第22話:金庫が空っぽ!?
本館の華やかなサロンから地下へと続く石造りの階段は、まるで墓所の底へと落ちていくかのように冷え切っていた。
壁面の燭台が投げかける頼りない橙色の炎が、濡れたような黒い玄武岩の壁を照らし出す。
一歩降りるごとに、湿り気を帯びた埃の匂いと、何百年もの間に堆積した冷気が足元から這い上がってきた。
先頭を進むのは、漆黒の強化革鎧に身を包んだ二名の帝国法務執行官。そのすぐ後ろを、背筋を寸分の狂いもなく伸ばした法務尚書ヴォルフラム・ライヒと、黒檀のステッキを軽やかに鳴らすマレーネ・クラインが続く。
「……ふ、ふん! わざわざこんな薄暗い地下まで足を運んで、ご苦労なことだな!」
階段の途中で、ユリウス・フォン・アルトハイムは息を荒げながら、虚勢に満ちた声を張り上げた。
乱れた金髪を撫で付け、はだけたフロックコートの襟を正そうとするが、その指先は微かに震えている。背後には、裾の汚れたネグリジェのガウンを必死に手繰り寄せ、怯えた子鹿のようにすがりついてくるセレスティア。そして、最後尾をまるで処刑場へ引き立てられる罪人のように、青ざめた老執事ルートヴィヒが項垂れて従っていた。
「見間違いに決まっているのだ! ルートヴィヒめ、年を取って目が霞んだのだろう! 我がアルトハイム侯爵家の金庫に、金がないなどという冗談が通用するものか! いいか、扉が開いた瞬間に腰を抜かすなよ、商人風情が! 見せてやる、我が家の圧倒的な富の神殿をな!!」
階段の壁に反響するユリウスの怒声。
だが、前を行くヴォルフラムもマレーネも、一度たりとも振り返らなかった。
憐れみすら含まない、完全なる無視。その沈黙が、かえってユリウスの神経を苛立たせ、焦燥を煽り立てていた。
階段を降りきると、冷気が一段と濃密になった。
目の前に立ちはだかるのは、大人が五人並んでも届かないほどの巨大な鋼鉄の観音開き扉。
アルトハイム侯爵家・地下大金庫室。
厚さ三十センチを超える防弾鋼板。表面には帝国屈指の結界師によって刻まれた、三重の魔導施錠陣が施されている。外部からの破壊工作は一切受け付けず、当主と正妻のみが持つ固有の合鍵と魔力照合が揃わなければ、絶対に開かないとされる鉄壁の巨扉だった。
「さあ、見ろ! この堅牢な扉こそが、我が家の富を守り続けてきた証だ!」
ユリウスは勝ち誇ったように胸を反らせ、ルートヴィヒの手から真鍮の鍵束を乱暴にひったくった。
「退け、執行官! 当主であるこの私が自ら開けてやる!」
ユリウスは震える手で最も太い鍵を選び出し、中央の鍵穴へと力任せに突き刺した。
カチリ、と重厚な歯車が噛み合う手応え。
続けて、エレオノーラが第5話でセレスティアに手渡した、あの女主人の鍵束から抜き取った第二のキーを差し込み、回す。
本来であれば、ここにエレオノーラ本人の魔力照合が必要なはずだった。しかし、第4話の公正証書と第13話の皇帝勅許により、エレオノーラの名義と魔導契約は法的に完全抹消されている。現在の金庫は、帝国法務尚書の職権によって魔導ロックが解除され、物理的な鍵のみで開く状態へと切り替えられていた。
――ギギギギギギッッ……!
何年もの間、まともな油を差されていなかったかのような、耳障りな金属の軋み音が地下道に轟き渡った。
ユリウスは息を呑み、全体重をかけて巨大な鋼鉄の円形ハンドルを時計回りに回し、重たい扉を外側へと押し開いた。
「開け……! 我がアルトハイムの黄金よ、この無礼な者どもの目を焼き潰して――」
ユリウスの唇が、狂喜の笑みを形作ろうとした。
セレスティアもまた、金貨の山を思い描いてパッと瞳を輝かせ、ユリウスの肩越しに覗き込んだ。
しかし。
ギギ……と音を立てて完全に開け放たれた扉の向こう側――。
大金庫室の内部に足を踏み入れた瞬間。
二人の呼吸が、同時に止まった。
「……………………え?」
ユリウスの喉から、間の抜けた、擦れたような空気の音が漏れ落ちた。
――そこは、神殿などではなかった。
テニスコート一面分ほどもある、広大な地下の石造りの広間。
天井からは魔導灯が白く冷たい光を投げかけている。
だが、その光が照らし出していたのは――異様なほどに、殺風景で、がらんとした空間だった。
眩い金貨の山など、どこにもない。
銀の延べ棒の山も、高価な工芸品も、煌びやかなタペストリーの一片すらない。
壁一面に備え付けられていたはずの重厚な樫の木の保管棚は、すべて扉が開け放たれ、棚板の上にはうっすらと白い埃が積もっているだけだった。
そして。
その広大無辺な冷たい石床のど真ん中に。
まるで広い雪原に打ち捨てられた瓦礫のように、ポツンと、無造作に転がっていたのは――。
粗末な木箱が、わずかに三つだけだった。
「な……」
ユリウスの足が、ガクガクと音を立てて痙攣した。
視界が白く明滅する。
頭の奥を、巨大な杭で直接殴りつけられたかのような衝撃。
「な……なんだ、これは……!? な、何が起きているんだ……!?」
ユリウスは夢遊病者のように千鳥足で金庫室の中央へとよろめき出た。
埃の積もった棚へ駆け寄り、爪を立てて扉を次々と開け放っていく。
バタン! バタン! バタン!
