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第25話:怪しげな救世主

東の森の結界が砕け散り、下級魔獣フォレストラプターの群れがエルム村を蹂躙したあの悪夢の夜から、半日が過ぎていた。


正午を告げる鐘の音が、鉛色の雲が立ち込めるアルトハイムの空へと重苦しく響き渡る。

だが、その鐘の音に重なるようにして、本館の正面鉄門の外からは、耳を塞ぎたくなるような地鳴りのごとき怒号と悲鳴が絶え間なく押し寄せていた。


「領主を出せ! ユリウス侯爵を出せッ!」

「エルム村の畑が全滅したぞ! 家を焼かれた村人たちをどうするつもりだ!」

「自警団に武器も渡さず見殺しにしたというのは本当か!?」

「金を返せ! 食糧を寄越せ! このままじゃ冬を越す前に飢え死にだァッ!!」


門前に押し寄せた領民の数は、優に数百人を超えていた。

怪我人を乗せた荷車、泣き叫ぶ子供を抱いた母親たち、そして鍬や棍棒を手にした血気盛んな農民の男たち。彼らを押し留めるべき自警団は、昨夜の惨劇で装備を失い、当主への忠誠心を完全にへし折られて詰め所に引きこもったままだ。

わずかに残った門番の老兵数名が、内側から閂をかけた鉄柵を必死に押さえているが、怒り狂った民衆が柵を揺らすたび、ギシギシと悲鳴のような金属音が響き渡っていた。


本館二階、かつてエレオノーラが使っていた日当たりの良い貴賓室。

いまやセレスティアの部屋となったその豪華な寝室の隅で、彼女は両耳を塞ぎ、シルクのカーテンの陰に縮こまっていた。


「……嫌。嫌よ……っ! なんなのよ、あの下賤な平民どもは……! どうして私が、あんな薄汚い連中に怒鳴られなきゃならないのよ……!」


セレスティアは爪を噛み、小刻みに震えていた。

昨夜、ユリウスと激しい取っ組み合いを演じた際にできた頬の切り傷には、雑に貼られたガーゼが白く浮いている。

自慢のミルクティー色の巻き髪は手入れもされずボサボサで、纏っているのは昨日泥とワインで汚れたままの高級ネグリジェ。

女主人の優雅な暮らしなど、どこにもなかった。

あるのはただ、四方八方から押し寄せてくる絶望的な現実の包囲網だけだった。


朝方、ユリウスは血相を変えて帝都の『帝国魔導ギルド』へと早馬を飛ばした。東部の結界を修復させるため、特級魔術師を雇い入れようとしたのだ。

だが、戻ってきた使節が持ち帰ったのは、無慈悲な門前払いの返書だった。

『臨時結界の展開費用として前金三万ゴルト。支払えぬ者に貸す魔術師など一人もいない』。

金庫にあるのは、金貨三十四枚。門前払いされるのは火を見るより明らかだった。

激昂したユリウスは、自室に鍵をかけて引きこもり、届いたブランデーをラッパ飲みしては壁にグラスを投げつけ、狂ったように喚き散らしている。

夫は完全に壊れ、頼りにならない。


そして、手元に積み上がった請求書の山。

クライン商会への五千万ゴルト。

昨日届いた特注ドレスや家具の代金、八百万ゴルト。

自警団の損害賠償、農民への見舞金、堤防の緊急補修費……。


「全部、あの女のせいよ……!」

セレスティアはドス黒い憎悪を瞳に宿し、血が滲むほど強く唇を噛んだ。

「あの地味なエレオノーラが、私への当てつけのために結界を壊して逃げたのよ! あいつが金を全部隠したから、私がこんな目に遭っているのよ……! それなのにユリウス様ったら、私を『泥棒猫』だなんて怒鳴りつけて……!」


セレスティアの胸中を満たしていたのは、自責の念などでは断じてなかった。

あるのは、理不尽に踏みにじられたという被害者意識と――何よりも、肥大化した自己愛から生まれる、強烈な逆転への執着だった。


(見返してやりたい……! ユリウス様も、あの威張り散らした女商人も、逃げ出したエレオノーラも、門の外で喚いている平民どもも……全員、見返してやりたいわ!)


