響きが近づいてきた。
門前で騒いでいた平民どもの怒号が、潮が引くようにピタリと止まる。
ドガァン!
ノックすらなく、執務室の扉が外側から勢いよく押し開けられた。
部屋に飛び込んできたのは、アルトハイム家の使用人でも、怒れる債権者たちでもなかった。
青地に金の刺繍をあしらった、豪奢にして威厳に満ちた軍礼服。
胸元には、皇帝直属の証である「双頭の黄金鷲」の徽章を佩用した、四名の帝国近衛兵。
そして、その中央から冷然と歩み出てきたのは――帝国法務省の紋章を刻んだ黒の法服を纏う、冷徹な壮年の法務官だった。
「な……な、何だ、お前たちは!?」
ユリウスは酒気を帯びた目を丸くし、千鳥足で後退った。
「ここはアルトハイム侯爵家の私室だぞ! 近衛兵が何の権利があって土足で踏み込んでくる!」
法務官は眉一つ動かさず、足元に散らばる酒瓶や請求書の残骸を一瞥すると、侮蔑を隠そうともしない冷徹な声で宣告した。
「帝国法務省上級執行官、ならびに帝室特使である。――アルトハイム侯爵ユリウス殿、神聖なる皇帝陛下の勅令を伝達する。直ちに跪いて拝聴せよ」
「ひ、皇帝陛下の……勅令……!?」
ユリウスの喉が引き攣った。
近衛兵たちの冷たい白刃が鞘の中でカチャリと鳴る。その殺気配に呑まれ、ユリウスは膝の震えを抑えきれず、ガクガクと音を立てて床に崩れ落ちた。セレスティアも怯えきってユリウスの背中に隠れる。
執行官は懐から、眩いばかりの金糸で縁取られた、純白の最高級羊皮紙を取り出した。
先端には、深紅の封蝋とともに、帝国最高主権を象徴するオリハルコンの刻印――皇帝ヴィルヘルム四世の直筆玉璽が燦然と輝いている。
執行官が厳かに、朝堂での決定を読み上げた。
「――主文! 帝国皇帝ヴィルヘルム四世の名において宣告する。
アルトハイム侯爵ユリウスと、正妻エレオノーラ・フォン・ヘスブルクの婚姻関係は、侯爵の重大なる背信行為、ならびに双方の合意に基づく事前公正証書の発効により、本日付をもって【法的に完全消滅】したことを勅許する!」
「な……っ!?」
ユリウスの頭を、見えない金槌が殴打した。
婚姻が、消滅した……?
皇帝の、勅許によって……!?
「ば、馬鹿な! 私は離婚申請など出していないぞ! 何かの間違いだ! あいつは私の妻だ、私が許さない限り離縁などできるはずが――」
「黙れ、無知なる者よ」
執行官は無慈悲に言葉を遮った。
「貴殿自身が署名捺印した公正証書の条文に基づき、法務尚書閣下が適法性を確認、今朝の帝国最高朝議において皇帝陛下が直接玉璽を押印されたのだ。いかなる抗弁も、皇帝陛下への反逆とみなされる」
そして、執行官は羊皮紙の後半へと視線を移し、さらに残酷な一言を放った。
「重ねて勅命を伝達する。――婚姻解消に伴い、エレオノーラ・フォン・ヘスブルク殿は、皇弟殿下・ヴァルハイト大公クラウス閣下との婚姻を正式に結ばれ、本日付をもちまして【ヴァルハイト大公妃】の座に就任された!」
静まり返る執務室。
一秒。
二秒。
三秒。
ユリウスの脳内で、言葉の意味が反芻される。
エレオノーラが。
あの地味で、無骨で、帳簿ばかり見ていた、自分の所有物だったはずの女が。
帝国軍の最高司令官であり、皇帝の異母弟であり、社交界の頂点に君臨する――あの『黒狼大公』クラウスの、正妻になった……?
