↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
15/24

第15話:黒き巨城への迎え入れ

帝都を包んでいた春の温もりは、北へ向かうにつれて急速に色を失い、やがて鋭利な刃物のような冷気へと変わっていった。


大公家直属の紋章を排した特務馬車は、悪路をものともせず疾走していた。

車軸には高度な振動吸収の魔導術式が組み込まれ、車内には地熱鉱石を用いた温風器が備え付けられているため、外の過酷な寒風が嘘のように快適な温度が保たれている。

二昼夜にわたる強行軍。

道中の関所や宿場町では、大公直筆の『最高級軍用通行証』が一瞥されただけで、守備兵たちが青ざめて最敬礼を捧げ、検問すら受けることなく道が開かれた。ユリウスの手勢どころか、帝都のいかなる権力者であろうとも追いつくこと叶わぬ、完璧な脱出行だった。


そして三日目の朝――馬車の車窓から見えた景色に、エレオノーラは思わず息を呑んだ。


見渡す限りの銀世界。

天を突き刺すように聳え立つ、峻険極まりない黒嶺(こくれい)山脈。

岩肌を万年雪が白く覆い、峰々の間からは冷たい霧が立ち上っている。過酷にして雄大、人の脆弱な甘えを一切拒絶するような、峻厳なる自然の聖域。

ヴァルハイト大公領。

帝国の北の果てにして、凶暴な魔獣の群れと外敵から国を守り続ける、帝国最強の防壁。


「……お嬢様、見えてまいりました」


対面に座るジゼルが、息を呑むような微かな声を漏らした。

窓の外、吹き荒れる吹雪のカーテンがふっと裂けたその先――垂直に切り立った黒い絶壁の頂に、それは聳え立っていた。


黒狼城(ヴォルフスブルク)。

漆黒の玄武岩を積み上げて築かれたその巨城は、まるで山脈そのものが巨大な魔獣へと姿を変え、大地に低く蹲っているかのような威容を誇っていた。

幾重にも張り巡らされた巨大な防壁、天を衝く見張り塔の列、そして城壁の随所に刻まれた、歴戦の砲撃と爪痕を物語る無数の補修跡。

アルトハイム侯爵邸のような、貴族の見栄と贅沢のために塗り固められた華美な装飾は一切ない。そこにあるのは、敵を屠り、民を守り抜くためだけに極限まで研ぎ澄まされた、圧倒的な機能美と軍事の重圧だった。


ゴオオォォォ……と、城門の上空から地鳴りのような咆哮が轟いた。

見上げれば、青空を切り裂いて巨大な影が旋回している。

黒き鱗を持つ二頭の軍用竜――『黒狼竜騎兵団』の哨戒部隊だ。

馬車が近づくのを視認した巨竜たちは、誇らしげに一度大きく旋回すると、城内へ向けて低く角笛のような合図を響かせた。


ズズズズズ……ッ!!


大地を揺るがす地響きとともに、黒狼城の外郭を守る三重の跳ね橋が下ろされた。

次いで、厚さ一メートルを超える黒鉄の巨大城門が、重厚な鎖の軋み音を立てて左右へと開かれていく。


「入城いたします」


御者の落ち着いた声とともに、馬車は滑らかな黒石敷きの坂道を登り、堅牢な城門の闇をくぐり抜けた。


***


門を抜けた瞬間、エレオノーラは全身の肌が粟立つのを感じた。

馬車が滑り込んだのは、城の中央に広がる、練兵場を兼ねた「黒狼大広場」だった。

そこに広がっていた光景は、エレオノーラの予想を遥かに、そして圧倒的に超えていた。


整列していた。

見渡す限りの漆黒の重装甲冑。

手入れの行き届いた長槍を寸分の狂いもなく直立させ、黒漆の盾を構えた数千名に及ぶ精鋭騎士団――帝国最強と恐れられる『黒狼騎士団』の全軍が、微動だにせず広場の両脇を埋め尽くしていたのだ。

寒風に靡く、銀の刺繍で黒狼の家紋を刻んだ幾百もの軍旗。

さらにその後方には、大公家の文官、家臣団、そして分厚い防寒具に身を包んだ数千人の領民たちが、幾重にも列をなして整然と立ち並んでいた。


水を打ったような静寂。

吐く息の白さだけが、冷たい大気の中に立ち上っている。

数千の視線が、中央の石畳を進む一台の馬車へと、一斉に注ぎ込まれていた。


コト、と馬車が広場の中央、大天守へ続く石階段の前で静かに停車した。


「……お嬢様」

ジゼルが緊張に喉を鳴らし、無意識に姿勢を正した。

「この数……大公領の全騎士団と、主要な家臣が総出で出迎えております。……まるで、皇帝陛下の御親征をお迎えするかのごとき最高格式の儀礼です」


「ええ……」


エレオノーラは膝の上に置いた白手袋の手をぎゅっと握りしめた。

胸の奥で、心臓が早鐘のように打っている。


前世の記憶が、否応なく去来する。

五年前、アルトハイム侯爵家に嫁いだあの日。

出迎えたのは、まばらな使用人たちと、冷淡なユリウスの視線だけだった。

『没落しかけた貧乏伯爵家の娘が、我が名門アルトハイムの富に目が眩んで嫁いできた』

『顔も地味で、愛想もない。当主様のお心を掴めるはずがない』

屋敷の隅々から投げつけられた、値踏みと侮蔑、嘲笑の眼差し。

前世のエレオノーラは、その冷酷な視線に耐えかねて縮こまり、自分を責め、認められたくて身を粉にして働き続けたのだ。


だが――。


(逃げては駄目よ、エレオノーラ)