もし、今ここで。

何億もの大金を手に入れ、あの忌々しい借金をすべて綺麗に返済してみせたら?

魔導ギルドに札束を叩きつけて結界を張り直させ、領民たちに金貨をばら撒いてみせたら?

『セレスティア、君こそが我が侯爵家の真の救世主だ!』と、ユリウス様は涙を流して足元に平伏し、自分を真の女主人として崇めるに違いない。

社交界の貴族たちも、自分を「類稀なる才覚で名門を救った奇跡の令嬢」と絶賛するはずだ。


(お金さえ……お金さえあれば、すべてがひっくり返るのに……!)


だが、そのお金がどこにもない。

どうすればいいのか。どこに行けば金が手に入るのか。

浅薄な頭でどれほど知恵を絞っても、答えなど出るはずがなかった。


――その時だった。


コン、コン、コン。


静まり返った寝室の扉を、軽やかでリズミカルなノックの音が叩いた。

老執事ルートヴィヒの重苦しい足音ではない。

ましてや、怒り狂ったユリウスの乱暴な蹴り破りでもない。

洗練された、どこか甘やかな貴族の所作を思わせるノック。


「……だ、誰なの?」

セレスティアはビクリと肩を竦め、掠れた声で問いかけた。


「失礼いたします、麗しきセレスティア様」


扉の向こうから聞こえてきたのは、ベルベットのように滑らかで、甘く蕩けるような若い男の美声だった。

カチャリ、とノブが回され、扉が静かに開かれる。


入ってきた人物を目にした瞬間、セレスティアは思わず息を呑んだ。


すらりとした長身に、極上のワインレッドのウールで仕立てられた最新流行のフロックコート。

胸元には繊細なレースのタイを巻き、黄金の鎖で繋がれた懐中時計が揺れている。

緩やかに波打つ金茶色の髪、彫りの深い甘いマスク、そして長い睫毛の奥で濡れたように妖しく輝く、菫色の瞳。

手には銀の細工が施された細身のステッキを持ち、その全身からは、帝都の一流サロンでしか嗅ぐことのできない、最高級白檀の甘美な香水が漂っていた。


「ふふ……突然の無作法をお許しください。門前の騒ぎが少々騒々しかったもので、裏庭の小道から失礼させていただきましたよ」


男は優雅に胸に手を当て、完璧な貴族の礼を披露した。

その佇まいは、埃と血にまみれたアルトハイム侯爵邸の惨状の中で、あまりにも場違いなほどに華麗で、眩しかった。


「あ……貴方は……」

セレスティアの記憶の引き出しが、パッと開いた。

先月、ユリウスに連れられて参加した帝都のサロンで、甘い言葉で自分を褒め称えてくれた伊達男。


「ザイデル……子爵様……?」


「ええ。覚えていてくださって光栄です、我が麗しの薔薇」


フェルディナント・フォン・ザイデル子爵。

帝国中南部に小領地を持つ名門の出でありながら、定職にも就かず、社交界で甘言を弄しては無知な令嬢や未亡人から金を巻き上げていると噂される、放蕩貴族にして稀代の山師。

だが、社交界の暗部に疎いセレスティアにとって、彼は「自分の美しさを正当に評価してくれる、親切で洗練された素敵な貴公子」としてしか認識されていなかった。


「どうして、ここに……? 外は、あんなに物騒ですのに……」


「決まっているではありませんか」

ザイデルは痛ましそうに眉をひそめ、そっとセレスティアの元へ歩み寄ってきた。

そして、床に座り込んでいたセレスティアの前に、まるで騎士のように優雅に片膝をついたのだ。

至近距離から漂う極上の香水の匂いに、セレスティアの警戒心が瞬く間に霧散していく。


「帝都で恐ろしい噂を耳にしたのです。『アルトハイム侯爵邸が借金取りに囲まれ、可憐なセレスティア様がお心を痛めておられる』と。居ても立ってもいられず、早馬を飛ばしてまいりました。……ああ、なんて痛ましいことだ。その美しいお顔に傷が……。あの無骨なユリウス侯爵は、貴女のような至宝を一体何だと思っているのか!」


