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第21話:法務官の鉄槌

「おい、ルートヴィヒ! 聞こえなかったのか! さっさと小切手帳を持ってこいと言っているんだ!」


大サロンに響き渡るユリウスの怒声は、自らの正当性を疑わない傲慢さに満ち満ちていた。

彼はソファの上でふんぞり返り、手元のグラスに残った赤ワインを煽ると、クライン商会会頭マレーネ・クラインを侮蔑の眼差しで見下ろした。


「金ならすぐに払ってやる! 五千万ゴルトの小切手を受け取ったら、二度とその薄汚い商人面を我がアルトハイム侯爵邸に見せるな! 今すぐ出て行けッ!」


唾を飛ばして叫ぶユリウスの横で、セレスティアもまた、勝ち誇ったように桃色の扇子で口元を隠してクスクスと嗤っていた。

彼女の視線は、テーブルの上に並べられた眩いダイヤモンドやサファイアのトレイへと戻っている。夫がこれほど堂々と大金を叩きつけると宣言したのだ。五千万ゴルトすら端金として払えるのならば、自分が選んだ金貨八百枚の宝石など、砂粒ほどの負担にもならないはずだと、浅薄な頭で勝手に安堵していた。


しかし、命じられた老執事ルートヴィヒは、一歩たりとも動けなかった。

大サロンの入り口近く、絨毯の端に立ち尽くしたまま、その手にある金庫番の帳簿をカタカタと激しく震わせている。

青白い顔から滴る脂汗。喉は完全に引き攣り、主人の命令に応じる声すら出せない。

――払えるわけがないのだ。

この屋敷の金庫には、いまや金貨三十四枚分しか残されていない。五千万ゴルトの小切手など切った瞬間に、不渡り手形として帝室銀行から詐欺罪で告発されるのが関の山だった。


マレーネ・クラインは、黒檀のステッキに両手を重ね、その琥珀色の瞳に冷徹な嘲笑を浮かべていた。

「威勢が良いことですわね、アルトハイム侯爵。……ですが、本当にその小切手が紙屑ではないと、ご自身の署名をもって保証していただけますの?」


「当たり前だ! 我がアルトハイム侯爵家の信用を疑う気か! 貴族の言葉は法より重いのだぞ!」


ユリウスがテーブルをバンと叩き、立ち上がろうとした――まさにその刹那だった。


――バァァァンッッ!!


重厚なオーク材のサロン扉が、先ほどのマレーネの時とは比べものにならないほどの暴力的な勢いで、左右両開きに叩き開けられた。

響き渡る蝶番の悲鳴。

サロンの窓ガラスがビシリと鳴動し、テーブルの上のシャンパングラスが甲高い音を立てて倒れた。


「ひゃああっ!?」

セレスティアが耳を塞いで悲鳴を上げ、ソファの上に丸まる。

ユリウスもまた、跳ね上がるように立ち上がり、目を血走らせて扉を睨みつけた。


「な、何だ今度は!? 衛兵! 衛兵はどうした! 私を誰だと――」


「――静粛にせよ、アルトハイム侯爵」


ユリウスの怒号を、剃刀のように鋭利で、氷河の底から響いてくるかのような冷徹な低音が、一瞬にして切り裂いた。


扉の向こう、廊下の薄暗がりから姿を現したのは、一糸乱れぬ黒の隊列だった。

左右に二名ずつ、計四名。

漆黒の強化革鎧に身を包み、腰には帝国司法警察の証である銀の警棒と魔導手枷を佩用した、巨躯の武装執行官たち。

そして、その中央を歩み出てきた男の姿を捉えた瞬間――サロンの空気が、絶対零度へと凍結した。


仕立ての良い黒の最高級ウールで作られた、厳格極まりない帝国法務省の正法服。

胸元には、帝室より賜った『公正なる天秤』を象った白金の勲章が鈍く光っている。

銀縁の眼鏡の奥で光る、感情を極限まで削ぎ落とした灰色の双眸。

帝国法務尚書兼最高法務官――ヴォルフラム・ライヒ卿。


「な……っ!?」

ユリウスの喉から、掠れた息が漏れた。

見間違いではない。帝国の司法の頂点に立ち、皇帝の直臣として法秩序を統括する最高権力者が、自ら武装執行官を従えて、他家の私室へ土足で踏み込んできたのだ。


「し、尚書閣下……!? な、なぜあなたがこのような場所に……!?」


ユリウスの顔から、急速に紅潮した怒りの色が引いていった。

傲慢な彼であっても、目の前に立つ男の権力と冷酷さは知っていた。皇族の圧力すら平然と跳ね除け、法を犯した大貴族を何家も改易へと追い込んできた「歩く法典」。

だが、ユリウスの破綻した脳は、すぐに都合の良い解釈を捻り出そうとした。


(そ、そうだ……! 尚書閣下は公正な方だ! この無礼な女商人が、貴族の屋敷に押し入ってきたことを聞きつけて、取り締まりに来てくださったに違いない……!)


