第17話:たった3日で示した実力
黒狼城から南へ軍馬を走らせること半日。
視界を埋め尽くしていた険しい山岳地帯が途切れ、突如として眼前に現れたのは、世界の果てを思わせる荒涼とした荒野だった。
――『黒枯れ平原』。
かつて三百年前の創世大戦において、神魔の血肉と古代兵器の奔流が大地を焼き尽くしたと伝えられる、悪名高き死の土地である。
吹き荒れる風は、肌を刺すような極寒の冷気とともに、鼻腔を突く刺激臭を運んでくる。硫黄と鉛が腐敗したかのような、重苦しい瘴気。
地表は凍てついた黒土に覆われ、草木の一本すら生えていない。蜘蛛の巣のように張り巡らされた無数の地割れからは、紫がかった淀んだ蒸気が絶え間なく立ち上り、どんよりとした灰色の空を覆い隠していた。
「……酷い有様だな」
馬の轡を並べ、冷徹な視線を平原へと注ぎながら、ヨアヒム・ベルンが呟いた。
その背後には、大公直属の護衛騎士団と工兵部隊が二列に整列し、さらにその後方には、近隣の寒村から集められた百名を超える農民たちが、怯えたように身を寄せ合っていた。
農民たちの着ている外套はボロボロで、頬は痩せこけ、寒さと栄養失調で赤黒く荒れている。彼らにとって、この平原は足を踏み入れるだけで寿命を縮める呪われた地獄そのものだった。
「本当に、こんな場所で麦が育つのか……?」
「帝都からいらした貴族の奥方様が、何かの魔術を見せてくださるそうだが……」
「お貴族様のお道楽に付き合わされて、凍え死ぬのが関の山だ」
農民たちの間から漏れ聞こえる、絶望と疑心暗鬼の囁き声。
彼らを責めることはできない。何百年もの間、歴代の領主や腕利きの魔術師たちが幾度となく開墾を試み、そのたびに瘴気に侵されて失敗を繰り返してきたのだ。新しく輿入れしてきたという若い大公妃の言葉など、絵空事にしか聞こえなくて当然だった。
だが、そのざわめきの中央へと進み出たエレオノーラの背中は、定規を当てたように凛と伸びていた。
身に纏うのは、活動しやすいよう裾を詰めた厚手のウール製作業着と、頑丈な革のブーツ。
華美なレースやフリルは一切なく、豊かな黒髪は邪魔にならぬよう頭の後ろで実用的に編み込まれている。その姿は、温室の貴婦人などではなく、過酷な現場を統率する誇り高き技術者のそれだった。
「――大公妃殿下、予定地点でございます」
工兵隊長が進み出て、平原の中央にぽっかりと口を開けた、巨大な縦穴を示した。
直径五メートルほどの亀裂。その深淵からは、ひときわ濃密な紫の瘴気が間欠泉のように噴き出している。
地下百メートルに眠る、古代兵器『天神の槍』の残骸――地脈を貫き、大地の血行を阻み続けている巨大な杭の直上だった。
「ご苦労様でした。皆、穴から十歩以上下がりなさい」
エレオノーラは静かに命じると、自ら携えてきた頑丈な黒革のトランクの金具を外した。
カチリ、と精巧な真鍮の噛み合う音が響く。
蓋を開いた瞬間、凍りついた空気が一変した。
トランクの内側に敷き詰められた緩衝布の中央。
そこに鎮座していたのは、拳大の完璧な正八面体を象った青白い結晶――エレオノーラがアルトハイム侯爵邸から回収してきた、ヘスブルク伯爵家秘伝の『古代魔導核』だった。
大気中の魔力と共鳴し、呼吸をするかのように微かな燐光を放っている。
エレオノーラは白手袋を外し、素手でその魔導核を持ち上げた。
指先から伝わる、肌を刺すような高密度の魔導振動。
(私の祖先が遺し、私が五年間磨き上げてきた、命を育むための力……)
前世の記憶が、網膜の裏を過る。
アルトハイム侯爵領の豊かな田園。自分がこの力を注ぎ込み、黄金色に実らせた麦畑を前にして、元夫ユリウスはいつも嘲笑うように言っていた。
『大地の神が我が侯爵家を祝福しているのだ。お前のまじないなど、ただの気休めにすぎん』と。
どれほど成果を出しても、どれほど領民の飢えを救っても、その手柄はすべて「当主の徳」として奪われ、自分は「数字しか能のない陰気な女」と罵られ続けた。
だが、ここはもう、あの搾取の館ではない。
自らの才覚を信じ、命を預けてくれた王と、明日を生きるために震えている民がいる場所だ。
「……始めます」
エレオノーラは縦穴の縁に膝をつくと、大地の亀裂の真上、宙空へと魔導核を静かに掲げた。
そして、ゆっくりと瞼を閉じ、肺腑の底から息を吐き出す。
「――大地の脈動よ。凍てつき、腐爛した血潮を洗い流し、清らかなる原初の循環へと還れ」
澄み渡るソプラノが、吹き荒れる寒風を切り裂いて響き渡った。
その瞬間、エレオノーラの華奢な身体から、眩いばかりの青金色の魔力が奔流となって解き放たれた。
ゴオオォォォォォォッ!!