エレオノーラは小さく息を吸い込み、冷徹な理性の背骨を真っ直ぐに立て直した。

自分は逃げてきたのではない。

不良債権をすべて清算し、自らの才覚と力によって、この過酷な北の地に新たな居場所を勝ち取るためにやってきたのだ。

たとえ北の荒くれ者たちに「南の温室育ちの離婚令嬢」と蔑まれようと、冷淡に迎えられようと、一歩も引く気はない。半年以内にこの大地を再生させ、その実力で黙らせてみせる。


「ジゼル、参りましょう」


「はい、大公妃殿下」


ジゼルが恭しく扉に手をかける。

カチャリ、と真鍮のノブが回され、馬車の豪奢な扉が外側へと押し開かれた。


ヒュオッ……と、北方の冷たく冴え渡る風が車内へと雪崩れ込んでくる。

エレオノーラは漆黒の毛皮付き外套の裾を整え、顔を上げ、凛とした眼差しで馬車のステップへと最初の一歩を踏み出した。


その瞬間――。


ザッッッッ!!


数千人の動作が寸分の狂いもなく完全に同調した、凄まじい地鳴りのような音が大広場に轟き渡った。

広場を埋め尽くしていた数千の黒甲冑の騎士たちが、一斉に長槍の石突を石畳に叩きつけ、腰の長剣を抜いて自らの胸元へと掲げたのだ。

軍旗が一斉に翻り、家臣団と領民たちが深々と頭を垂れる。


エレオノーラは息を呑んだ。


見下ろす広場。

そこに満ちていたのは――値踏みでも、軽蔑でも、余所者を排斥する冷たい嘲笑でもなかった。

騎士たちの鋭い双眸に、家臣たちの引き締まった表情に、そして寒風に頬を赤くした領民たちの瞳に宿っていたのは。


――純粋な、狂おしいほどの『敬意』と『熱狂』。


『あのお方だ……!』

『昨冬、飢餓に瀕した我らに命の食糧を届けてくださった、あの指示書の主……!』

『大公閣下が、命を懸けて連れて帰ってこられた、我らの大公妃殿下だ……!』


声には出さずとも、肌を焼くような熱烈な念が、冷たい風に乗ってエレオノーラの全身へと押し寄せてくる。

誰も彼女を「サレ妻」などと蔑んでいなかった。

誰も彼女を「他家を追い出された女」などと嘲笑っていなかった。

ここにいる数千の命は皆、彼女がかつて注いだ慈悲と知性を知っており、北の過酷な冬を共に戦い抜いてくれる真の主君として、心からの歓喜をもって彼女を迎えていたのだ。


(ああ……)


エレオノーラの胸の奥底で、何かがカチリと音を立てて崩れ落ちた。

前世の五年間にわたって彼女を縛り付け、心を苛み続けていた「私は誰にも必要とされていない」という冷たい呪縛が、北の民たちの熱い視線によって、春の雪解けのように急速に溶かされていく。