「ザイデル子爵様……っ!」


セレスティアの瞳から、ボロボロと大粒の涙が零れ落ちた。

ここ数日、ユリウスからは怒鳴られ、使用人からは冷たい目で見られ、商人からは罵倒され続けてきたのだ。

そんな自分を、以前と変わらず「可憐な花」「至宝」として扱い、優しく労わってくれる男の登場。

飢えきっていた彼女の虚栄心と承認欲求が、この甘い毒に飛びつかないはずがなかった。


「聞いてくださいまし、子爵様……! 私、本当に酷い目に遭わされておりますの! 前妻のエレオノーラが屋敷の財産をすべて持ち逃げし、そのせいで借金取りが押し寄せて……ユリウス様まで私に八つ当たりをして……!」


「ええ、ええ、分かっておりますとも。貴女は何も悪くない。すべては、あの冷酷な前妻と、器量の狭い侯爵の不徳の致すところです」


ザイデルは慈愛に満ちた笑みを浮かべ、シルクのハンカチでセレスティアの涙を優しく拭ってやった。


だが――。

伏せられたザイデルの菫色の瞳の奥底で、冷酷極まりない嘲笑の光が走っていたのを、愚かなセレスティアは知る由もなかった。


(……くくっ、噂通りの頭の軽さだな。これほど御しやすい獲物も珍しい)


ザイデルは内心で舌なめずりをしていた。

アルトハイム侯爵家が破滅寸前であることは、今や帝都中の貴族や商人の間で知れ渡った公然の事実だった。正妻エレオノーラが資産を引き揚げ、黒狼大公の元へ移籍した時点で、この泥舟の沈没は確定している。

多くの貴族は関わり合いを恐れて逃げ出したが、百戦錬磨の詐欺師であるザイデルにとっては、これ以上ない「濡れ手で粟の狩場」だったのだ。

沈みゆく巨船から、残された最後の富を安値で毟り取る。

そのためには、金に困り果て、現実が見えなくなっているこの愚鈍な愛人を操るのが、最も手っ取り早い手段だった。


「セレスティア様」

ザイデルは声を一段と低め、まるで二人きりの秘密を共有するかのように、甘く囁きかけた。


「実を申し上げますとね……私のような微力な者でも、貴女のお力になれるかもしれないと思い、特別な提案を持参したのです」


「え……? お力に……?」

セレスティアが縋るように顔を上げた。


「ええ。貴女がいま最も必要とされているのは、あの忌々しい借金を一瞬で消し去り、侯爵家を救うための……莫大なる『現金』でしょう?」


「そ、そうですわ! お金さえあれば、あの商人どもを追い払って、結界も張り直せますもの!」


「やはりそうだ」

ザイデルは満足げに頷くと、懐から一枚の豪奢な羊皮紙を取り出し、セレスティアの目の前に広げて見せた。

そこには、南方の地図と、豪華な帆船の絵、そして帝国の公的認可を模した金色の印章がこれ見よがしに印刷されていた。


「これをご覧いただけますか。いま、帝都の限られた大貴族の間で極秘裏に進められている、【南方新航路開発・特命投資ファンド】です」


「なんぽう……しんこうろ……?」


「ええ。未開の南方諸島から、金や香辛料、そして最高級の魔導宝石を独占輸入するための国家規模の大事業ですよ。すでに第一陣の船団が出航し、莫大な積載物を積んで帰港しつつあります。……この事業に一口出資するだけで、わずか【一ヶ月後には、元本が三倍】になって配当金が支払われるのです」


「さ……三倍……!?」


セレスティアの瞳孔が、カッと見開かれた。

三倍。

その言葉の魔力に、彼女の貧相な脳髄が一瞬で沸騰した。


「ほ、本当ですの……!? 一ヶ月で、三倍に……!?」


「ええ、嘘偽りなどございません。帝室の一部の高官も出資している絶対確実な投資案件です。本来であれば、私の一族の枠だけで締め切るはずだったのですが……窮地に陥った貴女の涙を見て、居ても立ってもいられなくなったのです。もし貴女が望むなら、私の出資枠の半分を、特別にお譲りしても構いませんよ」


