第18話:大公の甘すぎる執愛
深夜二時を告げる城内時計の低く重い鐘の音が、黒狼城の分厚い玄武岩の壁を微かに揺らして消えていった。
南向きのアーチ窓の外には、静寂に閉ざされた極北の銀世界が広がっている。昼間の吹雪は嘘のように止み、抜けるような漆黒の夜空には、凍てついた満天の星々が白銀の光を放っていた。
主塔最上階、大公執務室。
赤々と燃え盛る暖炉の爆ぜる音と、羊皮紙の上を滑る金属ペンの微かな摩擦音だけが、部屋を満たす静寂を心地よく刻んでいる。
「……ふむ。第三関所の通行税は完全に廃止。その代わり、領都へ直通する特許軍道を開放し、商人たちには輸送量に応じた一定の登録制ライセンス料を納めさせる……。これならば、関所役人の中抜きを根絶できる上に、流通速度は二倍以上に跳ね上がるはずですわね」
机の上に広げられた巨大な帳簿と地図に向き合い、エレオノーラは独り言を呟きながら、滑らかな筆致で数字と条文を書き連ねていた。
黒枯れ平原での奇跡的な土壌浄化から、わずか三日。
大公領南部の農地化計画はすでに工兵隊と農民たちの手によって第一期の区画整理が始まっていたが、エレオノーラの頭脳はすでにその先――収穫された莫大な穀物を領内全土、そして国境を守る各前線砦へと淀みなく循環させるための『包括的税制・流通改革案』の策定へと突き進んでいた。
机の脇には、すでに彼女が今夜書き上げた五通に及ぶ上申書の束が整然と積まれている。
貧困層の農民に対する向こう三年の免税措置。
特許農法を導入した開墾村への優先的な魔導具貸与制度。
軍の輜重隊と民間商会の輸送網を統合し、無駄な空荷の往復をなくす画期的な物流統合案。
どれ一つ取っても、帝都の財務官僚たちが数ヶ月頭を抱えて議論しても形にできないような、極めて緻密で無駄のない革新的な法案ばかりだった。
エレオノーラは右手のペンを走らせながら、ふっと小さく息を吐いた。
こめかみの奥に、じわりと鈍い疲労が滲んでいる。
だが、その唇の端には、不思議と充実した笑みが浮かんでいた。
(……不思議ね。アルトハイムにいた頃は、深夜まで書類に向かっていると、胸が鉛のように重たくて、胃の腑が締め付けられるようだったのに)
前世の五年間の記憶。
あの館では、どんなに身を粉にして働いても、返ってくるのは冷え切った侮蔑だけだった。
睡眠時間を三時間に削り、青白い顔で帳簿を合わせても、翌朝起きてきたユリウスは「まだ出来ていないのか」「陰気な顔を見せるな」と嘲笑い、セレスティアは「奥様は要領が悪くていらっしゃいますのね」と鼻を鳴らした。
自分の存在意義を証明するためには、削れるものは己の肉体と命しかなかったのだ。
(疲れたら、休めばいい。誰にも責められないし、誰にも奪われない……。そう分かっているはずなのに、ついつい筆が進んでしまうなんて。私もつくづく、根っからの仕事人間ですわね)
自嘲気味に微笑み、エレオノーラは眼鏡を外して軽く目元を押さえた。
もう一枚だけ。この関税改革の最終試算表を書き終えたら、さすがに寝台へ潜り込もう――そう思い、再びペン先をインク壺へ浸そうとした、その時だった。
ギギ……と、油の行き届いた蝶番が、微かな音を立てて開かれた。
「ジゼル? まだ起きていたの? お茶なら大丈夫よ、もうすぐ切り上げるから……」
扉の向こうに視線を向けたエレオノーラは、途中で言葉を失い、喉を詰まらせた。
入ってきたのは、忠実な侍女ではなかった。
「……こんな夜更けに、誰に言い訳をしているのだ、エレオノーラ」
低く、深く響き渡るハスキーなバリトン。
執務室の敷居を跨いできたのは、常勝の英雄にして、この巨城の絶対君主――クラウス・フォン・ヴァルハイトその人だった。
だが、その姿は、昼間の厳格な軍服姿とは致命的に異なっていた。
湯気を微かに纏った漆黒の髪は、入浴後なのか濡れて乱れ、額の上に無造作に落ちている。
身に纏っているのは、仕立ての良い黒のシルクで作られた、極めて簡素な部屋着のローブ一着のみ。
しかも、帯が緩く締められているだけで、前が大きくはだけていた。
鍛え抜かれた鋼のような分厚い胸板、無駄な贅肉の一切ない腹筋の稜線、そして歴戦の死線を物語る無数の浅い傷跡が、惜しげもなく露わになっている。
男の野性的な体温と、石鹸の清廉な香気が、冷え切った執務室の空気を一瞬にして熱気で塗り替えていく。