空っぽ。空っぽ。どこを開けても、中に入っているのはネズミのフンと、乾燥した空気だけ。
「金貨はどこだ!? 毎年、領地から上がっていたはずの、数千万ゴルトの利益はどこへ行ったんだ!? 隠し扉か!? おい、ルートヴィヒ! 隠し金庫のレバーはどこにあるんだッ!!」
ユリウスは髪を振り乱し、狂乱した獣のように壁面を拳で叩き殴った。
ドンドン! と虚しい打撃音が石壁に響き渡る。
しかし、隠し扉などどこにも存在しなかった。この広大な部屋こそが、先代から続くアルトハイム侯爵家の唯一の公金保管庫だったのだ。
「執行官、現物の検分を開始せよ」
背後から、ヴォルフラム・ライヒの感情の籠もらない冷徹な命令が下された。
二名の屈強な執行官が靴音を響かせて進み出ると、床に転がされていた三つの木箱の前に立ち、無造作にその蓋をバールでこじ開けた。
バキッ、と木が割れる乾いた音。
中から現れたものを確認した執行官は、手元の帳簿へ淡々と万年筆を走らせ、事務的な声で読み上げ始めた。
「第一木箱……帝都旧式債券の束。満期を十年以上超過し、発行元銀行の破綻により資産価値ゼロ。紙屑と認定」
「第二木箱……先代当主の署名入り手形、ならびに賭博場への未払受領伝票の山。総額にしてマイナス二千五百万ゴルトの負債証書。資産価値ゼロ」
「そして、第三木箱――」
執行官が最後の木箱を傾けた。
ジャラッ……カラン、カラン……。
静寂な大金庫室に、酷く惨めで、乾いた金属音が響き渡った。
石床の上に転がり出たのは――薄汚れて黒ずんだ銀貨が数千枚。
それと、銅貨が少々。
金貨など、一枚たりとも混ざっていなかった。
「……現金の計量、完了いたしました」
執行官が顔を上げ、ヴォルフラムへ向けて正確無比な数字を告げた。
「アルトハイム侯爵家公金金庫内における、即時換金可能な流動現金資産。……銀貨にして三万四千枚。帝国公認レートに基づき、金貨換算にて【三十四枚(三千四百ゴルト)】。――以上でございます」
三千四百ゴルト。
その数字が、執行官の無機質な声によって確定された瞬間。
金庫室の空気が、完全に凍結した。
「さ、三千……四百……?」
ユリウスの口から、唾液とともに掠れた音が漏れた。
膝の力が完全に抜け、ドサリと、冷たい石床の上に両膝を突いた。
両手を床につき、目の前に散らばる数枚の銀貨を、信じられないものを見るように見つめる。
「嘘だ……嘘だろ……!? なぜだ! なぜこんな端金しかないんだ!? 我がアルトハイム侯爵領は、帝国屈指の富裕領だったはずだぞ! 毎年、帳簿には莫大な黒字が並んでいた! 帝都のどの貴族よりも贅沢な暮らしができていたはずだ! 金貨の山はどこへ消えたんだァッ!!」
床を叩き、血を吐くように叫ぶユリウス。
その姿は、かつて夜会で「女のくせに数字しか愛せない」と妻を見下していた傲慢な当主の面影など微塵もない、ただの惨めな敗残者だった。
「……閣下」
その時、背後から、震える声が響いた。
老執事ルートヴィヒが、死人のような顔で、ゆっくりとユリウスの傍らへ歩み寄ってきた。
老執事の瞳には、もはや主人への恐れも敬意もなかった。ただ、すべてを諦めきった深い絶望だけが沈んでいた。
「……閣下が仰る『莫大な黒字』の正体を、まだお気づきになられないのですか」
「何だと……? 何を言っている、ルートヴィヒ!」
「その黒字は……」
ルートヴィヒは胸ポケットから、ボロボロになった数枚の事業報告書の写しを取り出し、床の銀貨の隣へ置いた。
「前奥様――エレオノーラ様が、ご自身の類稀なる頭脳と実家の資金で立ち上げられた『ヘスブルク香料工房』。前奥様の一族秘伝の術式によって稼働していた『高純度結界石精製所』。そして、前奥様が自ら開発された『特許魔導新農場』から生み出されていた利益でございます」
「な……に……?」
「それらの事業権、特許権、ならびに売上金が振り込まれる口座は、すべて帝国特許庁、および帝国中央銀行において、最初から【エレオノーラ・フォン・ヘスブルク個人の信託口座】に紐づけられていたのでございます」
ルートヴィヒの声が、冷たい石壁に反響する。
「前奥様は、それらの個人口座から得られる莫大な利益を、アルトハイム領のインフラ整備、堤防工事、騎士団の維持費、そして閣下の贅沢な生活費へと、ご自身の善意と責任感によって『無償で投資・立て替え』をされていたのです! アルトハイム侯爵家本来の財政など、先代の負債によって、最初から一銭の黒字すら出ていなかったのでございます!!」
「な……ななな……」
ユリウスの頭の中で、雷鳴が轟いた。
全部、あいつの金だった?