突風が巻き起こり、エレオノーラの作業着の裾を激しく吹き煽る。
彼女の指先から紡ぎ出されたのは、幾百、幾千もの精緻な幾何学魔導文字。
空中に展開された文字群は、瞬く間に直径五十メートルを超える巨大な立体術式陣を形成し、魔導核を中心として複雑怪奇に回転を始めた。
「な……っ!? なんだ、あの術式の規模は……!?」
工兵隊の魔術師が腰を抜かし、叫び声を上げた。
「詠唱もなしに、一人でこれほどの高密度術式を展開するだと!? 儀式魔術師団が総出で三日かかる術式だぞ!」
だが、驚愕はそれだけに留まらなかった。
エレオノーラが右手を翻し、術式陣を地面へと強く押し下げる。
「反転――『浄化濾過』、起動!」
ドォォォォォォォンッッ!!
大気を震わせる重低音とともに、魔導核から放たれた極太の黄金の光柱が、縦穴の奥深く、地下百メートルの地底へと突き刺さった。
地鳴りが起きた。
グラグラと足元の岩盤が激しく揺れ、地割れの底から、まるで巨大な怪物が断末魔の叫びを上げたかのような金属の軋み音が響き渡る。
三百年間、霊脈を塞き止めていた古代兵器の杭――その周囲にこびりついていた腐敗した呪詛が、ヘスブルクの純潔なる浄化魔力によって、瞬く間に粉砕され、剥ぎ取られていく。
そして、次の瞬間。
シュアァァァァァァッッ!!
耳を劈くような凄まじい蒸気音が爆発した。
地割れという地割れから、それまで噴き出していたおぞましい紫色の瘴気が、一瞬にして純白の清らかな湯気へと変貌を遂げたのだ。
地下の巨大な熱源――『霊熱地脈』の栓が、完全に引き抜かれたのだ。
「うわあっ!?」
「熱い……いや、温かいぞ!?」
騎士たちや農民たちが顔を覆う。
吹き上がったのは、猛毒のガスではない。ミネラルを豊富に含んだ、心地よい温泉の蒸気だった。
白煙は黄金の結界の光に包まれながら平原全体へと広がり、氷点下十度を下回っていた凍てつく空気を、春の陽だまりのような柔らかな温もりで一気に塗り替えていく。
さらに、奇跡は大地そのものへと波及した。
地熱を浴び、浄化された霊脈の水が染み渡るにつれて、何百年もの間カチカチに凍りついていた黒枯れ平原の土壌が、ジュウジュウと音を立てて解凍されていく。
毒気に侵されて黒ずんでいた土は、わずか数分のうちに、水分と養分をたっぷりと含んだ、ふかふかの芳醇な黒土へと生まれ変わっていった。
「あ……ああ……」
農民の老人が、へたり込んだまま震える手で足元の土を掬い上げた。
温かい。
氷の塊だったはずの土が、手の中で柔らかく崩れ、微かに湯気を立てている。
生きている。大地が、息を吹き返している。
「……ヨアヒム殿」
汗に濡れた前髪を払い、息を整えながら、エレオノーラが振り返った。
その表情には疲れの色があったが、瞳は夜明けの星のように冴え渡っている。
「用意していた種袋を」
「は、はっ……!」
我を忘れて見惚れていたヨアヒムが、慌てて馬の鞍から麻袋を下ろし、駆け寄ってきた。
袋の中に入っているのは、エレオノーラが実家から持ち込み、寒冷地用に魔導品種改良を重ねていた『紅氷小麦』の種籾である。
エレオノーラは一握りの種を掌に取ると、解凍されたばかりの瑞々しい黒土の上へと、パラパラと撒き散らした。
そして、胸の前で印を結び、大地の結界へ最後の一押しを与える。
「芽吹きなさい」
カラン、と魔導核が澄んだ鐘の音を響かせた。
その瞬間――。
サワサワサワッ……!
