第16話:氷の大公領の真実
黒狼城の主塔最上階に位置する大公執務室は、四方を堅牢な黒玄武岩に囲まれた、軍事要塞の心臓部にふさわしい空間だった。
南向きの巨大なアーチ窓からは、白銀に煙る黒嶺山脈の雄峰と、眼下に広がる広大な城下町が一望できる。暖炉には太い薪が赤々と爆ぜ、外の猛吹雪を寄せ付けないほどの心地よい温もりが部屋を満たしていた。
部屋の中央に置かれた長大な一枚板の作戦机の上には、縮尺五千分の一で描かれたヴァルハイト大公領の軍事全図と、山のように積み上げられた革表紙の台帳が整然と並べられている。
その机の前に、エレオノーラはいた。
身に纏うのは、大公家から贈られた深い濃紺の上質なウールドレス。袖口と襟元には白狐の柔らかな毛皮があしらわれ、首元にはヘスブルク家の家紋を刻んだ銀のチョーカーが誇らしげに光っている。
アルトハイム侯爵邸で着せられていた、すり切れかけた地味な仕事着とは比べものにならない極上の着心地。だが、彼女の瞳に宿る光は、豪奢な衣装に浮つくことなど微塵もない、冷徹極まりない「実務家の輝き」そのものだった。
「――では、大公妃殿下。こちらが我がヴァルハイト領における、過去三十年間の兵站収支報告書、ならびに帝国陸軍省への物資請求台帳でございます」
作戦机の対面に立つ男が、一礼とともに分厚い台帳の束を差し出した。
ヨアヒム・ベルン。
クラウス大公の幼馴染であり、大公軍の情報統括長兼筆頭副官を務める二十代半ばの青年貴族だ。
緩く波打つ亜麻色の髪に、理知的な細身の眼鏡。常に飄々とした柔らかな笑みを絶やさない男だが、その細められた双眸の奥には、猛獣の群れを束ねる参謀特有の油断のない観察眼が光っていた。
ヨアヒムは恭しく頭を下げながらも、その内心では冷ややかな観察を続けていた。
(……皇帝陛下の勅許が下り、閣下が全軍の前で『筆頭軍師』と宣言されたとはいえ、お相手は昨日まで帝都の温室で暮らしていた侯爵夫人だ。実家の資金力や特許を背景にしていたとはいえ、この極北の軍事拠点のリアルな帳簿が、令嬢上がりの貴婦人にどこまで理解できるものか……)
ヴァルハイト領の経営は、帝都の生温い貴族領のそれとは根底から異なる。
万年雪に閉ざされた痩せた土地。地下から湧き出る有毒な瘴気。国境を越えて侵入してくる魔獣の群れ。食糧自給率は帝国最低の十二パーセントであり、軍を維持するための穀物は、帝都の商人から足元を見られながら高値で買い付けるしかなかった。
複雑怪奇に絡み合った軍事物資の流通過程と、三十年分の赤字の累積。歴代の優秀な輜重官たちですら頭を抱え、胃を痛めて匙を投げたこの魔の帳簿を前に、新婚の大公妃が青ざめて泣き言を漏らすのではないか――ヨアヒムはそう推測していたのだ。
だが。
エレオノーラは眼鏡を鼻梁に押し上げると、手袋を外した白い指先で羽ペンを取り、無言で台帳を開いた。
ペラリ、ペラリ……。
乾いた羊皮紙のめくられる音だけが、静寂な執務室に響く。
一分、二分、五分。
エレオノーラの視線は、紙面に並ぶ無数の数字の羅列を、まるで風が吹き抜けるような速度で走査していく。迷いも、詰まりも一切ない。その藍色の瞳は、複雑に絡み合った数字の網の目から、致命的な歪みだけを正確に捉えていた。
カチャリ。
エレオノーラは卓上の赤インク壺にペンの先を浸すと、迷いのない筆致で、台帳の数カ所に容赦のない赤線を走らせた。
「副官殿」
「は、はい。何でございましょうか、大公妃殿下」
予想外の速さに、ヨアヒムはわずかに瞬きをして応じた。