ユリウスは取り繕うように胸を張り、尊大な笑みを浮かべようと口角を歪めた。


「こ、これはライヒ尚書閣下! よくぞお越しくださいました! ご覧ください、このマレーネ・クラインという平民の女商人が、アポもなしに我が侯爵邸の私室へ押し入り、身に覚えのない借金を突きつけて恐喝紛いの暴挙を働いているのです! 直ちにこの不届き者を拘束し、帝都から叩き出して――」


「戯言を吐くな、アルトハイム侯爵」


ヴォルフラムは眉一つ動かさず、一瞥すら甘えを許さない冷徹な声で言い放った。

彼は白手袋の手を胸元に当て、背後の執行官に合図を送る。

二名の執行官が即座に前へ進み出て、サロンの出口を完全に封鎖した。退路の遮断。


ヴォルフラムは眼鏡の位置を人差し指で静かに押し上げると、懐から一枚の分厚い羊皮紙を取り出した。

そこに刻まれていたのは、帝国法務省の絶対不可侵の紋章印と、深紅の魔導認証印。


「帝国法第42条『特許持参金の信託保全条項』、ならびに貴殿自身が自署捺印した『第3回婚姻解消および財産分離事前合意公正証書』第8項に基づき――」


ヴォルフラムの声が、大サロンの隅々まで、死刑宣告の鐘のように染み渡っていく。


「――本日正午を期日とする、クライン商会に対する債務五千万ゴルトの弁済遅延を確認。よって、帝国最高法務省の名において、アルトハイム侯爵家の全資産状況に対する【公式監査】、ならびに全動産・不動産に対する【仮差し押さえの即時執行】を通告する」


ゴオオォォォ……と、部屋の暖炉の炎が風に吹かれて爆ぜた。

静まり返るサロン。


「……は?」

ユリウスの口から、間の抜けた音が零れた。

何を言われたのか、理解が追いつかない。

公式監査? 仮差し押さえ?

相手は商人ではなく、国家そのものだというのか?


「な……な、尚書閣下……? な、何を仰っているのですか? 仮差し押さえなどと……! なぜ、帝国の法務尚書であるあなたが、直々にこのような下らない借金取りの味方をするのです!? 私は名門アルトハイム侯爵家の当主ですよ!?」


ユリウスは叫んだ。信じたくない現実を拒絶するように、唾を飛ばす。


しかし、ヴォルフラムの灰色の瞳には、一片の揺らぎも、温情の欠片も宿っていなかった。

彼は冷え切った視線をユリウスの顔面に突き刺したまま、吐き捨てるように告げた。


「下らない借金、だと? ……貴様のその腐りきった脳髄には、己が署名した契約の重みすら理解できんのか。これは私的な金銭トラブルなどではない。帝国法務尚書の公印のもとに作成された公正証書を反故にし、帝国の金融秩序を根底から揺るがす、【国家の基本法に基づく正規の債務不履行案件】だ」


「な……っ!」


「貴様は正妻エレオノーラ様を不当に放逐し、女主人の権限を愛妾へと委譲した。その瞬間、公正証書第8条に定められた『債務の単独引き受け条項』が発動したのだ。貴様は五千万ゴルトの支払いを自らの意志で引き受け、そして期日である正午までに一ルクスたりとも支払わなかった。……法において、これ以上の明確な契約違反は存在しない」


ヴォルフラムの言葉は、まるで鋼鉄の楔のように、寸分の狂いもなくユリウスの逃げ道を塞いでいた。


――仕組まれていたのだ。

第3話の深夜、エレオノーラがヴォルフラムを密かに呼び出して結んだ、あの公正証書。

そこには、単に離婚時の財産分与を取り決めるだけでなく、『債務の履行が遅延した場合、債権者からの申し立てを待たず、法務尚書の職権によって即日介入し、強制執行を開始する』という、悪魔のように精密な【即日介入特約】が完璧に組み込まれていたのだ。


私怨でも、陰謀でもない。

ユリウスが調印した法文が、法律という冷徹な機械となって、自動的にユリウス自身の首を絞め上げているだけの現実。


「嘘よ……! そんなの嘘ですわ!!」


静寂を破ったのは、ソファから飛び起きたセレスティアの金切声だった。

彼女は派手なピンクのフリルを揺らし、涙目でヴォルフラムの前へと進み出た。いつものように、男の庇護欲をそそる可憐な被害者を演じようと、胸元を震わせて上目遣いに見上げる。


「尚書閣下! 酷いですわ! 私は身寄りのない、ただユリウス様を愛しているだけの哀れな令嬢ですの! エレオノーラ様という冷酷な悪妻が、私たちを困窮させるために罠を仕掛けたのですわ! どうして法が、あんな性悪女の味方をして、可哀想な私とユリウス様をいじめるのですか!?」