ザイデルは甘い笑みを浮かべ、セレスティアの耳元で蠱惑的に囁いた。


「考えてもご覧なさい。もし今、五千万ゴルトを出資すれば……来月には【一億五千万ゴルト】の現金になって戻ってくるのですよ?」


「いちおく……ごせんまん……!」


セレスティアの息が止まった。

一億五千万ゴルト。

そんな大金があれば、クライン商会の借金五千万を返しても、なお一億ゴルトが手元に残る。

特注ドレス代も、家具代も、魔導ギルドの結界修復費も、すべて一括で支払ってお釣りがくる。

それどころか、毎日最高級の宝石を買い漁り、シャンパンの風呂に入り、帝都で一番贅沢な暮らしができるではないか!


(これよ……! これこそが、神様が私に遣わしてくださった奇跡よ!)


セレスティアの頭の中で、薔薇色の妄想が際限なく膨れ上がっていく。

一ヶ月後、一億五千万の金貨の山を前にして、ユリウス様は腰を抜かして自分に縋り付くだろう。

『セレスティア、君こそがアルトハイムの真の女神だ!』と。

逃げ出したエレオノーラも、歯噛みして悔しがるに違いない。

自分はただ愛人として囲われるのではない。アルトハイム侯爵家を自らの手で救い、富をもたらした、真の偉大な女主人として歴史に名を残すのだ!


しかし――。

有頂天になりかけたセレスティアの顔が、ふっと曇った。


「で、でも……ザイデル子爵様。私……今、手元に現金がありませんの。金庫には金貨三十四枚しか……」


「ああ、もちろん存じておりますとも。今すぐ現金を払えなどと、野暮なことは申しませんよ」


ザイデルは待ってましたとばかりに、薄い唇を三日月のように歪めた。

罠の底へと、最後の一押しを落とし込む瞬間。


「貴族の投資というものはね、現金がなくても『担保』さえあれば成立するのですよ。アルトハイム領の資産の一部を、ほんの一ヶ月間、書類上で担保としてお預けいただくだけで結構なのです。来月、配当金の一億五千万が入れば、担保など即座に自動解除されますからね。貴女には何のリスクもありません」


「まあ……! 担保だけでよろしいの!?」

セレスティアはパッと顔を輝かせた。


「ええ。そうですね……あまり価値のない荒れ地などでは信用枠が足りませんから……。そうだ、領都のすぐ裏手にある、あの【領営穀物倉庫の全備蓄米】を担保物件として設定いたしましょう。あれならば、帝都の査定人からもすぐに五千万の信用枠が下ります」


「備蓄米……?」

セレスティアは小首を傾げた。


「ええ。ただの倉庫に眠っている小麦やライ麦ですよ。腐らせておくだけでは一銭にもならないでしょう? 一ヶ月間、書類上で我が商会に名義を預けておくだけでいいのです。来月には配当金で買い戻せば済む話ですからね」


――ただの、倉庫に眠っている小麦。


セレスティアにとって、それは単なる「穀物の山」にしか見えていなかった。

だが――それが何を意味するのか。

領営穀物倉庫の備蓄米とは、万が一の凶作や魔獣被害に備え、エレオノーラが血の滲むような管理によって蓄え続けてきた、【アルトハイム領民数万人分の命綱】そのものだった。

東部の結界が破れ、エルム村の農地が焼かれた今、この備蓄米こそが、領民たちが冬を生き延びるための最後の希望だったのだ。


それを、一ヶ月後に倍になると信じ切った架空の投資話の担保として差し出す――。

領民の命を丸ごと人質に取って賭場に放り込むに等しい、狂気の背信行為。


だが、数字も、農業も、領地経営の責任も何一つ理解していないセレスティアには、その重みが一ミリも理解できていなかった。

(小麦なんて、また秋になれば畑から勝手に生えてくるものね。一ヶ月預けるだけで一億五千万になるなら、安いものだわ!)