大地が歌い出したかのような、無数の擦過音が広がった。
黒土の上に落ちた種籾が、目に見える速度で殻を破り、白い根を地中深奥へと伸ばす。
そして次の刹那、土を押し退けて、鮮やかな若草色の新芽が一斉に地表へと顔を出したのだ。
一つ、二つではない。
十、百、千、万――。
新芽の波は、解凍された温かな大気の中を疾走するように広がり、地平線の彼方に至るまで、見渡す限りの荒野を瞬く間に瑞々しい緑の絨毯へと染め上げていった。
「ば、馬鹿な……」
「芽が出た……? 撒いたその場で、芽吹いただと……!?」
数千人の騎士たちが剣の柄を取り落とし、口をあんぐりと開けて立ち尽くす。
吹き荒れていた北の猛吹雪は、平原の上空に展開されたドーム状の浄化結界に阻まれ、一枚の薄氷すら落ちてこない。
死の平原と呼ばれたその場所は、いまや小鳥のさえずりが聞こえてきそうな、完璧な『温室の楽園』へと変貌を遂げていた。
「おお……おおおっ……!」
耐えかねたように、農民たちが泥水も構わず地面に両膝をついた。
一人、また一人と、平伏の輪が広がっていく。
ボロボロの服を着た老人たちが、若者たちが、子供を抱いた母親たちが、緑の絨毯の上に額を擦り付け、滂沱の涙を流していた。
「神様……大地の神様だ……!」
「大公妃様……! 大公妃様万歳!!」
「聖女様だ……! 北の地を救いに来てくださった、本物の聖女様だァッ!!」
地鳴りのような歓声と、むせび泣く祈りの声が、緑の平原を揺らす。
彼らはもう、エレオノーラを疑っていなかった。
目の前に広がるこの温もりと、青々と輝く麦の新芽こそが、自分たちと子供たちの命が救われたという動かぬ証拠だったからだ。
「……大公妃殿下」
列を離れ、おずおずと歩み寄ってきたのは、先ほどまで絶望的な顔をしていた初老の農夫だった。
その震える両手には、粗末な木椀が捧げ持たれていた。
中に入っているのは、彼らが朝から煮込んでいたのであろう、具のほとんど入っていない、雑穀と塩だけの薄いシチュー。
「あ、あの……殿下のような高貴な御方に、このような見窄らしいものを差し上げるのは……万死に値すると分かっております。ですが、私たちには、今これくらいしか……お礼をお伝えできるものがなくて……」
農夫は罰を受けるのを覚悟したように、木椀を掲げたまま身を縮こまらせた。
周囲の護衛騎士たちが、毒見もしていない平民の残飯を止めようと身じろぎする。
だが、エレオノーラは制止の手を上げ、騎士たちを下がらせた。
そして、泥で汚れた作業着のまま、農夫の前にそっと膝をついたのだ。
「まあ……美味しそうですこと」
エレオノーラは微笑み、木さじを受け取ると、ためらうことなく熱いシチューを一口掬い、口へと運んだ。
塩気が強く、少し焦げた匂いのする、洗練とは程遠い味。
だが――喉を通って胃の腑へと落ちていくその熱は、驚くほど優しく、身体の芯まで染み渡っていった。
「温かいですわね」
エレオノーラは木椀を胸に抱き、心からの、花が綻ぶような柔らかな笑みを農夫へと返した。
前世でどれほど豪華な晩餐を前にしても味わえなかった、本物の温もり。
自分の力を認められ、必要とされ、誰かの命を救うことができたという、胸を満たす確かな手応え。
「殿下……っ、ああ、大公妃殿下……!」
農夫は感極まって泣き崩れ、その場に平伏した。
***
――一方、その同じ時刻。
帝都近郊、アルトハイム侯爵領。
エレオノーラが屋敷を出奔してから、ちょうど丸三日が経過していた。
領地の東部境界線、深緑の森の入り口に聳え立つ、石造りの第一見張り塔。
「……おい、交代の時間だぞ。起きろ」
「う、うーん……もうそんな時間か……」
あくびを噛み殺しながら起きてきた自警団の若い兵士が、塔の最上階の監視窓へと歩み寄った。