「……は?」
ユリウスの口から、間抜けな裏返った声が漏れた。
次の瞬間、彼の全身の血管が、沸騰した油を流し込まれたかのように暴発した。
「はあぁぁぁぁぁぁぁッッ!?!? り、離婚が成立しただとォォッ!? しかも、エレオノーラの奴があの化け物大公の元へ走っただとォォッ!?!?」
ガッシャアァァァンッッ!!
ユリウスは手元にあったクリスタルグラスを、部屋の壁めがけて全力で叩きつけた。
飛び散る鋭利な破片と、赤い血のように壁を伝い落ちる酒の飛沫。
「ふざけるな! ふざけるなァッ!! あの女、狂ったのか!? あんな血生臭い北の田舎武官のところに、自分から這い寄っていったというのか!? アルトハイム侯爵であるこの私という、至高の夫を捨てておいてッ!!」
ユリウスは髪を振り乱し、口角から白い泡を飛ばしながら喚き散らした。
激しい、あまりにも凄まじい認知の歪み。
「恩知らずなアマめ! 当てつけだ! 私への当てつけに決まっている! 私がセレスティアを愛したから、嫉妬に狂って、あんな冷酷無比な男のところへ身売りしたんだ! 私に『惜しい女を逃した』と後悔させたいがために、そんな下劣な真似をしおって!!」
ユリウスの頭の中では、世界は常に自分を中心に回っていた。
エレオノーラが自分を愛していないはずがない。
あんな地味な女を娶ってやった自分に、一生感謝して平伏するのが当然なのだ。
だからこそ、彼女が大公の元へ行ったのも、「自分を振り向かせたいがための稚拙な駆け引き」だと、本気でそう信じ込もうとしていた。
「ゆ、ユリウス様……! 大公妃だなんて、そんな……! あの女が、私より上の身分になるなんて嘘ですわよね!? 何かの間違いですわよね!?」
セレスティアもまた、現実を受け入れられずにユリウスの腕にしがみついて泣き叫ぶ。
自分は侯爵夫人になって、あの女を見下して優越感に浸るはずだったのだ。それなのに、相手が皇族の妃――自分が逆立ちしても手の届かない雲の上の存在になったなど、耐えられるはずがない。
「安心しろ、セレスティア!」
ユリウスはセレスティアの肩を乱暴に抱き寄せ、自らに言い聞かせるように空威張りを爆発させた。
「あんな味気ない仕事女が、あの大公に愛されるはずがない! 大公は女を寄せ付けない冷血漢で有名だ! どうせ、持参金か何かに目が眩んで一時的に拾われただけに決まっている! 一ヶ月も経たないうちに飽きられ、北の雪山に放り出されて野垂れ死ぬのが関の山だ!」
ユリウスは下卑た嗤いを浮かべ、鼻を鳴らした。
「見ているがいい! すぐに泣きついてくるぞ! 『ユリウス様、私が愚かでした、どうか屋敷に戻してください』と、泥水を啜りながらこの足元に縋り付いてくるに決まっている! その時が来ても、絶対に許してやらん! 使用人の一番下の雑用係として、家畜小屋の掃除でもやらせてやる!!」
哀れなまでの現実逃避。
破滅の淵に立たされている自分自身の姿が見えず、どこまでも他者を見下すことでしか自我を保てない無能の極致。
その醜態を、執行官はまるで汚物を見るような冷え切った眼差しで見届けていた。
執行官は無言のまま、金縁の羊皮紙を机の上に放り投げると、事務的な声音で最後の一文を告げた。
「……侯爵ユリウス殿。その勅令の末尾を、しかと確認されるが良い」
「ああん? 末尾だと?」
ユリウスは苛立ち紛れに、机の上の羊皮紙を乱暴に引っ掴んだ。
そこに記されていたのは、極小の法務文字で刻まれた、帝室からの最終通告だった。
『附則:
本日以降、元夫ユリウス・フォン・アルトハイム、ならびにアルトハイム侯爵家関係者による、エレオノーラ大公妃殿下に対する一切の接触、書簡の送付、面会の強要、ならびに財産返還要求を永久に禁止する。
――本勅令に違反し、大公妃殿下の尊厳を侵さんとした場合、これを帝室に対する叛逆行為とみなし、即座にヴァルハイト大公領軍による【領地全域への直接武力制裁】、ならびに当主の身柄拘束を執行する』
「……な、何だと……?」
ユリウスの目が点になった。
接触の禁止。
財産返還要求の禁止。
違反した場合は――大公領軍による、武力制裁……!?