「分かりましたわ! その投資、お受けいたします!」

セレスティアは即座に叫んだ。


「素晴らしいご決断だ、セレスティア様! 貴女こそ真の賢婦人だ!」

ザイデルは満面の笑みで讃え、手早く鞄から一枚の分厚い契約書を取り出した。

『南方新航路開発組合・出資担保設定契約書』。

書類の末尾には、借入金額五千万ゴルト、担保物件として「アルトハイム領営第一〜第四穀物倉庫の全収蔵物」と、逃れようのない法務文字で明記されている。


「さあ、こちらにサインと、侯爵家の印章を」


ザイデルが万年筆を差し出す。

セレスティアはペンを受け取ったが、ふと手を止めた。


「あの……私、まだ正式な婚姻届を出していない男爵令嬢ですの。私のサインだけで、侯爵家の担保契約が結べますかしら?」


「おや、ご心配なく。……貴女は、お持ちでしょう? ユリウス閣下から託された、あの【白紙委任状】を」


「あっ……!」


セレスティアは思い出した。

第23話で、洋服店に突きつけられた、ユリウス直筆の署名捺印入りの白紙委任状。

実はあの時、セレスティアはユリウスから「三枚」の白紙便箋を騙し取っており、残りの二枚を自室の宝石箱の底に隠し持っていたのだ。

さらに、昨日ユリウスが泥酔して執務室で倒れていた際、机の引き出しからこっそり盗み出しておいた【侯爵家の予備印章】すら、彼女のポケットの中にあった。


「ふふ……ありますわ。いくらでもありますわ!」


セレスティアは勝ち誇った笑みを浮かべると、宝石箱から白紙委任状を引っ張り出し、契約書の束に重ねた。

そして、躊躇することなく、羽ペンを走らせた。


『アルトハイム侯爵家女主人代行 セレスティア・ランベルト』


流れるような文字で自署し、ポケットから取り出した金色の予備印章を、朱肉につけて――。


――ドンッ。


重厚な真鍮の印章が、契約書の末尾へと押し下ろされた。

鮮血のような朱色の魔導インクが、羊皮紙の繊維へと深く、深く染み込んでいく。


「……終わりましたわ!」

セレスティアは満足そうに息を吐き、ペンを置いた。

その瞳は、来月手に入るはずの莫大な黄金と、救世主として称賛される自分の姿を夢見て、爛々と輝いていた。


「さあ、ザイデル子爵様! これで契約成立ですわね! 来月の一億五千万ゴルト、楽しみにしておりますわ!」


「ええ……ええ、もちろんですとも、麗しきセレスティア様」


ザイデルは契約書を丁寧に折り畳み、懐深くに収めると、ゆっくりと立ち上がった。

その口元に浮かんでいたのは――。

もはや優雅な貴公子の仮面を完全に脱ぎ捨てた、獰猛な毒蛇のような、悪辣極まりない三日月型の笑みだった。


「貴女のこの尊いご決断を、私は生涯、忘れませんよ。……アルトハイム侯爵家の命運を、見事に買い取らせていただきました」


ザイデルは恭しく一礼すると、一度も振り返ることなく、足早に寝室を後にした。

廊下に響く、軽やかなステッキの音。


セレスティアはベッドの上で、手鏡を覗き込みながら、頬の傷を隠すように笑みを浮かべていた。

「ふふ……見ていなさい、ユリウス様。私こそが、この家を救う真のヒロインなのよ……!」


彼女は知らなかった。

ザイデル子爵の言う「新航路」など最初から存在しない架空のペーパーカンパニーであり、彼が手に入れたかったのは、食糧危機に瀕したアルトハイム領の備蓄米を、闇市場で高値で売りさばくための「強奪の権利」そのものであったことを。


そして。

領民の命綱である備蓄米が奪われたと知った時、門前を取り囲む民衆の怒りが、どれほど恐ろしい業火となってこの屋敷を焼き尽くすことになるのかを――。


窓の外。

夕暮れの風が吹き荒れ、アルトハイム領の空を、血のように不気味な暗雲が覆い尽くそうとしていた。

破滅への決定的な引き金が、いま、己の手によって完全に引かれた。

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