窓の外には、いつものように穏やかな森が広がっている。
かつてエレオノーラが張り巡らせた結界の加護により、この領地では何年間も、魔獣の咆哮すら聞こえたことがなかった。平和ボケした兵士たちにとって、見張りの任務など単なる退屈な時間潰しにすぎなかった。
「ふあぁ……今日も平和だな。帝都じゃ、当主様が愛人を囲っただの何だので大騒ぎらしいが、俺たちには関係のない話だ」
兵士は笑いながら、壁に設置された真鍮製の『領地防衛魔力計』へと視線を投げた。
結界の出力を測定するための、旧式の計器である。
普段であれば、指針は常に「百パーセント」の目盛りにピタリと張り付いているはずだった。
「……ん?」
兵士が眉をひそめ、計器のガラス面をトントンと指先で叩いた。
「なんだこれ。針が……『九十パーセント』を指しているぞ?」
「ああ? 計器の故障だろ。先代の頃から使ってるポンコツだぞ。油でも切れたんじゃないか?」
「そうか……まあ、そうだよな。結界が弱まるなんてこと、あるわけないしな」
兵士たちは笑い飛ばし、それ以上気に留めることもなく、再びトランプ博打へと興じ始めた。
――彼らは知らなかった。
第10話でエレオノーラが地下霊廟の要石に施した設定。
一日あたり三・三パーセントの均等減衰。
三日間で、ジャスト十パーセント。
術者の魔力供給を断たれた結界が、いま確実に、死へ向かって出力を落とし始めているという事実を。
そして本館では、ユリウスとセレスティアが押し寄せる借金の請求書から目を背け、「エレオノーラが泣きついてくるまで放置してやれ」と酒を煽り、領地の異変に誰一人として気づいていないという、致命的な自滅のカウントダウンを――。
***
再び、北方の黒枯れ平原。
緑の絨毯の上で、農民たちに笑顔を向けていたエレオノーラの背後から、ザッ……と重厚な軍靴の音が近づいてきた。
歓声を上げていた騎士たちと農民たちが、一瞬にして静まり返り、左右へと割れて道を空ける。
現れたのは、黒毛皮の軍外套を翻したクラウス大公だった。
その黄金の瞳は、見渡す限りの緑の大地を一瞥し――そして、その奇跡の中心で泥に汚れながら微笑む、最愛の妻の姿だけを捉えていた。
クラウスはエレオノーラの目の前まで大股で歩み寄ると、躊躇なく自らの黒革の手袋を脱ぎ捨てた。
冷たい風の中に晒された、傷だらけの逞しい素手。
男の熱い指先が、エレオノーラの華奢な右手をそっと取り上げた。
「……閣下?」
エレオノーラが小首を傾げた、その刹那。
クラウスは数千人の部下たちと領民たちの視線など一切意に介さず、エレオノーラの素肌の手の甲へ、引き寄せるように自らの熱い唇を落とした。
ちゅっ、と静寂な平原に、甘く重厚な音が響き渡る。
手袋越しではない。生肌と生肌が触れ合う、男の吐息すら火傷しそうなほどに熱い口づけ。
「ひゃ……っ!?」
エレオノーラの白磁の頬が、一瞬にして林檎のように真っ赤に染め上がった。
クラウスは唇を離すと、片腕でエレオノーラの腰を強引に抱き寄せ、広場を埋め尽くす全軍、全領民へ向けて、雷鳴のごとき誇らしげな声を轟かせた。
「――見たか、我が領民よ!!」
ビシィッ! と騎士たちの長槍が掲げられる。
「これこそが、我がヴァルハイト大公領の誇る真の頭脳! 私が見初め、我が命のすべてを捧げた、世界で唯一無二の大公妃だッ!!」
ウォオオオオオオオオッッ!!
平原を割らんばかりの歓声と雄叫びが、北の空へと木霊した。
抱き寄せられた逞しい胸板の熱さに、エレオノーラは心臓が口から飛び出しそうなほどの動揺を覚えながら、男の精悍な横顔を見上げた。
冷徹なビジネスライクな契約のはずなのに。
この男の腕の中は――北の吹雪すら溶かし尽くすほどに、あまりにも熱すぎた。