自分が「俺の器量だ」「アルトハイムの威光だ」と誇っていた富のすべてが、あの地味で見下していた女の私財だったというのか?
(馬鹿な……そんなはずはない! 前世では……前世では、あいつが死んだ後、金庫には山のような金貨があったはずだ! 俺とセレスティアは、あの金で贅沢を極めて暮らしていたはずだ!!)
ユリウスの濁った記憶が激しく混乱する。
――そう、前世ではそうだった。
だが、それは前世のエレオノーラが、死の直前、ユリウスに脅迫され、心身をすり減らされた末に『全財産・事業権の侯爵家への無条件譲渡書』に泣く泣く署名させられたからこそ、彼女の死後にすべての口座がユリウスのものになったにすぎなかったのだ。
しかし、今世は違う。
回帰したエレオノーラは、目覚めたその瞬間から感情を完全に損切りしていた。
名義変更の書類など一枚たりともサインしていない。
それどころか、第3話で鉄壁の公正証書を結び、実家の持参金も、事業特許も、魔導核も、すべて100%自分個人の信託財産として保全し、昨夜のうちにクライン商会を通じて物理的にも法的にも完全に回収し去っていたのだ。
つまり――。
最初から、ユリウス・フォン・アルトハイムという男には、この三千四百ゴルト以外の財産など、爪の先ほども存在していなかったのだ。
「う……嘘だ……嘘だぁぁぁッ!!」
真実を理解した瞬間、ユリウスの精神は完全に砕け散った。
ガクガクと顎を震わせ、泡を吹きながら、床の冷たい石畳に何度も何度も額を打ちつける。
ゴツン! ゴツン!
血が滲むのも構わず、獣のような嗚咽を漏らす。
すべてを失った。
名門侯爵の威光も、社交界での面目も、傲慢なプライドも、すべてはあの女が差し出していた手の平の上で踊らされていた、空っぽの蜃気楼にすぎなかったのだ。
「い、嫌ぁぁぁぁぁッッ!!」
金庫室の入り口で、セレスティアが金切声を上げて頭を抱えた。
足元が崩れ落ち、四つん這いになって床を這い回る。
「嘘よ! 嘘ですわ! 金貨三十四枚ですってぇぇ!? そんなの、私のドレス代にも足りませんわよ! 私の宝石は!? 私の侯爵夫人としての贅沢な暮らしはどうなりますの!? 騙したのね、ユリウス様! 大金持ちだって言ったじゃない! 何でも買ってくれるって言ったじゃないのよォォッ!!」
愛を誓い合っていたはずの女が、いまや般若のような形相でユリウスを罵倒し、爪を立てて己の髪を掻きむしる。
かつて可憐に見えた男爵令嬢の面影はどこにもない。そこにあるのは、寄生先を失って干からびかけた、醜悪な泥棒猫の断末魔だった。
その阿鼻叫喚の地獄絵図を。
金庫室の中央、黒檀のステッキを突いたマレーネ・クラインは、ただただ冷徹に、絶対零度の眼差しで見下ろしていた。
彼女の横で、帝国法務尚書ヴォルフラム・ライヒが、懐から一枚の公的な差し押さえ令状を取り出し、白手袋の手で冷ややかに広げる。
「……監査終了」
ヴォルフラムの声が、ユリウスの絶叫を無慈悲に遮った。
「債務者ユリウス・フォン・アルトハイムの保有する現預金残高、三千四百ゴルト。クライン商会に対する確定債務五千万ゴルトに対し、弁済能力は完全に皆無であると認定する」
ヴォルフラムの視線を受け、マレーネが一歩前へと進み出た。
彼女はステッキの先で、床に打ち伏したまま痙攣するユリウスの頭のすぐ脇を、カツンと冷たく叩いた。
そして――。
商業界の女帝による、逃れようのない、完璧な破滅の宣告が下された。
「残高不足を確認いたしましたわ、アルトハイム侯爵」
マレーネの琥珀色の瞳が、嘲笑とともに細められる。
「――本日正午をもちまして。公正証書第8条、ならびに帝国強制執行法に基づき、アルトハイム侯爵家の全動産、不動産、領地、鉱山、ならびにこの本邸に対する【帝国法による強制差し押さえ登記】を、直ちに開始いたします」
床に額を擦り付けたまま、ピクリとも動けなくなるユリウス。
空っぽの金庫室に、無情なる執行の鐘が、高く、高く鳴り響いていた。