昼間、軍を率いている時以上の、圧倒的な雄としての存在感と威圧感。
「か……閣下……!?」
エレオノーラは息を呑み、思わず手にしていた万年筆を取り落としそうになった。
貴族の淑女として、殿方のあのような無防備極まりない姿を間近で目にしたことなど、これまでの人生で一度たりともない。
前世の夫ユリウスは、見栄っ張りで着飾ることばかりに執着し、夜の寝所ですら完璧に整えたナイトガウンを纏っていた。このような、剥き出しの生命力と肉体美を叩きつけるような男を、エレオノーラは知らなかったのだ。
クラウスは音もなく軍靴――ではなく、柔らかな室内履きを踏みしめ、大股で作戦机の前まで歩み寄ってきた。
その黄金の瞳が、机の上に散らばる分厚い書類の山を一瞥し、次いで、エレオノーラの目の下に微かに浮かんだ青い隈を捉える。
男の眉根が、あからさまに不機嫌そうに歪められた。
「……まだ起きていたのか」
「あ、あの……閣下、これは大公領の税制改革に関する至急の提案書でございまして……。黒枯れ平原の開墾が進む前に、物流のボトルネックを解消しておかねば、秋の収穫期に流通が麻痺する恐れが……」
エレオノーラは動揺を隠すように、早口で書類を指し示した。
理路整然とした仕事の言い訳。これならば、いかに厳格な大公であろうと納得せざるを得ないはずだ――そう信じて。
だが、クラウスは彼女の言葉に耳を貸す気など、最初から一ミリも持ち合わせていなかった。
スッ、と大きな手が伸びてきた。
クラウスはエレオノーラの細い指先から、万年筆を無言でスッと抜き取ったのだ。
そして、机の上のインク壺へと、カチャリと音を立てて戻す。
「あ……閣下?」
「喋るな」
短く命じられた刹那。
クラウスの両手が、机越しではなく、エレオノーラの脇の下へと躊躇なく差し込まれた。
「ひゃっ……!?」
抗う間もなかった。
大の男すら片手で叩き伏せる剛力によって、エレオノーラの華奢な身体は、まるで羽毛か紙人形のように軽々と持ち上げられたのだ。
ふわりと浮遊感が身体を支配した次の瞬間――。
トン。
衣擦れの音とともに、エレオノーラのお尻が着地したのは、座っていた椅子の上ではなかった。
書類や地図が広げられていた、重厚な一枚板の【執務机の上】だった。
「な……ななな、何を……!?」
エレオノーラは完全に混乱し、ドレスの裾を押さえながら目を白黒させた。
机の上に腰掛けさせられ、足が宙ぶらりんになる。
そして、その目の前には――机に両手をつき、エレオノーラの身体を左右から完全に閉じ込めるように身を乗り出してきた、クラウスの筋骨隆々たる巨躯があった。
逃げ場がない。
顔を上げれば、わずか十数センチの距離に、湯気を纏ったクラウスの濡れた漆黒の髪と、鋭利な美貌がある。
はだけた胸元から放たれる熱い体温の匂いが、エレオノーラの顔面を容赦なく直撃していた。
「で、殿下……!? 机の上など、不作法です! それに、まだ書類の半分も検分が終わって――」
「誰が夜更かしを許可した」
クラウスの低く掠れた声が、エレオノーラの抗議をあっさりと呑み込んだ。
黄金の瞳が、至近距離からエレオノーラの瞳を真っ直ぐに射抜く。
「私の妃の健康管理も、大公たる私の重大な職務だと言ったはずだ。……時計を見ろ。深夜二時を回っている。なぜ寝台に入っていない」
「そ、それは……早くこの改革案を仕上げなければ、大公領の財政が……」
「財政など、一日寝るのが遅れたところで破綻などせん」
クラウスは吐き捨てるように言い放ち、わずかに顔を近づけた。
吐息が唇にかかる。
「だが、お前が倒れれば、我が大公領は真の心臓を失う。……どちらが重大な損失か、その類稀なる頭脳で計算してみろ」
「うっ……」
完璧な論理の包囲網。
数字と合理性を突きつけられ、エレオノーラはぐうの音も出なくなって唇を噛んだ。
それにしても――近い。あまりにも距離が近すぎる。
クラウスの切れ長の瞳に、真っ赤になって動揺している自分の顔が克明に映り込んでいるのが見える。
エレオノーラは心臓が口から飛び出しそうなほど激しく跳ね上がるのを感じ、思わず両手で自らの膝を固く握りしめた。
(どうして……どうしてこの方は、こんなにも当たり前のように、私に触れてくるの……?)