エレオノーラは顔を上げず、ペン先で台帳の特定の行をトン、と叩いた。
「帝国暦335年から340年にかけての、第三補給線における耐寒馬の飼料購入記録……この輸送費、実勢価格の二・四倍に跳ね上がっていますわね。同時期に契約されている帝都の『バルツァー商会』への特急運賃名目のキックバックです。当時の兵站担当官は、私腹を肥やすために書類を偽造しています」
「……え?」
「それから、こちら。毎年秋口に計上されている、防壁維持用の魔晶石の購入明細。純度六十パーセントの粗悪石であるにもかかわらず、最上級の高純度魔石としての代金が支払われていますわ。差額の金貨三千枚は、帝都の魔導ギルド支部と結託した横領です。極めつけは、この物流の滞留箇所……領都手前の第三関所において、穀物輸送隊が理由もなく十日間留め置かれ、その間の『保管料』という名目で年間金貨一万枚がドブに捨てられています。関所役人と輸送業者の癒着ですわね」
サラサラと、淀みなく紡ぎ出される告発。
エレオノーラは帳簿から目を離すと、眼鏡を外し、冷え切った完璧な微笑みをヨアヒムへと向けた。
「三十年分の監査資料を拝見しましたが……大公領の赤字の四割は、自然環境によるものではなく、歴代の官僚たちが『北方の過酷な環境』を言い訳にして垂れ流してきた、杜撰な中抜きと不正によるものですわ。この三箇所を今すぐ法務省の監査官に差し押さえさせ、契約をクライン商会の直轄ルートへ切り替えれば、今年度の軍事兵站費はそれだけで金貨三万枚が浮きます。……いかがかしら?」
「…………」
ヨアヒムは言葉を失い、喉を激しく上下させた。
背中を冷たい汗がつうと伝い落ちる。
十日でも、一時間でもない。
わずか十分足らず。
三十年分の膨大な資料を一瞥しただけで、軍の監査部が何ヶ月もかけて調査し、証拠を掴めずにいた巨額横領の構造と、物流のボトルネックを完全に看破してみせたのだ。
(化け物か……!? いや、それ以上だ……! これほどの会計監査能力と市場感覚を持った頭脳が、なぜこれまで帝都の片隅の侯爵邸に埋もれていたんだ……!?)
ヨアヒムは姿勢を正し、今度は一切の軽薄さを捨て去り、歴戦の将軍に接するかのような深い敬意を込めて最敬礼を捧げた。
「……恐れ入りました、大公妃殿下。浅学なるこのヨアヒム、殿下の類稀なるご慧眼に心より平伏いたします。直ちに憲兵隊を動かし、ご指摘の関所役人とバルツァー商会の身辺調査に入らせます」
「ええ、よろしく頼むわね」
エレオノーラは淡々と頷いた。
その胸の奥で、静かな、しかし確かな高揚感がふつふつと湧き上がるのを自覚していた。
(……ああ。なんて、心地よいのかしら)
前世の記憶が脳裏を過る。
アルトハイム侯爵邸で、夜を徹して領地の不正を暴き、改善案を提出した時、元夫ユリウスは何と言ったか。
『女のくせに小賢しく数字を並べ立てるな』
『俺の領地の運営にケチをつける気か』
『お前のような味気ない仕事女と一緒にいると、息が詰まる』
努力を嘲笑われ、成果を踏みにじられ、数字を「女の小細工」と切り捨てられたあの日々。
だが、ここでは違う。
提出した数字の価値を、目の前の副官は一瞬で理解し、敬意を払い、即座に軍の行動へと反映させていく。
自分の専門知識と血の滲むような努力が、正当に評価され、機能する快感。
エレオノーラは、自分が今、かつてないほど自由に呼吸していることを実感していた。
「さて……」