ザッ、ザッ、ザッ……。


静まり返る広場に、重厚な軍靴の足音が一つだけ、響き渡った。

大天守へ続く石階段の上から、一人の男がゆっくりと降りてくる。


群青の空の下、漆黒の正装軍服を纏った巨躯。

飾緒の銀と、胸元に並ぶ最高位勲章が冷たい陽光を反射している。

彫刻のように研ぎ澄まされた冷徹な美貌。

帝国全軍の総司令官にして、この過酷な北境を統べる絶対君主――クラウス・フォン・ヴァルハイト。


男が歩み寄るにつれ、周囲の騎士たちがさらに深く頭を垂れる。

歴戦の猛者たちですら直視を恐れる「黒狼」の覇気。

だが――馬車の前に立つエレオノーラを捉えた瞬間、その黄金の瞳に宿った光を、部下たちは信じられない思いで見つめた。


戦場では氷のように冷酷で、敵を前にして笑うことすら稀なあの主君の顔筋が。

エレオノーラの姿をその瞳に映した瞬間、まるで長年探し求めていた奇跡をその腕に抱き留めたかのように――優しく、誇らしげに、蕩けるように緩んでいたのだ。


クラウスは馬車の前まで歩み寄ると、エレオノーラの目前で足を止めた。

わずか一歩の距離。

男の纏う、冷たい吹雪の匂いと、それに相反する熱い体温の気配が、エレオノーラの鼻腔をくすぐる。


「……無事の到着、何よりだ」


低く、深く響くクラウスの声。

その声音には、昨夜帝都の私室でぶつけてきたような激しい激情は抑え込まれていたが、代わりに、骨の髄まで染み渡るような絶対の慈しみが滲んでいた。


「道中、寒くはなかったか。……無理な強行軍を強いたな」


「いいえ、閣下。大公家のご配慮の行き届いた馬車のおかげで、何の苦もございませんでしたわ」


エレオノーラは背筋を伸ばし、完璧な微笑みとともに答えた。

冷徹なビジネスパートナーとしての礼儀。

だが、クラウスは彼女のその「一線を引いた態度」を、これ以上許す気など毛頭なかった。


クラウスはふっと口元を緩めると、広場を埋め尽くす全軍、全家臣、全領民へ向けて、雷鳴のごとき朗々たる声を張り上げた。


「――全軍、聞けッ!!」


ビシィッ!! と、数千の兵士たちの背筋がさらに伸びる。


「我が隣に立つこの御方こそ、神聖なる皇帝陛下の勅許を受け、本日付をもって我がヴァルハイト大公家へ入輿された我が正妻――エレオノーラ・フォン・ヴァルハイト大公妃殿下であられる!!」


大広場を揺るがす主君の宣言。

しかし、クラウスの言葉はそれだけでは終わらなかった。

彼は左右に居並ぶ家臣団、そして副官ヨアヒムをはじめとする軍の幹部たちを冷徹に見据え、決定的な統治命令を下したのだ。


「重ねて命ずる! 大公妃エレオノーラ殿は、単なる我が妻にあらず! 本日より、大公領内の全財政権、農政権、物資配分権、ならびに兵站監査権の最高責任者――【我が大公領軍の筆頭軍師】として全権を掌握される!!」


ざわり、と家臣団の間にどよめきが走った。

妻に実権を与えるだけではない。軍の心臓部である兵站と財政の全指揮権を、公の場で完全に委譲したのだ。


「大公妃殿下の下す命令は、我が勅命と同等であると心得よ! 殿下の指揮に背く者は、私に対する反逆とみなし、何者であっても軍法会議を経ずに即座に斬首する! ――全軍、我が妃に忠誠の礼を捧げよッ!!」


「「「ハッッッッ!!!!」」」


数千人の怒号が、天を衝くように轟き渡った。

大地が震える。

単なるお飾りとしての「奥様」ではない。

大公領の最高統治権を半分分け与えられた、絶対の権力者としての公認。

ユリウスのように妻の才覚を嫉妬から隠蔽し、搾取するのではなく、世界中の誰よりも高く評価し、全軍の上に君臨させるという、クラウスなりの最も苛烈で誠実な愛の証明だった。


そして――。

その圧倒的な熱狂の中心で。

常勝の英雄、帝国最強の武神クラウス・フォン・ヴァルハイトが、信じがたい行動に出た。


ザッ……!


重厚な軍靴を鳴らし、クラウスがエレオノーラの目の前で、自らその長身を折り曲げたのだ。

数千の部下たち、家臣たち、領民たちの見守る白昼の広場のど真ん中で。

大公自らが、雪の残る冷たい石畳の上に片膝をつき、エレオノーラを見上げるように傅いた。


「か、閣下……!?」


エレオノーラが息を呑み、思わず半歩後退りそうになった。

公衆の面前で、皇弟大公たる主君が妻に対して膝をつくなど、貴族社会の常識では絶対にあり得ない。


だが、クラウスは逃がさなかった。

彼の大きな手が、エレオノーラの白手袋に包まれた右手をそっと掬い上げた。

手袋の布地越しに、男の逞しい指の力強さと、熱い体温が伝わってくる。


クラウスはエレオノーラの華奢な手甲へ、祈りを捧げる巡礼者のように、恭しくその熱い唇を落とした。


チュッ、と静かな広場に触れ合う微かな音が響く。


全軍が息を呑む静寂の中。

クラウスは顔を上げ、その黄金の瞳に狂おしいほどの愛と誇りを湛えながら、エレオノーラを見つめて低く囁いた。


「――ようこそ、我が愛しき軍師殿」


「……っ」


「我が領地、我が軍、そして私の命のすべてを、今日から君に捧げよう。……存分に、この国を君の色に染め上げてみせろ」


風が吹き抜け、エレオノーラの黒髪をふわりと舞い上げた。

手甲に触れた唇の熱さが、全身を痺れさせるように駆け巡っていく。


見渡せば、跪く数千の精鋭たち。

天に翻る黒狼の旗。

そして、己の足元に命ごと傅く、帝国最強の男。


もう、孤独に泣く必要はない。

もう、理不尽に奪われることも、冷遇に震えることもない。

ここが――私の、新たな戦場。

そして、私を世界で一番高く買い取った、最高の王の隣。


エレオノーラの唇が、ゆっくりと、この上なく気高く、美しく吊り上がった。


「――ええ、謹んでお引き受けいたしますわ、私の旦那様」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。