混乱と羞恥で、脳が焼き切れそうだった。
前世の記憶が、呪いのように蘇る。
ユリウスは、夜の寝所でエレオノーラに触れることすら嫌悪していた。
『お前のような色気のない女を抱く男の身にもなれ』
『まるで冷たい石像を相手にしているようだ。帳簿の埃の匂いしかしない女に、情欲など湧くはずがないだろう』
そう吐き捨てられ、背中を向けられて孤独に震えた夜が、どれほどあったことか。
自分は女性としての魅力が欠落しており、殿方に情熱を向けられる価値などないのだと、五年間かけて骨の髄まで刷り込まれてきたのだ。
それなのに。
目の前の男――帝国最強の軍神と恐れられるクラウスの瞳にあるのは、嫌悪でも義務感でもなかった。
そこにあるのは、息が苦しくなるほど濃密で、今にも自分を丸ごと喰らい尽くしてしまいそうな、剥き出しの『熱情』だった。
男性から無条件に求められ、熱い瞳で見つめられることに対する免疫など、エレオノーラには一片たりとも存在しなかったのだ。
ジュウッと音がしそうなほど、エレオノーラの白磁の肌が耳の先まで真っ赤に染め上がっていく。
視線をどこに向けていいのか分からず、視線を落とすと、そこには男のはだけた逞しい胸板と鎖骨の窪みがあり、慌てて視線を上げると、クラウスの濡れた唇と目が合ってしまう。完全に八方塞がりだった。
その初々しすぎる反応を、至近距離で見つめていたクラウスの胸中には――狂おしいほどの愛おしさと、それと同じ質量の、ドス黒い殺意が渦巻いていた。
(……どれほど過酷な人生を送れば、これほど美しく聡明な女性が、自己犠牲を当たり前だと思うようになるのか)
クラウスは、目の前で赤くなって小さく震える妻の首筋を見つめ、奥歯をギリリと噛み締めた。
こんなにも華奢で、守るべき女性が。
深夜二時まで机にかじりつき、自分の身体を削って領地を救うことしか頭にない。
休むことを「悪」と思い込み、愛されることを「異常」と捉えて怯えている。
あのアルトハイム侯爵邸という豚小屋で、この女性がどれほど孤独に、どれほど過酷に心を殺され続けてきたのか。
想像するだけで、元夫ユリウスの喉笛を今すぐ引き裂き、その四肢を万年雪の底に叩き込んでやりたいという凶暴な衝動が、男の全身を駆け巡っていた。
(あの男は……国家の至宝を泥の中に打ち捨て、その心をズタズタに引き裂いたのだ。絶対に許さん。あの侯爵家が築き上げた偽りの栄華のすべてを、必ず地獄の底へと叩き落としてやる……)
クラウスは心の中で猛り狂う黒狼の殺気を、強靭な自制心でねじ伏せた。
目の前の妻に、血生臭い復讐の影を見せるわけにはいかない。
いま彼女に必要なのは、恐怖ではない。
彼女のすべてを肯定し、満たし、甘やかし尽くすための、絶対的な温もりだけだ。
クラウスは片手を伸ばし、机の上に置かれていた『税制改革案』の上申書を無造作に手に取った。
エレオノーラがビクリと肩を揺らす。
「か、閣下……?」
「関所の通行税撤廃、ならびに軍道を利用した登録制ライセンス流通改革か。……相変わらず、舌を巻くほど完璧な仕上がりだな」
クラウスは紙面を一瞥しただけで、その本質を正確に理解していた。
彼は書類を机の端へ置くと、淡々と言い放った。
「安心しろ。この原案は、すでにヨアヒムを通じて軍の兵站監査部門へ丸ごと引き渡す手筈を整えさせた。明日、私の承認印を押した上で、直ちに大公令として領内全土へ布告させる」