エレオノーラは立ち上がり、机の中央に広げられた巨大なヴァルハイト領の全図へと歩み寄った。
「不正の是正は、単なる止血作業にすぎません。本題に入りましょう。――この領地を、真に自立した帝国随一の穀倉地帯へと変革するための計画です」
エレオノーラが地図に目を落とすと、部屋の奥、巨大な暖炉の前に立っていた人影が、音もなく歩み寄ってきた。
クラウスだった。
漆黒の執務服に身を包み、腕を組んだまま、静かにエレオノーラを見下ろしている。
その金の瞳には、妻の圧倒的な手腕を前にして驚愕する気配など微塵もなかった。あるのはただ一つ――「当然だ、私の見初めた妃は世界一なのだから」という、酷く誇らしげで、狂気的なまでの信頼の光だった。
「聞かせてくれ、エレオノーラ。君の描く設計図を」
低くハスキーなクラウスの声が、耳朶を甘く擽る。
「はい、閣下」
エレオノーラは地図の南半分――領都のすぐ南側に広がる、赤黒い斜線で塗りつぶされた広大な荒野を指し示した。
「現在、帝国全土において、このヴァルハイト領南部は『万年氷土と瘴気の吹き溜まり』と呼ばれ、生物の生存すら拒絶する死の地帯と恐れられております。……ですが、実地調査の測量記録と、地質サンプルの魔力密度を照合いたしましたところ、極めて奇妙な矛盾が浮かび上がりました」
「矛盾、だと?」
ヨアヒムが身を乗り出す。
「ええ。もしこの広大な瘴気が、魔獣の巣穴や自然発生的な呪詛によるものであるならば、土壌の魔力波長は『混沌』を示すはずです。しかし、記録されている波長は、極めて均一で、人工的……そう、まるで何かの巨大な術式が暴走し、大気中に滞留しているかのような規則性を持っています」
エレオノーラは手元の一冊の古文書を開いた。
大公家の地下書庫から取り寄せさせた、三百年前の『帝国創世大戦』の戦時記録である。
「三百年前、この地は初代皇帝と魔神の軍勢が激突した最終決戦の地でした。その際、帝国軍が投じた戦略級の古代魔導兵器――『天神の槍』。その巨大な残骸が、今なおこの荒野の中央、地中深くへと突き刺さったまま放置されているのではありませんか?」
クラウスの眉が微かに動いた。
「……よく見抜いたな。その通りだ。深さ百メートルの地底に、折れた古代の杭が一本、埋没している。だが、あまりの巨大さと周囲の瘴気ゆえに、過去の工兵部隊では掘り起こすことすら叶わなかった」
「やはりそうですわ」
エレオノーラは確信に満ちた笑みを深めた。
「瘴気の正体は、魔獣などではありません。大地の生命線である霊脈に、その古代兵器の残骸が深く突き刺さり、魔力の循環をせき止め、出口を失った大地の魔力が腐敗して噴き出していた――いわば大地の『壊疽』だったのです」
エレオノーラはペン先を、地図上の山脈の麓へと走らせた。
「そして、その壊疽のすぐ下……黒嶺山脈の地下深くには、帝国内でも類を見ない規模の『霊熱地脈(超高温の魔力温泉水脈)』が眠っています。大地の魔力が塞き止められていたせいで、この莫大な熱源が地表へ上がってこられず、結果として大地が万年雪と氷土に閉ざされていたのです」
静まり返る部屋。
ヨアヒムは息を呑み、鳥肌が立つのを抑えられなかった。
帝国の学者たちが何百年もの間、「北方の呪われた気候」「神に見捨てられた極寒の不毛地」と結論づけていたこの地の真実を、彼女はわずか数枚の古い測量図と地質データから、完璧に解き明かしてみせたのだ。
「そこで、我がヘスブルク家の古代魔導の出番ですわ」
エレオノーラは背筋をピンと伸ばし、誇らしげに胸を張った。