「ざ、ふざけるな……! 私の元妻だぞ!? 私が何を要求しようと、我が家の勝手だろうが! あいつが持って行った金は、アルトハイム侯爵家の金だ! それを返すなだと!? あまつさえ、軍を差し向けるだとォォッ!?」
「通告は完了した」
執行官はユリウスの怒声を完全に無視し、冷ややかに背を向けた。
「これ以降、貴殿が大公妃殿下に近づいた瞬間、その首が胴体から離れるものと心得よ。……行くぞ」
近衛兵たちが一糸乱れぬ足音を響かせ、踵を返す。
執行官たちは一度も振り返ることなく、嵐のように執務室を去っていった。
「待て! 待て貴様ら! 皇帝陛下に取り次げ! 私はアルトハイム侯爵だぞォォッ!!」
廊下に響き渡るユリウスの虚しい絶叫。
だが、扉はバタンと無情に閉ざされ、二度と開くことはなかった。
一人取り残された執務室。
ユリウスの呼吸は荒く乱れ、血走った目は狂気に染まっていた。
手元にある、皇帝の玉璽が押された金縁の羊皮紙。
自分を縛り、自分を侮辱し、あの地味な女を奪い去った、忌まわしい命令書。
「調子に乗りおって……! 調子に乗りおってェェッ!!」
ビリッ!!
凄まじい破裂音が、静まり返った部屋に響いた。
ユリウスは理性を完全に失い、皇帝の勅許状の両端を掴むと、力任せに引き裂いたのだ。
「誰が従うか! 誰があんな女の命令など聞くものかァッ!!」
ビリッ! ビリビリッ!
金糸の刺繍が引き千切られ、皇帝の玉璽が真っ二つに割れる。
ユリウスは狂った獣のように羊皮紙をズタズタに引き裂くと、床に撒き散らし、自らの軍靴で激しく踏み躙った。
「接触禁止だと!? 武力制裁だと!? 笑わせるな! 帝国軍が私のような名門侯爵に手を出せるはずがない! 脅しだ! ただのコケ脅しに決まっている!!」
グシャリ、と引き裂かれた警告文の残骸を絨毯に擦り付ける。
皇帝の勅令を破棄し、踏みにじるという、国家反逆の現行犯――取り返しのつかない致命的な死亡フラグを、己の手で完璧に成立させた瞬間だった。
「見ていろ、エレオノーラ……!」
ユリウスは息を荒げ、歪んだ嘲笑を唇に浮かべた。
「お前が泣きついてくるのを、私はここで待ってやる! 北の果てで大公に殴られ、犯され、ボロボロになって捨てられるがいい! その時になって後悔しても、もう遅いのだからな!!」
「そうですわ、ユリウス様……! あんな女、すぐに酷い目に遭いますわ……!」
セレスティアもまた、床の紙屑を見つめながら、毒々しい呪詛を吐き散らした。
破滅への道を自ら全力疾走している二人の道化。
彼らはまだ、知らなかった。
――ピキリ。
ユリウスが怒鳴り声を上げた、その瞬間。
執務室の窓の外、遥か東の空の彼方――アルトハイム領の境界線を覆っていた、あの目に見えない黄金の防護壁の奥底から。
耳を澄まさねば聞こえないほど微小な、しかし確実に世界を揺るがす――『結界の最初の軋み音』が、大気を震わせて鳴り響き始めていたことを。
一日、三・三パーセントの減衰。
守り手を失った大地が、静かに、そして確実に、地獄への扉を開き始めていた。