「えっ……? もう、ですか? まだ試算の微調整が……」
「必要ない。君の弾いた数字に狂いがないことは、黒枯れ平原の件で全軍が骨身に染みて知っている。……君の成した仕事を、私的なお道楽として握りつぶすような真似は、我が領では絶対にさせん。君の頭脳は、我が軍の最高司令部が総力を挙げて制度化し、正式な国家権力として執行する」
「……あ」
エレオノーラは胸を突かれたように目を見開いた。
この男は、自分を甘やかし、仕事を止めさせようとしながらも――自分の実績を、自分の誇りを、一ミリたりとも蔑ろにしていない。
ユリウスのように手柄を横取りするでもなく、セレスティアのように嘲笑うでもない。
公私を完璧に峻別し、彼女の実務能力を「領地の最高権力」として制度化し、守り立てているのだ。
――この人は、本当に私を認めてくれている。
――私の価値を、誰よりも高く、正当に評価してくれているんだわ……。
胸の奥がじんわりと温かくなり、強張っていた肩の力がふっと抜けた。
だが、安堵の息を漏らしたその瞬間――。
グイッ、と力強い腕がエレオノーラの細い腰を引き寄せた。
「ひゃっ……!?」
机の上で、エレオノーラの身体がクラウスの逞しい胸板へと完全に密着させられた。
驚いて声を上げる暇すらなかった。
クラウスの顔が、吸い寄せられるようにエレオノーラの首筋へと傾けられる。
フッ……と、男の熱く湿った吐息が、エレオノーラの柔らかな白頸へと吹きかけられた。
背筋を甘い電流のような痺れが駆け抜ける。
「だ、大公閣下……!? な、何を――」
言葉が続かない。
クラウスが、そのままエレオノーラの首筋へと、深く、深く、己の顔を埋めてきたのだ。
男の濡れた漆黒の髪が、エレオノーラの鎖骨を擽る。
首筋に押し当てられた男の唇の熱さが、皮膚を通して血管の奥へと染み渡っていくかのようだった。
ギュッと抱きしめられる腕の力。
まるで、戦場で唯一見つけた命の糧を、誰にも奪われまいと囲い込むような、狂おしいまでの独占欲。
そして。
耳元で、蕩けるように甘く、しかし抗いようのない威圧感を孕んだ男の低音が、囁かれた。
「――君が領地を豊かにしてくれるのは、嬉しい」
「……っ」
「我が軍の軍師として、誇らしく思う。……だがな、エレオノーラ」
クラウスの唇が、囁くたびにエレオノーラの耳朶を微かにかすめる。
熱い。吐息のすべてが、火傷しそうなほどに熱い。
「――夜くらいは、私のことだけを考えてくれ」
「…………っっっっ!?」
息が止まった。
耳元に落とされた甘すぎる言葉の毒が、エレオノーラの思考回路を完全に消し炭にした。
私のことだけを、考えてくれ。
あの、戦場では数万の敵を凍りつかせる「黒狼」が。
皇帝の異母弟であり、帝国全軍を統べる絶対強者が。
仕事を取り上げ、抱きすくめ、拗ねた猛獣のように首筋に顔を埋めながら、自分だけの関心を乞い求めている。
カアァァァッ……!!
エレオノーラの顔面が、頭頂部から爪先に至るまで、これ以上ないほど真っ赤に沸騰した。
反論の言葉など、一文字たりとも喉から出てこない。
耳まで火照りきり、指先をピクピクと痙攣させながら、エレオノーラは執務机の上で、完全に石のように固まっていた。
窓の外では、静寂な月光が二人の影を長く落としている。
冷徹に感情を損切りしたはずの元サレ妻の防壁は、極北の王の甘すぎる執愛の前に、音を立てて蕩け始めていた。