その瞳に宿るのは、一族の血統に対する絶対の矜持。
「我が家に伝わる『純潔なる浄化結界術』は、世間一般で誤解されているような、単に外敵を拒絶するだけの『壁』ではございません。……本来のヘスブルクの術式とは、乱れた大地の地脈を整流し、淀んだ瘴気を高純度の活性魔力へと濾過し、土地本来の生命循環を正常化させるための『環境再生術式』なのです」
エレオノーラは冷徹な眼差しで、かつてアルトハイム領で行っていたことを振り返る。
「アルトハイム侯爵領において、私はこの結界を農地の収穫増と魔獣除けのために使っておりました。あそこの土地は元々温暖で、地脈も安定していたため、単に魔力を注ぎ足すだけで作物が三倍に実ったのです。……あの元夫は、それを『自分の血統の徳だ』と勘違いしておりましたが」
ふ、と口元に零れる冷ややかな嘲笑。
そして彼女は、ヴァルハイト領の地図へと視線を戻した。
「ですが、このヴァルハイト領においては、使い方が異なります。結界の術式陣を反転させ、地表を覆うのではなく、地中深くの霊脈へと直接打ち込みます。ヘスブルクの浄化魔力によって古代兵器の呪縛を解き、塞き止められていた『霊熱地脈』の栓を一気に引き抜くのです」
エレオノーラは右手に持った万年筆を軽く回し、地図の中央――赤黒い瘴気地帯のど真ん中に記された、古代兵器の埋没地点へと狙いを定めた。
そして――。
――トン。
静かな執務室に、羽ペンの硬質な先が羊皮紙を突く、心地よい乾いた音が響き渡った。
「ここです」
エレオノーラは顔を上げ、眩いばかりの自信と知性を湛えた瞳で、二人を見据えた。
その唇が、極上の勝利を予告するかのように、美しく、大胆に吊り上がる。
「この杭の周囲の呪縛を解き、地下の熱脈を地表へと解放した上で、領地全域を我が浄化結界で包み込む。そうすれば、瘴気は一瞬で清らかな蒸気へと変わり、氷点下の荒野は地熱によって温められ、見渡す限りの広大な温室農場へと化けますわ。――北の寒風を遮断し、地熱で常に春の暖かさを保つ、帝国史上最大の穀倉地帯の誕生です」
「な……温室農場……!? この極北の大地を、丸ごと温室にするというのですか……!?」
ヨアヒムが驚愕のあまり眼鏡をずり落としかけ、声を上擦らせた。
途方もない構想。神話の奇跡を現実の領地経営の数式へと落とし込んだ、前代未聞の軍略。
その壮大な計画の全貌を前にして。
背後で見守っていたクラウスが、低く、喉を鳴らすように笑った。
「……くく、ははは!」
クラウスが歩み寄り、机に手をついて身を乗り出した。
その黄金の瞳には、かつて戦場で強大な敵を前にした時ですら見せたことのない、獰猛な狂喜と、妻への底知れぬ熱情がギラギラと渦巻いていた。
「見事だ、エレオノーラ。……誰がこの頭脳を手放すものか。君を愚弄し、捨て去ったあの侯爵は、国家の富を丸ごとドブに捨てたに等しい大罪人だな」
クラウスは手袋を外した大きな掌を、エレオノーラの華奢な肩へとそっと置いた。
その掌の熱さが、ドレスの生地越しに伝わってくる。
「全軍の工兵隊、魔導部隊、ならびに大公領の全予算を君に預ける。……存分にやれ、我が軍師。君の描いた奇跡を、この北の地に現実として刻みつけてみせろ」
「ええ、お任せくださいませ、閣下」
エレオノーラは不敵に微笑み返し、ペンの先を地図から離した。
反撃の第一歩。
自らの才覚を世界に知らしめ、元夫たちを自滅の泥沼へと突き落とすための、最初の奇跡の歯車が、いま力強く噛み合おうとしていた。