ポロポロと涙を流し、縋りつくような視線を送るセレスティア。

多くの甘ったるい貴族男性であれば、その姿に毒気を抜かれ、言葉を濁したかもしれない。


だが。

相手は、情愛や色香といった不確定要素を最も軽蔑する「歩く法典」ヴォルフラム・ライヒだった。


ヴォルフラムは、セレスティアの派手なネグリジェ姿、塗りたくられた白粉、そしてテーブルの上に広げられた金貨八百枚の宝石類を、上から下へと冷徹に検分した。

そして――その薄い唇が、虫唾が走るのを隠そうともしない、絶対的な侮蔑の形へと歪められた。


「……見苦しいな、小娘」


「え……?」

セレスティアが息を呑み、涙を止めた。


「身寄りのない哀れな令嬢だと? 笑わせるな。昼間から公娼のような薄汚い肌着を晒し、他人の血と汗の結晶である屋敷に居座り、領民の飢えをよそに宝石を貪る寄生虫が、よくもその口で『哀れ』などと抜けたものだ」


「な……き、寄生虫……ッ!?」

セレスティアの顔から、一瞬で血の気が引いていく。

貴族の男性から、これほど容赦のない、ドブネズミを見るかのような言葉を投げつけられたことなど、彼女の人生で一度もなかった。


ヴォルフラムは眼鏡の奥の灰色の瞳を冷酷に細め、容赦のない正論の刃を叩きつけた。


「法を蔑ろにし、他人の財産を食い荒らす寄生虫に情けをかける条文は――帝国法には一行も存在しない」


ピシャリと、平手打ちを食らわせるような宣告。

セレスティアは屈辱と恐怖のあまり、言葉を失ってガタガタと震え、後退ってソファへと崩れ落ちた。


「き、貴様……! セレスティアに向かって何という無礼を!」

ユリウスが怒りに任せて前に出ようとする。

だが、その瞬間、ヴォルフラムの背後に控えていた二名の執行官が、腰の長剣の柄に手をかけ、カチャリと威嚇の音を立てた。

その殺気に呑まれ、ユリウスの足がピタリと止まる。


「アルトハイム侯爵」

マレーネ・クラインが、ステッキを鳴らして冷ややかに告げた。

「先ほど貴方は、五千万ゴルトの小切手を今すぐ切ると豪語なさいましたわね? ……さあ、どうぞ。尚書閣下の御前です。その有り余る富を証明し、小切手を切ってご覧なさいな」


「ぐ……っ、る、ルートヴィヒ!」

ユリウスは逃げるように、入り口で震える老執事へと振り返った。

「何を突っ立っている! 早く大金庫の小切手帳をここに持ってこい! この無礼者どもの目の前でサインして、叩き出してやる!」


しかし。

ルートヴィヒは、もはや涙を流すことすら忘れた虚ろな瞳で、ただ首を横に振った。


「……閣下。小切手を切ることなど、叶いません」


「何だと!? なぜだ!」


「残高が……ないのです」

老執事の声は、死者の呻き声のように掠れていた。

「今朝、法務省より資産分離命令が下り、前奥様名義の全口座が凍結されました。現在、我が侯爵家の口座、ならびに大金庫に残されている現金は……銀貨換算で、わずか三千四百ゴルトしかございません……」


「三千……四百……?」

ユリウスの思考が停止した。

「何を馬鹿なことを言っているんだ! 金庫室には、毎年何千万もの金貨が運び込まれていたはずだぞ! 見間違いだ! お前が見落としているだけに決まっている!!」


「見間違いなどではありませんッ!!」

ルートヴィヒの絶叫が、サロンに木霊した。

「あれはすべて、前奥様が自らの才覚で稼ぎ出していたお金だったのです! 閣下の金など、最初から一銭も存在しなかったのです!!」


静まり返るサロン。

ユリウスの顔面が、蒼白を通り越して、土気色へと変色していく。

頭の奥で、何かがガラガラと音を立てて崩壊していく音が聞こえていた。


その光景を見届けていたヴォルフラム・ライヒは、一切の同情を挟むことなく、右手の白手袋をキュッと引き締めた。

そして――冷徹に、事務的に、処刑の執行を告げるように、指先を高く掲げた。


――パチンッ。


静寂を切り裂く、乾いた指鳴らしの音。


「執行官」

ヴォルフラムの声には、もはや人間的な感情の抑揚すら残っていなかった。


「――金庫室を開放せよ。1ルクスたりとも隠蔽を許すな」


青ざめ、口を半開きにして立ち尽くすユリウスの目の前で。

武装執行官たちの冷たい足音が、アルトハイム侯爵家の「空っぽの真実」を白日の下に晒すため、地下の大金庫へと向かって動き始めた。

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